#010 精霊器<ルシオラ>を手に入れた!
覚悟を決めて魔物と戦おうと決めたまでは良かった。
でもギルがちゃんと「苦戦が想定されるなら、そうしなきゃならねえ理由の有無をまず考えるもんだ」って教えてくれていたのに、追い返すことなんて頭からすっぽり抜けて息の根を止めなくちゃと必死になって、そのせいで無駄に怪我を増やしてしまったような気がする。
正直、よく生きていたなと思う。
でも毛皮を手に入れられた。僕だって何でもビジネスに変えるビンガム商会の一員だから、毛皮の剥ぎ方くらいは知っている。レティシアにもらったナイフで初めてにしてはけっこう綺麗に毛皮を剥ぐことができてギルにかけてあげられた。
あとは火を起こせればいいんだけど、燃料になるものがない。服を燃やしたら本末転倒、魔物のお肉はワンチャン食べられるかもだから燃やしたくない。
それにしても。
「痛い……」
まず左前腕ががっつり噛まれて焼けつくみたいに痛い。自分の目で見える怪我ではこれが一番深くて痛い。右手の人差し指もすごく痛くてたまらない。曲がっちゃいけない方へ曲げてしまったかも知れない。心なしか、まっすぐ伸ばすことができない。あと背中も見えないけどすごくじんじんと痛んで仕方がない。引っ掻かれたのは分かってる。それがどれくらいの傷になってるかが、自分の背中なんて見られないから分からない。
とりあえず、ぼろぼろだ。
全身痛くて、ひりひりじりじり、この寒さが少しだけ感覚を麻痺させて痛みも緩和されていると思う。
ギルだったら、野犬と大差ない魔物なんてそれこそ指一本で終わりだったはずなのに僕は満身創痍――。商会の仕事の忙しさにかまけて、約束していたのに体を全然鍛えていなかった。毎日遊びほうけるほどギルは暇なんだから、ちょっとずつ時間を取っていればもっとマシだったかも知れないのに。
「とりあえず、止血かな……」
いつまでも痛みをこらえてうずくまってはいられない。
そう。僕はもう誓ったんだ。
諦めて遺書なんて二度と書かない。だから絶望的でも生きるためにやれることは全部やるんだ。
▼
息が、苦しい。
傷も痛めば、脇腹がひきつるような痛みまである。
ずるずるとギルを引きずりながら、ただただ雪原をあてもなく歩く。世界中全て、雪に覆い尽くされちゃったんじゃないだろうかと錯覚しそうになる。
痛い。けど、末端の神経が凍えて痛ささえ感じなくなっているところもある。
とにかく歩いてばかりで方向なんて気にしてもいないけれど、どこかに僕は辿り着けるんだろうか。死後の世界以外で。
「はあ、はあっ……」
人間の体温は15度くらいでもう危険値。
ギルは大丈夫だろうか。どこか、暖を取れるところに早く行きたい。でもそんなのないんだ。それが現実なんだ。ああ、この世の何と儚いことか。
人は猛烈な厳しい自然の前には無力か。
いや。
人は自然破壊をするじゃないか。
温暖化やら、海洋ゴミやら、砂漠化。環境なんて気づいたら壊れていたレベルであっさりとぶっ壊しちゃうんだ。だったら僕だってこんな雪と氷と風の大地くらいはどうにか——いやでも個人じゃあ無理だよね。
「……」
ふと思いついたことがあって足を止める。
最早、ぴくりとも動かないギルの腰から<黒轟>を拝借する。精霊器は個人の力を超越するほどの現象を引き起こしてしまう。
だったら、この状況をどうにかしてくれるかも知れない。
でも遭難の最中にギルは使おうとしなかった。何もできないのかな。でも使いようはあるんじゃないだろうか。
問題は精霊器は人を選ぶというところだけど試してみなくちゃ分からない。
「お願いします」
<黒轟>に一応、挨拶をしてから引き金へ指をかける。
前方、何もなし。<黒轟>は何でも射出してしまう。弾丸のいらない銃。だったら火を吹くこともできる――はず。燃料がなくたって、絶えず火を吹き続ければ暖を取れるかも知れない。
「よーし、火を出して!」
引き金を絞る。——カチ、と小さな音が手応えで感じ取れた。
でも、何も、出ない。
やっぱり僕には使えないのか。
諦めて<黒轟>を戻して、もう1つの銃の精霊器である<黒威>に持ち替える。確かこれって、すごい威力なんだよね。これはさすがに使い道がないかな。この状況だし。
となると剣の精霊器――<黒迅>だっけ。
普通に剣として使っているところしか見てはいない。でもこれも精霊器のはずだよね。どういう力があるんだろう。鞘から剣を抜いてみる。すごく綺麗な剣だ。でも黒い。本来は鋼とかで鍛えられる剣身が黒くてピカピカだ。そう言えばカリストス古代遺跡のレーザー光線もこれで反射してたっけ。確かに覗き込めば自分の顔がはっきり見えるくらいピカピカ鏡面。
僕の顔ってけっこう悪くないのかな。
今はちょっと顔色悪いけど。頬が軽くこけてるように見えなくもないけど。でもモテてもいいんじゃないかなあ。まあ僕にはレティシアがいるから女の子にモテたってしょうがないんだけど。
って、そうじゃないや。
この<黒迅>が現状を打破する可能性があるかどうかだ。
「えいっ。とうっ」
とりあえず振ってみた。
思っていたよりずっと重くて振る度に体が持っていかれてしまう。何も特別なものは感じられない。
「……これはいけない……」
所詮、人は自然の前には無力だった。
そしてそろそろ、頭も動かなくなってきた。頭が動かないんじゃあ、体も動きようがないというものだ。
「やっばい……動こう……体を動かせば、温まる……といいな」
お腹すいた。
体が痛い。
白い。
寒い。
寒い。
白い。
痛い。
寒い。
そろそろ、限界かなあ。ギル、重い……。
▼
「痛っ……! やめ、あっ、ギル! やめろっ!」
今度は群れで襲われている。血の臭いっていうやつで嗅ぎつけてきたのか、狼みたいな、犬のような、でも不気味なその魔物の群れは一目散に襲ってきた。
杖を振り回して叩いても、少し怯む程度で逃げようとはしてくれない。
群がって噛みつかれ、押し倒されて、白と赤ばかりが目立つ視界でギルまで噛まれているのを見た。
「こ、のっ!」
ナイフで思い切り、体の上へ乗って首を噛んできている魔物を刺した。力が緩んで起き上がり、ギルの方へ走って杖を振って魔物を叩く。後ろから飛びかかられてしまった。左肩をやられてナイフを取りこぼす。
「痛っ——この!」
大丈夫、大丈夫だ。
鞭でしたたかに打ちつけられる方が痛かった。真っ赤に熱せられた焼き
僕はもう奴隷じゃない。
だから抵抗する。暴力なんかにやられてたまるか。
「ガアアアッ!」
3、4匹に噛みつかれてしまう。
手足がもがれそうだ。首を守って、どうにか首だけは杖を噛ませることで守れたけどそれ以外が痛い。噛み千切られそうになる。
膝をついて魔物を押し返そうとするけど、腰をまた噛まれて痛みに手が引けた。その時に何か硬いものに触れて掴み取る。さっき落とした僕のナイフだった。
「負けて、たまる、かァッ!」
逆手に持ったナイフで思い切り魔物を刺した。
悲鳴が聞こえる。離れてくれた。ナイフを振り回したけど、姿勢が悪くて僕を噛む魔物に刺せない。どうにか起き上がろうと膝をついたまま身を持ち上げた時に、右目が潰れて血を流した魔物が向かってきたのが見えた。
「ああっ、が、う――」
右目が猛烈に痛んだ。
やられた。多分だけど爪で右目を抉られた。押さえた手で熱いほどの自分の血が濡れていくのを感じる。このままじゃ噛み殺される。魔物の餌になってしまう。
どれだけ気持ちを強く持とうとしても、物理的に限界というものはある。立ち上がれない。ああ、ダメだ。これはいけない。ここまでかな。
別々の方へ、自分の取り分だとばかりに魔物に噛み千切られかけている。
でも。
一矢報いてやらないと、このまま終われない。
「一匹でも多く道連れにしてやる――!」
ナイフを握りしめて宣言してやる。
少しだけ——痛みが和らいだ気がした。力が湧いてくる気がする。
噛みついてきている魔物を、最後の力を振り絞るつもりで払いのけてやって、杖で頭を思い切り叩いてからナイフを繰り出す。毛皮はごわごわで硬く、その下の肉まで刃は通らない。
それでも少し引っ掻く程度の痛みは与えられる。
千里の道も一歩から。
一命を落とすのもかすり傷から。
「やってやる……今の僕は、何でもやってやる……!」
▼
生きてる……。
おかしい、生きてる……。
どうして僕はまだ生きてるんだろう……。
全部で6匹もいた魔物が屍になって雪の上で転がっている。僕だけ、息をして生きている。
いつの間にか吹雪はやんでいた。
確実に噛み砕かれたと感じた左足首は腫れてはいるけど、骨までは異常がなさそうだ。どっちの手か忘れたけど指の骨も折れたかしていたと思ったのに、動かすと痛むけど目立った傷はなくなっている。
「……これって、一体、どういうこと?」
ずっと夢中で握りしめていたナイフを持ち上げ、顔の上でぼんやり見る。レティシアにもらった旅装の1つ。旅歩きをしていると何かと便利に使えていた。ナイフの背で硬いものを擦れば火花が出るから火起こしもできるし、料理をする時にも何かと使えた。愛用の一品だ。
「……これって、つまり、そういうこと?」
そうじゃないと、ちょっと不思議現象すぎて説明がつかない。
それに何ていうか——地味。ギルのものみたいに強烈なド派手アイテムじゃない。
でも。
「このナイフが精霊器になって、傷が治った……?」
完治じゃないけど。
全然、痛すぎるけど。
でも確かに治ってはいる。だから生きてる。
「僕の精霊器……?」
確か精霊の力が宿った道具だったよね。
精霊さんって、目には見えないのか。いつ、これが精霊器になったんだろう。
「……精霊さん、ギルもどうにか命を繋げてあげてください」
お祈りだけしておいて、ナイフをギルの手に握らせる。
そしてまた、歩き始めた。
▼
「——んあ? うっ、んんーっ! よく寝た」
今日もすっきり快調な寝覚め。
しかしこの部屋、やたらにあったけえ。ちと暑いくらいだ。
「おい、エル? ちと暑すぎるんじゃねえか? 火ぃ弱くし——あれ、いねえ?」
てっきり近くで呑気にぐうすか寝てるのかと思ったら姿が見えない。
ここは確か、そう、酒場へ繰り出す前に取っておいた宿の部屋だ。稼ぎまくっている癖してケチだからでっけえ部屋を1室ずつ取れって言ったのに、2人で一部屋。それも大して広くもねえし、豪華でもねえボロ宿だ。
「おーい、エル? どこ行った? かくれんぼかあ? お前、そういうので遊びたがるやつじゃねえだろう?」
ベッドの下にも、物陰にもいやがらない。
仕方なしに暑すぎるくらいの部屋を出る。
「おーい、エル? どこ行ったー? 小便か?」
「あんた……!」
「ん?」
「あの子のあんちゃんだろう? そうだろう?」
「あの子って……俺の連れ? 妙なくすんだ赤髪の」
「そう、その子の! 何をのんびり構えてんのさ! ほら、こっちおいで、早く! 早くついといで!」
宿の女将というのはどこもかしこも強引だ。
ある一定の年齢を境にこういうおばちゃんに変化する。
引っ張られるまま外へ着の身着のまま連れ出されると寒くてたまらなかったが、幸いにもすぐ到着した。
「医者?」
「ほら、早くおし!」
「へいへいへいっと」
ちっさい家だが、医者だという看板がある。
中に入ると髭も髪も霜が降りてる老いぼれじいさんがいた。女将は老いぼれじいさんそっちのけで奥の部屋へ俺を引っ張っていき、そこに置かれているベッドでエルが寝ていた。
「何だこりゃ……?」
「ああ。あなた……この子の引きずってきた……。頑丈なお体でけっこうでしたな」
さっき露骨にスルーされたじいさんが来る。
「俺はあんたを知らねえぞ?」
「わしは知ってますよ。昨日、この子があなたを引きずって村へ戻りましてな。凍死寸前ではありましたが、まあ持ち直すだろうとあなたに診断しましたからの……」
「なるほど? 世話になったな。ありがとよ。
そんで——この、チビっこは一体どうしたんだ?」
「何があったかは分からないですが、随分と全身に酷い傷がありましてな……。意識を完全に失う前に、うわごとを言ってましたがね……。何でも遭難して、魔物に襲われて、2、3日もさまよい歩いていたとか。その間、ずっとあなたを引きずって移動していたそうですよ。飲まず食わずで、怪我まで負っていながら……最後は気力だけだったんでしょうな」
あー、ああー、はいはい、なるほど。
何となく思い出した。そう言えば遭難してたっけか。
「マァジでか……」
寝かせられてるエルはそりゃもうボロボロだ。
全身、あちこちに包帯やら巻きつけられて、顔色も悪いし、口元に耳をあてがうと呼吸もかなり弱い。これ以上弱ったらもう死ぬのはすぐだろうな。
「治るか?」
「どうとも言えませんな……」
「治してやってくれ」
「やれることはしてますからね……。あとは本人次第ですが、どうもあなたほど丈夫な体ではなさそうだ……」
妙に腹立つ言い方しやがるな、この医者。
さっきから丈夫だ、頑丈だ、って。何だ、医者からすりゃあつまらねえっていうことか。診たってすることねえ患者はお呼びじゃねえってか。——やべ、まだ耳にタコが残ってやがる。
「どうにか、確実にこれなら治るとか、そういう治療はねえもんか?」
「そういう都合のよろしいものはないですよ……」
「ねえのか? そうか……」
「ええ。雪獅子が棲み処にしている横穴の奥まで行って霊草を摘むとか、そういうお伽噺ですからな」
「何だ。そんなら楽な話じゃねえか。行ってくらあな。どれくらい引っこ抜けばいい?」
「へ? まあ……少しでも、たくさんでも――」
「あいよ。おばちゃんや、ありがとうよ。またしばらく留守にするが、今度は迷わず戻ってくらあな。部屋はそのままにしといてくれや」
宿に戻って装備を整える。
同じ轍は踏まない。エルの荷物から路銀をあさっておいた。これで防寒具が何かしらは手に入るだろう。
「さあて、と——雪獅子狩りか。多少は手応えありそうだったが、拍子抜けしやがったら承知しねえ」
▼
あの極寒の雪原をあてもなく数日も彷徨する――。
さらにはろくに戦えもしねえのに魔物に襲われて、てめえの図体よかずっとデカい俺を引きずって歩き続けるか。
「意外と意外に根性あるじゃあねえの、エル」
雪獅子とやり合ったことよか、その行き帰りの方がよほど疲れちまった。それなのにずっと歩き続けるとか、正気の沙汰じゃねえ。
最初はちとおかしなガキとばかり思っていたが、完璧にイカレちゃってるお子様だ。
だが、前々からそうとは感じてはいた。感じちゃいたが、確信に至ることはなかった。今回の一件までは。
賢いだけのガキなんざ、それなりにいる。
体力バカのガキなら、わんさかいる。
だがガキの癖をして大人の世界で、子ども扱いを許さず対等にいようとするガキんちょなんていうのはいない。いや、こいつが子どもなのは分かってるのに、話なんかをしているとその意識がつい消え失せていくってのが正しいか。異様だ。ガキ扱いされて喜んでそうな場面もある。そういう時はほんとに年齢相応のガキんちょにしか見えやしない。——が、やってることはガキじゃねえ。
ガキらしい短絡的な思考をしない。
大の大人でも抱くようなつまらねえ考えってのは、こいつの中では想定されるものであっても自分がやることじゃないという線引きがはっきりと刻まれている。
頭が良くて、体力はまあガキんちょ相応。
が、2、3日も遭難して魔物に襲われながら雪原を道も分からず歩き続ける気力っていうのはガキのそれじゃない。
むしろ、大人だろうが泣いて逃げ出す状況だろうに、諦めずに生き抜いた。
それをイカレてると称しても何ら問題などない。エルの異常性と言える。
生き汚いというのは生き物としちゃあ当然のことだが、何がそこまでさせたのやら。
「んぅ、ううん……」
「お?」
寝顔を眺めて物思いに耽っていたら動きがあった。
目さえ覚ませばもう心配はいらないんだろうが、俺がわざわざ摘みに行った霊草とやらの効果はあったのか疑わしい。こちとら、雪獅子とやり合って、がっつり縫って、がっつり骨も折ってやったんだからこうなってもらわなきゃ困るもんだが、それにしたって霊草とやらの薬を飲ませるようになってもう3日も経っていたのだ。効果が疑わしい。
「よう、寝坊助。寝覚めの気分はどうだ?」
「ギル……? 生きてる……?」
「ご覧の通りだぞ?」
「……あれ、怪我増えてる……? あれ……?」
目を擦ってエルが凝視してくるもんだから、これみよがしに縫うはめになった腕に巻いた包帯やらが見えるようにポーズを取ってやる。
「腹あ減ってるか?」
「うん……」
「ま、数日は固形食なんか食えねえから、どろっどろに溶かした飯でも心待ちにすることだな」
「何で怪我、してるの……?」
「ほら。雪獅子っていたろ?」
「巣穴に入ったら、地の果てまで追いかけてくるっていう? え、来ちゃった?」
「いや。こっちから乗り込んだ。ま、気にすんな。俺はのんびり湯治してっから、あんま早く体治すんじゃねえぞ」
目を覚ましてしっかり会話もできたところで宿へ帰ることにした。まだ頭が寝ぼけてるのか、俺が出ていく時もエルは首をひねったままでいた。
それからまた3日ほどして、エルはようやく普通の生活が遅れる程度にはなった。地元の人間しか行かず、旅人には教えようともしないという秘湯の存在について数日前に知って通っていたが、エルもそこへ行きたいなどと言い出したから連れて行ってやった。
地元の人間しか使わないから昼間は空いている。そもそも毎日、足繁く通うようなのはいないのかも知れなかった。秘湯は貸し切り状態が常だ。
「はあ、いいお湯……。温泉って初めて……熱いけど、気持ちいい」
「ジジ臭えこと言う時あるよな、お前」
「そうかな……?」
「お前、実は中身がオッサンじゃねえの?」
「そういうギルは中身が魔物だったりしない?」
「お、よく気づいたな」
「えっ」
「嘘だっての」
「もう……まあ別に信じたわけじゃないけど」
いや、半分は信じかけてた。そういう反応だった。
湯を出ると裸じゃ寒いが、湯の中にいりゃあいい具合だ。心なしか、傷の治りも早い気がする。
「そうだ、ギル。教えてほしいことがあるんだけど……えっと……」
湯に浸かったままエルが腕を伸ばして、脱いで畳んでいた自分の服へ手を伸ばした――と思ったら、その畳んで置いた服の上へ乗せていたナイフを取る。
「これ……」
「それがどうした?」
「精霊器になったかも」
「精霊器? マジか? 見せろよ」
素直に渡してきてナイフを鞘から抜いて眺めてみる。
特別なものは感じられない。そもそも精霊器は目利きのできるようなもんじゃあない。だが、よくよく刃を見れば、刃毀れらしいものがない。こいつがこれを丁寧に手入れしているところなんか見た覚えがないのに、こうも新品のように綺麗だっていうのはおかしい。
「んで、何でこいつが精霊器かもだなんて思ったんだ?」
「ギル引きずって迷子になってる時さ、けっこう魔物に襲われちゃって。犬みたいな、狼みたいな、そういうやつ」
「この辺のだとスノウハウンドらへんだろうな」
「でね、多勢に無勢で、基本、劣勢でたくさん噛まれて、たくさん引っ掻かれて、足とかも噛み砕かれたり、抵抗してる間に手の指折れちゃったりしたんだけど……夢中でやってたら、いつの間にか、その傷がなくなっちゃってたの」
「ほう?」
「この精霊器を試す余裕はなかったけど、体感としては……多分、何かを傷つける度に僕の怪我が治るっていうか、そういう感じだったんだけど、こうして今になってみると、極限状態でそう思い込んじゃっただけの妄想で、実は最初からそんな怪我とかしてなかったんじゃないかとかそういうことを思っちゃったりも……したり、しなかったり」
ナイフを返すとエルはしげしげとそれを眺めたが、首を傾げている。
「精霊器ってえのはよ、精霊の力が宿った道具のことだ。一口に精霊って言っても何千、何万と連中はいて、個性もありゃあ、力の強弱ってえのもある。そんで気に入った人間に目えかけて気紛れに精霊器を作り出すらしい。だからお前のことを偶然見つけた精霊が、あんまりお前がボロ雑巾みてえで見ていられねえやってんで傷を治してやろうとしてそうなったのかもな」
「ふうん……。精霊さん、ありがとうございます」
精霊器にお礼言って丁寧に感謝する野郎なんて初めて見た。
拝むように両手で持ち上げてからエルは畳んだ服の上へそれを戻して湯に浸かり直す。湯から出していた肩が冷えたのか、顎の先まで湯に入っている。
「まあだが、便利っちゃ便利なのかもな。要するにそいつで暴れてりゃあ、最悪、即死だけ避けとけばどうにかこうにか生き延びられるってもんだろう? お守りにしちゃあ上出来じゃねえか」
「お守り扱い?」
「怪我なんざつきものなんだ。それが治ろうが治るまいが関係ねえだろう。まして完治するってえわけでもねえんだ。これから次第でそうなる可能性はあるがよ、今は単なるお守りだろ」
「そっかあ……」
「んで? 名前はつけてやったのか?」
「名前?」
「そいつはもう単なるナイフじゃねえんだ。だったら名前つけてやらねえと精霊が拗ねるぞ?」
「そういうものなんだ……。でもどういう名前つけたらいいんだろう? ギルは自分で名前つけたの?」
「ん、まあな」
「じゃあギルがつけてよ」
「そうだな……。そしたら、ちんけなお前と同じ、ちんけな力だから……」
「ひどい」
「<ルシオラ>——てえ、ところか」
「るしおら……? どういう意味?」
「お前、ほんとに勉強してんのか? ルシオラてえのは小さい虫なんだがよ、自分でほわん、ほわんって小さい光を自分で出すんだ。今のお前にゃあぴったりだろう?」
「ぴったりなのかなあ……?」
首を捻りやがる。折角、俺がつけてやったもんを。
「ねえギル。ギルの増えた怪我って、僕のためにお薬の材料を取りに行ったからって聞いたんだけど本当?」
「あ? おう」
「……ごめんね、僕が寝込んじゃったばかりに」
「何言うんだか……。気にすんなって言ったろうが。そもそもお前が死にかけながら村まで俺を引きずって帰らなきゃ、揃ってあの世だったんだ。だから何も言うんじゃねえよ」
触れずにおいたもんを蒸し返しやがってからに、こいつは。
そんなことを持ち出して互いに「お世話になりました、ありがとうございます」とでもバカ丁寧に言い合いたいってのか。んなもん、考えただけで全身むず痒くならあな。
「ふいー、ちっと冷ますか」
湯を出て岩に腰かける。
「寒くないの?」
「温めて冷やして、それが体を引き締めるわけだな」
「なるほど……? じゃあ僕も」
立ち上がったエルが俺の横へ座る。直後、ぶるっと大きく体を震わせる。
「ギル……ほんとに平気なの、これ?」
「おう。ま、おこちゃまは無理すんな。ただでさえちっせえもんが、さらに縮こまっちまうぞ」
「……べ、別に僕も大丈夫だし。ていうか、ギルも傷たくさんあるよね」
「お前にゃ負ける」
「ええ? そう?」
「まぁーた雪が降ってきやがった……」
「ほんとだ。……うぅっ、やっぱもう無理」
肩を震わせてエルがまた温泉へ戻る。背中に夥しく重ねつけられた鞭の古傷はいつ見たって痛々しい。あんなにぶっ叩かれて働かされるのがこんな小せえガキなんだから奴隷ってえのは目に余る。
「その傷も、消えてくれりゃあいいのにな……」
「ギル、何か言った?」
「精霊器は大事にしとけ。いざって時に愛想尽かされちゃしまいだからな」
脱ぎ散らかした俺の服の下に埋もれてる<黒迅>を眺める。古株の癖をしてへそを曲げやがったバカ精霊器。いつになったらまた、力を取り戻すのやら。
「あ。忘れてた。ギル、ギル」
「おう?」
「戦い方教えて」
「……んじゃ、俺の<黒迅>くれてやるよ」
「えっ?」
「まあ、お前がこいつの力を引き出せるかどうかは別問題だ。剣の振り方程度だけ教えてやんよ」
風呂へ浸かりながら言うとエルは目を白黒させていた。
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