#002 奴隷は好きな人ともいられない
運が良いのか、悪いのか、よく分からない。
奴隷という身分から逃げようとした先に女の子がいた。彼女は僕に水を与えてくれたばかりか、薬をくれて、食事をくれて、体を洗ってくれ、ぐっすりと眠れる場所を貸してくれた。
彼女はレティシアといった。
どういう事情かは知らないけれど、彼女は1人で人里離れた野原のただ中で暮らしていた。定期的に食べものや日用品を届けてくれる人がいるけれど、ほとんど話をすることもなく彼は帰ってしまう。だから一人暮らしだった。水は家の裏に井戸があった。鶏を飼育して卵を取ったり、卵を産まなくなった鶏を絞めることもあった。
レティシアはやさしくて、明るかった。
年は13歳と教えてくれた。綺麗な絹糸のような髪は小麦色をしていて、瞳は翡翠のようにも見えた。一生懸命に僕を看病してくれた時、朦朧とする意識で励ましてくれた声を覚えている。
2日ほど寝込んでしまったけれどレティシアの献身的な看護のお陰でどうにか起きて活動するのに問題ないほどには回復ができた。
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「良かったね、元気になれて」
「どうもありがとうございます」
外へ出ると良く晴れた綺麗な青空が見られた。小屋の脇の井戸で水を汲んで顔を洗うと気持ちが良かった。隣でレティシアが顔を洗う様子を何となく見てしまう。背中まで届く長い髪は結わえている。前髪を避けるように耳へかけ、桶に両手を入れてすくった水で顔をばしゃばしゃと洗うのだけれど、その水滴が滴ったほんのり赤い気色の良い頬がとても綺麗に見える。
「ん……? どうかした?」
「あ、う、ううん」
「それじゃあ朝ご飯にしましょうか。まだ病み上がりだから柔らかいもので我慢してね」
顔を拭いてからレティシアが小屋に戻っていく。深い意味はないけれど、もう一度、僕も顔を洗っておいた。
レティシアは、かわいい——。
「じゃあ、脱走奴隷……なんだね、やっぱり」
朝食の後に僕から切り出して事情を打ち明けた。
僕が逃げ出した奴隷と知らぬまま、ずるずるとここへ長居して、持ち主がいきなりやって来たり、誰かが報せてしまったりしたら彼女までまずいことに巻き込んでしまうと考えたら話さざるをえないと思った。
でもやっぱりレティシアは察していたらしい。
当然と言えば当然だ。看病してくれた時に汚れきっていた僕の体を隅々まで——恥ずかしかったけれど——丁寧に拭いて綺麗にしてくれた。その時に僕の体を見たら一目で分かってしまうはずだった。
奴隷に身をやつした人間に押される焼き印であったり、労働中に受けた鞭の傷跡であったり。そんなものがちゃんと僕の身には刻みつけられているのだから。
「歩いてきた距離を考えても、そう遠く離れているわけではないし……見つかってしまったら迷惑をかけちゃうから、僕は行くよ。でも何か、お礼ができないかな? あのまま死んでしまってもおかしくなかったのに、こうして回復できたのはレティシアのお陰だから」
そう切り出すとレティシアは少し目を伏せて、それから顔を上げる。
「お礼なんていらないよ。
わたしね、ちょっと事情があってここで暮らさなきゃいけないの。
あんまり生活に不自由はないけどね、1人だと何だかさみしくて、ちょっとくらい迷惑なひとでもかまわないから、誰かが来てくれないかなってずっと思ってたんだ。そうしたら、きみが来てくれた。
だからね、本当はもっと、ずっと、ここにいてくれたら嬉しかったんだけど……それは難しいもんね」
1人ぼっちはさみしい。すごくよく分かることだ。
偏屈で人嫌いという性分だったなら望むところかも知れないけど彼女はそういうタイプには思えない。
一緒にいられるならば、僕も——いや、いけない。
これはもう、どうにもならないんだ。
「……」
「……」
何か、いいお礼の方法がないかと考えて黙り込んでしまう。レティシアも何やら考え込んでいるようで、変な沈黙が生じている。
何か、言いたいけれど、何を言えばいいのだろう。
僕もここへいたいという気持ちはあるから、お礼になるならいる。——そんなことを言ってしまったら、いつか、僕の奴隷という身分を知った誰かがやって来て困ったことになるのではないか。彼女を危険にさらしたり、悲しませるようなことがその時に起きてしまったらと考えたら、とてもそんなことはできない。
でも。
このまま、お世話になりました、ありがとう、と去ってしまうのはとても忍びなくて、何か、何でもいいから彼女とのつながりを持ちたいと思ってしまう。
黙り込んでしまったまま、長いこと、僕らはただ座り尽くしていた。
朝ご飯をご馳走してもらったのに、また少し小腹が空いてきたころにレティシアが顔を上げた。
「あのね……。お隣のアルソナっていう国があるの」
「アルソナ……?」
「そこではね、奴隷っていう制度を廃止したんだって。そこに行けば奴隷だった人もちゃんと、アルソナの国民として迎え入れてくれるって聞いたことはあるの」
「じゃあ……僕もそこに行ったら、奴隷じゃなくなる……?」
「うん、多分なんだけどね。ただ……奴隷だった人がアルソナに行っても、大変なことは多いんだって。色々な条件があって、それを受け入れないと国民にしてくれないとか何とか……詳しいことは分からないから、何とも言えないの」
条件かあ。何だろう。
奴隷を脱却できるっていう希望を持たせて呼び込んでおいて、例えば一定期間の労働をしてからじゃないと認めないよ、みたいな条件だったら大して変わりはない。甘い言葉で釣っておいて——というパターンが怖い。
「他の……正攻法だとね、奴隷としての主人に解放してもらうっていうパターンもあるけど、そっちは難しいと思うから……。別の人に買ってもらってから解放してもらうっていうことも可能だけど、わざわざお金を払って自由にするなんていう人はいないと思うから……。わたしにお金があったら、そうしてあげるんだけど……」
「ううん。そこまでお願いできないから気に病まないで。
思ったんだけど、僕が自分でお金を用意して、持ち主にお金を渡して解放してもらうとかはできるのかな?」
「制度上、それはできないの。奴隷に財産は認められていないから、どれだけ大金を用意してもそれは奴隷の持ち主のものっていう考え方にされちゃう。仮に大金を手に入れても盗んだりしたんだって決めつけられちゃうと思う」
「そうなんだ……」
それって何だか、世知辛いにもほどがある。
身分というものしか違わないはずなのに、ただ奴隷とされただけで財産も認めてもらえない。
人権もきっとない。
そもそも人権という考え方が、この世界にはあるんだろうか。
「だから……確実性がないけどアルソナが、現実的なのかなあって」
「そっか……」
「でも……もしかしたら、アルソナの国内だけでそう認められるだけで、アルソナを出たらまだ奴隷だとか言われちゃうかも知れないかも、とか思ったり……」
「アルソナ限定……。それでもまた、奴隷って言われて、働かせられるよりはずっとマシだと思う。ありがとう、レティシア。教えてくれて」
「ううん、本当にそれで大丈夫かまでは分からないし」
「それでも、これからどうしようって不安は和らいだから。本当にありがとう。
でもこれじゃあ、ますますお礼が追いつかなくなっちゃう……」
「その、お礼のことなんだけどね」
もじもじ——といったほどでもないにしろ、ちょっと言いにくそうにしながらレティシアは僕の顔をうかがう。
「ずっと、ここにいなくちゃいけないってわけでもないの。
いつかはね、ここを出て、多分だけどアルソナにわたしも行くことになるから……その時まで、覚えていてくれる?」
「レティシアもアルソナに行くの?」
「うん、多分ね……。いつになるかはまだ、分からないけど」
「じゃあ、ずっと待ってる。その時にお礼をさせて」
願ってもないことだった。
折角知り合えて、助けてもらえて、それなのに今生の別れになりそうだったのだ。
「じゃあ、ちゃんと覚えててね」
「うん」
「あ……」
「うん?」
「でも、あなた、名前は……ないって、言っていたよね?」
「……ないです」
そう言えばなかった。
これまでは「おい」とか「お前」とか「そこの」みたいな呼ばれ方しかされてこなかったから。でもこの世界で使われている名前と、僕の生前の名前は響きがまったく違うから何だか名乗りにくいし。
「名前、わたしが考えてもいい?」
「え? うん、いいの?」
「お安いご用だよ。ええとね……うーん……エル」
「エル? 意味とかあるの?」
「清らかなものとか、無邪気とかって感じの言葉だよ。ぼろぼろで汚れた格好だったのに、全然ね、嫌な感じとかはなかったの。だからエルっていうのはどう? ちょっと男の子っぽくないかな……?」
「そ、そんなことないよ。ありがとう、レティシア。
今から僕はエルがいい。すごく気に入ったよ」
エルという名前をもらった。
正直、まだまだ呼ばれ慣れていないという意味で良いのか、悪いのかも分からない。だけどレティシアにもらった名前ということだけで嬉しかった。
お世話になり続きだけどアルソナまでの道のりを教えてもらったり、保存食を分けてもらったりした。それから服ももらおうとしたものの、可愛らしい女の子の服しかなかった。
「女の子の格好とかしたら、甘く見てもらえたりするかな……?」
「お気持ちだけで、そこは大丈夫です……」
男でも女でも大差なさそうな、頭からすっぽりと被る貫頭衣のようなものをもらうことになった。日差し避けのための布を頭に被って、まだ余る布の端は首まで巻きつけておいた。
そういうものを普通は持っているものなのか、そうでないのか、何かと便利だろうからと小さな刃渡りの剣というか、ナイフというか、そういう分類に少し悩むささやかな刃物もくれた。何だか立派なものにも見えた。柄尻にくすんではいるけれど宝玉のようなものがついていたし、剣身の片側にだけ彫刻も施されていた。
そういった旅支度をしている間に日が沈んでしまったので、翌朝までまた一晩を過ごさせてもらうことになった。
夕食にレティシアは鶏を一羽潰してくれた。手伝って羽根をむしって、鶏の捌き方を教えてもらった。
部位ごとに分けた鶏肉で僕も一品だけ作ってみた。
何でもかんでも煮込んで、どろどろにして食べるというのがこの世界では一般的のようだったから、小さく切り分けたお肉を少し不細工になったけど木の串にちゃんと刺して遠火で焼いてみた。
塩と、レティシアが育てているというハーブを乾燥させて粉末状に磨り潰したもので食べてみると思ったよりもおいしかった。レティシアも喜んでくれた。焼き鳥は偉大だった。
それから色々な話もした。
もしかしたら僕も同じように思われているかも知れないけど、レティシアは明るいけどすごく落ち着きがあって、それに何だか、見識が広いというような印象を受けた。こんな辺鄙なところに1人で住んでいるという謎の事情もあるし、もしかしたら複雑なお家の問題とかがあるんだろうか。そんな複雑な事情があるということは、複雑になるだけの高等なお家なんだろうかとか想像してしまった。
1人で暮らしているからか、色々とこの小屋だけでできる趣味も探しては実践しているらしい。ハーブや花を育てたり、刺繍をしたりというささやかなものだった。夜に話をしている間に、旅装として用意をしていた頭に被るための布に綺麗なお花の刺繍をしてくれた。
根元に葉っぱが二枚と、凛と背を伸ばす花弁が6枚の一輪花。
首まで巻きつけた時、ぺろりと肩の後ろから垂れた端っこにその刺繍が来るように位置も調整をしてくれた。さらには、お花の刺繍の下に文字まで。……読めないけど。
「ちゃんとエルって名前も刺繍しておいたからね」
「これでエルって読むの?」
「うん。自分の名前くらいは書けるように覚えた方がいいかもって思って」
「そっか。ありがとう、レティシア」
ずっとレティシアとお話をしていたかったけれど、明日からの短くない旅路を考えて欠伸が出てしまったタイミングで眠るしかなかった。
幸いなことに、僕らは子どもで体も小さかった。彼女のベッドに2人で寝そべることになったけど窮屈さよりも、すぐそばにレティシアがいるというのが嬉しくて、おだやかに眠れた。
そして朝を迎えてしまうのだった。
今度こそ、別れの朝である。
▼
「アルソナで絶対にまた会おうね、エル」
「うん。ずっと待ってるから、いつでも来てね」
いくらでも別れは惜しめたけど、できるだけ手短に済ませた。そうじゃないとどんどんレティシアと別れがたくなりそうだった。
「またね……」
「うん、気をつけてね、エル」
送り出されて歩いていく。少しずつでも離れていくのが分かると、無性にさみしさが込み上げてきた。
レティシアはとてもやさしく、親切にしてくれた。
少なくとも奴隷としてこの世界で生まれてから、覚えている限りでは初めて触れたやさしさだった。好きにならないはずがない。
ずっと一緒にいてもいいなら、そうしたいけれど僕は奴隷だった。
だからいつかの再会を願いながら今はお別れをするしかない。――と、後ろ髪を引かれる思いで歩いていたら、背後から足音が聞こえてきたような気がして振り返った。
瞬間、ぶつかった。
違った、レティシアにぎゅっと抱きしめられていた。
彼女の方が僕より年も背も上だから、抱きしめられるとちょっと息が苦しかったけれど何だかすごく安心も抱いてしまった。
「うぷ……れ、レティシア?」
「何か、すごく背中がさみしそうだったから。がんばってね、エル」
ようやく放してくれた。
何だかすごく、恥ずかしいような、照れ臭いような、でもやっぱり嬉しくないということもなくて、エールを送られても何だか、ちっちゃく頷くしかできなかった。
「……ありがと」
「行ってらっしゃい」
「うん……行ってきます」
今度こそ、前を向いて、できるだけ背筋を伸ばして歩き出した。
次に会う時は彼女の腕の中にすっぽりフィットするような収まり方をするのでなく、逆にレティシアを僕の胸に抱き寄せてみたい。そんなことを考えて、振り返らずにアルソナという国への旅路を僕は歩み出した。
いつかきっと、レティシアと再会をするために。
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