百川帰海(1)

「そろそろ帰ります。順に着替えてください」

 あきらがそう言ったので、水着姿の陰陽師たちはシャワールームと更衣室に向かってぞろぞろと歩き始めた。日も落ちてきて、海は優雅な橙色に輝いている。柚子たちは女子更衣室に繋がる列の一番後ろに並んだ。戦い疲れた先輩陰陽師より先に着替えるわけにはいかないだろう。なんとなく友人たちに前を譲っていたら、柚子が最後尾になった。

 柚子は、ぼんやりと順番を待ちながら、今日は変な日だったな、と一日を振り返った。勝元と翼と涼介は大変な目に遭ったようだし、あきらと群治郎を含めた先輩陰陽師たちは人魚と戦っていたが、自分はスイカ割りを楽しんだだけで特に何もせずに終わった。それなのに、なんだか妙に心がざわつく。なぜかは分からない。ただ、なんとなく嫌な感じがする。なんなんだろう、このモヤモヤ? なんかやだな。柚子はそう思いながらも、不機嫌な顔にならないよう気をつけつつ静かに順番を待った。

 ふとその時、背後に気配を感じて柚子は振り向いた。

 一時間ほど前にあきらが人魚と戦ったまさにその場所である波打ち際に、一人の女性が立っている。場違いな派手な着物を漫画のキャラクターのように着崩し、結い上げた髪からばらばらと後れ毛を出したその女性は、言葉にできない色気に満ちていた。沈んでいく夕日に照らされたその姿があまりにも様になっていたので、陰陽団で貸し切っているはずのビーチに着物を着た不審な女性が出没したのだということに気付くまで少し時間がかかった。柚子がようやく小さな声で「誰?」と呟いた頃には、他の陰陽師たちもその女性の存在に気付き始めていた。

 陰陽師たちは微かにどよめいたものの、はっきりと声を発する者は誰もいなかった。女性はリラックスした様子で煙管きせるを吸っている。浜辺に着物でやってきて優雅に煙を燻らせる女性の姿を見て、誰もがこう思ったに違いない。彼女は普通の人間ではないだろうと。

「失礼ですが、どちら様ですか?」

 一番に口を開いたのはあきらだった。怪しむ態度を一切隠していない。

「申し訳ありませんが、ご退出ください。今このビーチは私たちが貸し切っています。……あとそもそもこのビーチは喫煙禁止なんですが」

 不信感を露わにしながらも、精一杯の丁寧な言葉遣いであきらが言う。女性はあきらを一瞥すると、乾いた笑いを漏らした。それから、吸い終えた煙管を懐に戻しながら言う。

「人間の——殊更陰陽師の命令になんて、死んでも従いたくないねえ」

 その言葉を聞いた瞬間、その場の空気が変わった。やはり彼女は、妖怪だ。

「まあ、簡単に死ぬつもりもないけどさ」

 妖怪はあっけらかんとしてそう言うと、こちらを向いた。

「どちら様なのかは教えてやろう。あたいは絡新婦さ。知ってるだろう?」

 絡新婦がそう言った瞬間、陰陽師たちの体が強張った。確かに名前は知っている。というより、名前しか知らない。絡新婦は陰陽団が過去に戦ったことのない妖怪で、大した記録は残っていないのだ。

「……蜘蛛……」

 椿が呟く声が後ろから聞こえた。

「何が目的だ?」

 あきらの声が低くなった。その隣では、群治郎が何もしていない素振りを見せながら、腰の銃に手をかけている。

「何、別にあんたたちに用はないよ」

 絡新婦は白々しく言った。

「あたいは海の妖怪たちに会いに来たのさ」

 絡新婦はそう言って、海の方へと向き直る。日はほとんど落ちていた。

「……なぜ?」

 あきらが慎重に問いかける。絡新婦は肩越しにこちらに振り向くと、ニヤリと笑った。

「白面金毛九尾の狐様が復活されるその時が近づいているから」

 その瞬間、周囲の空気はピンと張った弓のように再び張り詰めた。それから、細波のように囁き声が広がっていく。今、あの妖怪はなんと言った?

「海の妖怪はおかの妖怪とは違う。だけど、協力すべき時が来たんだ。妖にとって住み良い世界を作るために、力を合わせないとね」

「なぜ今日? なぜこの海に?」

「質問ばかりだねえ。偶然さ」

 絡新婦は面倒そうに返した。

「でも、せっかくだから利用させてもらうとするよ。あたいの糸は暗い海の底までは届かないしね。わざわざ呼ぶ手間が省けたよ、ありがとさん」

 絡新婦はおおげさにそう言ったかと思えば、何かを引っ張るようにして素早く腕を動かした。するとその瞬間、中身が見えなくなっているビニール袋のようなものが宙を舞った。いや、よく見ると、袋は一人でに飛んだのではない。絡新婦の手から伸びる糸に引っ張られていたのだ。

「やめろ!」

 あきらが鋭く叫んだおかげで、ビニール袋の正体が分かった。血液の入ったパックだ。

 群治郎が発砲する。弾は真っ直ぐに絡新婦の胸元に向かっていったが、辿りつく頃には蜘蛛の巣が何重にも張られたような小さくきめ細かいバリアが現れて、いとも簡単に弾丸を弾いていた。

 絡新婦はあきらを無視してパックを切り開いた。辺りに錆びた鉄のような臭いが充満する。あきらが走り出したその瞬間、絡新婦は迷いなく海へと投げ捨てた。

「あっはっは! 陰陽団って、妖怪が姿を現す時に手助けをしてくれる組織なんだねえ! あたいはあんたたちを誤解してたようだよ!」

「クソッ!」

 あきらはそう吐き捨てると、絡新婦から少し離れたところで立ち止まり、蹴りを放とうとした。だが、絡新婦が自分から近づいてきたせいであきらは慌てて攻撃を中断し、二歩後ろに下がらざるを得なくなった。至近距離にいたら何をされるか分からない。

「海の妖怪たちが上がってくるまで話をしようじゃないか」

 絡新婦は艶かしい笑みを浮かべて言った。

「白面金毛様を蘇らせるのは今すぐじゃない。でもその時は刻一刻と近づいている。まあ、あんたたちだって分かってるだろうけどね」

 絡新婦はそう言ってから、わざとらしく思い出したように「ああ!」と声を上げた。

「もしかして、知らないかい? 知らないかもしれないね。おさがその秘密を隠してるとしたら。……でも、妖怪たちはあんたたちの秘密をちゃんと知ってるよ」

 柚子は慌ててあきらから目を逸らした。あきらがジリジリとにじり寄る絡新婦からゆっくりと後退りながら、視線だけでこちらを見たのが分かった。

「秘密?」

「何のこと?」

 陰陽師たちの囁く声が聞こえる。柚子は恐ろしくて後ろを振り向くことができなかった。ただ絡新婦をじっと見つめ続けた。どうすればいい? どうすればいいの?

 だが、柚子が心配していたようなことは何も起こらなかった。絡新婦は一切柚子の方を見ずに、呆れたように息を吐いてから口を開いた。

「まあ、その秘密については、今はあたいたちも触れないようにしてるからこれ以上は何も言わないでおくけどね」

 絡新婦はそう言うと、あきらから離れて再び波打ち際の方へと歩き出した。

「……誰かさんがあのお方に迷惑をかけるなって言うから……」

 絡新婦はブツブツとそんなことを呟いている。

「まあいいさ。今はまだその時じゃない。でも少しずつ近づいている」

 絡新婦は立ち止まると、海を見てニヤリと笑った。海に向かって意味ありげに手を伸ばしてから、陰陽師たちの方へと向き直る。

「さあ、そろそろみんなも上がってきたよ。楽しみだねえ」

 絡新婦は喜びを堪えきれないといった様子だ。海からは、何かが浮かび上がってきているような低い不穏な音が地鳴りのように響いてくる。水着姿のままの陰陽師たちは、歯を食いしばって得物を構え始めた。もう、逃げられない。

「普段はまったく違うあたいたちだけど、今日は一丁息を揃えて同じ気持ちで戦おうじゃないか。妖の世を作るため、白面金毛様を蘇らせるために!」

 絡新婦は声高らかにそう宣言すると、思いきり両手を引き上げた。彼女の十本の指の腹から伸びた糸が、海の中から何か得体の知れないものたちをたくさん引っ張り上げている。尾鰭に無数の針が生えた大きなサメに、髪の長い女の頭を持つ気味の悪い蛇、恐ろしげな面相の亡霊のような何か、そしてそれらの背後には、坊主頭の黒い大きな影が——

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