百川帰海(2)

「下がって!」

 あきらが絶叫した。陰陽師たちは一瞬固まってから、慌ててその場から逃げ出した。一体何がどうなっているのだと戸惑いを隠しきれないまま、できるだけ水辺から距離を取る。柚子たち智陰陽師は同じところに固まって待機することにした。

 海の妖怪は、人間たちが広大で途方もない海へ抱く恐怖や畏怖の感情だけではなく、海で死んだ人たちの魂も糧にしていると言われる。陸の妖怪とはまったく異なる性質を持つ彼らは話が通じないことも多く、海そのものと同じように計り知れない恐ろしい存在なのだ。

「誰か! 応援を呼んで!」

 あきらが再度叫ぶ。柚子は急いでスマートフォンの画面をつけた。陰陽団への問い合わせ番号ではなく、団長に直接電話をかける。

「下がって! 下がって!」

 あきらは繰り返し声を上げた。八郎は電話に出ない。不安に思いながらも柚子は指示通り後退した。海の方を見ると、大きなサメのような生き物と人間の女の頭部を持つ蛇の姿がない。海中に潜ってしまったのだろうか。亡霊は海の上に浮いており、ただぼうっとこちらを見つめている。亡霊はどうやら七人いるようだ。その後ろにはのっぺりとした黒い巨人が何をするでもなくただ立ち尽くしている。不気味な光景だ。

「はいもしもし」

 ようやく八郎の声が聞こえてきた。ハッとして言葉を返す。

「お疲れ様です、あの、妖怪が大量に出てきてやばいので増援をお願いしま……」

「うわあああああ!」

 早口にまくし立てていたところで悲鳴が響いた。「え? 何?」と辺りを見渡すと、一人の男性陰陽師がズルズルと海に引きずられているのが見えた。脚には濡れた黒く長い尾のようなものが巻きついている。先程の女の顔を持つ蛇の仕業だ。

 銃声が鳴った。群治郎が蛇を狙って撃ったのだ。だが蛇は弾丸をぬるりと避け、陰陽師を海へと連れていこうとする。

「あああ助けてえええあああ!」

 陰陽師が悲痛な声を上げる。愕然とする柚子の耳元に、低い声で「……了解」とだけ聞こえたかと思えば、プツッと電話が切れた。

 どこからともなく長い蔓が伸びて男性陰陽師の腕に巻きついた。彼を引っ張り戻そうとしている。脚と腕を引っ張られて、男性は恐怖と痛みに更に声を上げた。すると、他の女性陰陽師が飛び出してきて蛇の尾に刀を振り下ろした。狙いどころが悪かったのか蛇の体は斬れなかったが、蛇は呻きながらのたうち回った。その弾みで男性の足首から尾が離れ、その瞬間、蔓が一気に男性を引っ張り戻す。女性陰陽師がホッとした様子で息をついたその瞬間、背後からサメが襲いかかり、女性を丸呑みにして海へと戻っていった。

 息を呑んで口を手で覆う。やがて、暗くなった海面に濁った赤が滲んだ。

「後衛の人たち! 構えて!」

 あきらの素早い指示に、遠隔攻撃を得意とする陰陽師たちが動く。だが、ショックと動揺で動きがもたついている者もいた。

「あのでかいのと人型の奴らは襲ってこない! 攻撃を仕掛けた途端に動き出すかもしれないから手を出さないで!」

 あきらは喉を壊しそうな勢いで叫んでいる。水着姿の陰陽師たちは、可能な限り海から離れて砂浜でそれぞれの武器を構えた。柚子たちは更にその後ろに立って、なす術もなく彼らを見守ることしかできない。

「サメと女の顔の蛇……あー……磯撫で! 磯撫でと濡れ女に注意! 仕留めて!」

 サメ、もとい磯撫での姿はアオザメによく似ているが、体はそれよりも一回り分は大きい。尾鰭にはトゲのようなものがびっしりと生えており、かなりグロテスクだ。磯撫ではまるで映画のワンシーンのように背鰭を海面から出して辺りを泳ぎ始めた。一方、濡れ女というらしい蛇の妖怪は姿を見せない。どちらも近くに陰陽師がやってくるのを待っていて、攻撃ができない状態だ。

 とんでもないことが起こっている。柚子は呆然としていた。仲間たちも絶句している。耐えきれずに視線を逸らすと、悠々と歩いて立ち去ろうとする絡新婦が視界に映った。

「力を合わせるんじゃないの?」

 気付けば柚子は叫んでいた。陰陽師たちの視線が柚子に向き、それから絡新婦へと注がれる。

「どうして逃げるの!」

 柚子が更に声を張り上げると、絡新婦は一瞬驚いたような顔をしてから、申し訳なさそうな表情を浮かべてその場から素早く去っていった。

「ふざけんな待て……クソが!」

 あきらが悪態をつく。柚子は海へと視線を戻した。相変わらず巨人と亡霊たちはただそこに立っていて、その近くでゆっくりと移動する磯撫での背鰭が見えるのみだ。

「これ、俺たちも行った方がいいのかな……」

 勝元が呟く。

「……分かんない」

 柚子はそう答えるしかなかった。

 絡新婦は去ってしまった。彼女の口ぶりからして、海の妖怪に会いに来たというのは嘘だろう。はなから陰陽師たちに攻撃を仕掛けるつもりでここに来たに違いない。だが、海の妖怪たちとの実際の関係はどうなのだろう? 柚子は必死に考えた。本当は既に協力関係を結んでいたのではないか? 陰陽師が人魚を誘き寄せるために準備していたとあの一パックの血液だけで、瞬時に複数の海の妖怪を呼び寄せることは本来可能なのだろうか。詳しいことは分からないが、上手くできすぎている気がする。そもそも、千葉の人気の海水浴場に突如人魚が現れて人間たちを襲ったというのも作為的なものを感じる。

 妖怪たちは今、本格的に活動し始めている。その理由は、無論柚子の存在だ。九回目の転生を遂げた白面金毛の娘がこの世に現れたからだ。だが、妖怪たちは決して柚子の存在を感じ取ったから活性化しているというわけではないのだろう。

 以前から何かがおかしいと思っていた。咲也から話を聞いていたおかげで、自分でも驚くほどスラスラと考えが浮かんでくる。咲也が言っていた通り、やはり妖怪たちは組織を組んでいるのだろう。絡新婦はきっとその中でも立場は上の方。そして、現時点で妖怪の組織のトップにいるのは柚子自身だ。

 絡新婦や、もしかしたら他の妖怪が更に別の妖怪に指示を出している。化け狐、狂骨、古山茶、付喪神の四兄弟は指示されて柚子の元にやってきた。柚子の顔を見て逆らうことをやめた送り拍子木も組織の妖怪だ。そして、恐らく絡新婦は人魚にも指示を出して人間を襲わせ、陰陽師をここへ誘き寄せた。そして、今ここで海の妖怪たちに陰陽師を始末させようとしているのではないか?

 もしこの推測が正しければ、柚子が妖怪たちに攻撃をやめるように言えばこの戦いは終わる。

 柚子は唇を噛みしめた。正体がばれないようにしながら彼らに近づいて話をするにはどうすればいいか考える。やはり、戦いに参加するふりをして妖怪に接触するしかない。まだ自分たちは海の妖怪と戦うことは認められていない階級のままだが、どうにかして戦いの場に出るしかない。なるべく早く、タイミングがいい時に。

「……ずっとこうしてるのか? 埒が明かないな」

 群治郎がそう言って、チラッと空を見上げた。

「夜の海って、最悪の状況じゃないの」

「分かってるわよ」

 あきらはそう言って舌打ちした。

「応援が来るまでまだかかるし……闇雲に攻撃はするべきじゃない……」

 あきらはブツブツと呟きながら険しい顔で海を見つめた。先程から状況は変わっていない。

「……行った方が、いいかな」

 柚子は小さく口を開いた。仲間たちが柚子を見る。

「私たちも、陰陽師なんだし……今は、緊急事態だし……応援が来るまで……少しでも……力に……」

 ゆっくりと言葉を絞り出しながらも、本当はそうするべきではないと頭では分かっていた。本来ならば彼らを太刀打ちできるほどの技量や経験は自分たちにないのだ。独断で戦いに参加したら、かえって先輩陰陽師たちに迷惑をかけることになる。七人の仲間たちを危険な目に遭わせることになる。

 だけど、私が行けばきっとこの戦いを終わらせられる……。

 仲間たちも迷っているようだった。自分たちはまだ階級が低い。圧倒的に実力不足だ。だが、何もせずにただここで戦いを見ているというのも決まりが悪い。八人は互いにチラチラと目を合わせながらしばらく黙っていた。勝元はじっと柚子を見ていたが、真意が伝わっているかどうかは分からない。

「……行きましょう」

 椿が力強い声で言った。柚子は目を瞬いた。椿は反対すると思っていたのだ。

「私と沙也香と宗くんは、遠隔攻撃ができるわ。翼と柚子と都くんは、それぞれパートナーを補佐して……香織さんとありささんも補佐をお願いします。きっと私たちにもできることがあるはずよ」

「……まあ、行くか行かないかっつったら、行くよな」

 翼が唸る。

「……そうだね」

 勝元もそう言って小さく息を吐いた。

「無理は絶対だめ」

 沙也香が言う。

「……足手まといだったらすぐに退散、で」

 涼介も言う。一同は頷いた。

 香織とありさはまだ少し躊躇っていたが、それでも覚悟を決めて口を開く。

「うん。……うん。行くよ」

「攻撃はできないけど、力にならなきゃ」

 柚子は深く息を吸った。決意してくれた七人を危険に曝すわけにはいかない。どうにかして素早く彼らに近づいて、海の中に戻ってもらわなければいけない。絶対に失敗してはいけないと、そう自分にしっかりと言い聞かせる。

「……行きましょう」

 柚子はそう言って、一歩足を踏み出した。

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