人魚の潜む海(3)
「歌ってくれないの? とても素敵な歌声だったのに」
海から顔を出している少女はそう言って唇を尖らせる。三人の少年たちは既に彼女に釘付けになっていた。濡れた赤い唇、真珠のように白い肌、夜空を思わせる漆黒の髪。そのどれもが美しい、魅力的な少女だ。
「じゃあ私が歌ってあげる」
少女がそう言って船に近づいてくる。少女に見惚れていた勝元たちはハッとした。いつの間にか大人数に囲まれていたのだ。船を取り囲むようにして浮かんでいるのはすべて女。少女の他に、成熟した大人の女性もいる。
「……やべえ」
翼が掠れた声を漏らした。
「あなたたちも一緒に歌ってくれる?」
少女はそう言って首を傾げた。その動きはかなりあざとかったが、既に魅入られている少年たちにしてみればそんなことはどうでもよかった。それよりももっと重大な問題がある。少女たちが水着を着ていないということだ。
目の前にいる美少女は恐らく人魚なのだろう。勝元たちは気付いていた。彼女たちは、自分たちの階級ではまだ戦うことを許されていない、恐ろしい妖怪である人魚だ。だが、実際に見てみるとどうだろう? とても可愛い。綺麗な人たちだ。声も優しい。恐ろしいことなんて何もありはしない。
「いいよ」
勝元がそう言って何度も頷く。
「おい、抜け駆けすんな」
翼が勝元を軽く小突いた。
「……」
向かいに座っていた涼介も無言のまま立ち上がって、二人の後ろにやってきた。三人は真剣な表情で人魚の少女と見つめ合った。少女は嬉しそうにクスクスと笑っている。
少女が歌の続きを口ずさみ始めた。とても上手い。綺麗な声だ。少し遅れて勝元たちも合わせて歌い出した。心なしか先程より声が大きい。
三人は少女にもっと近づこうと徐々に身を乗り出していった。
少女が腕を伸ばして目の前にある翼の顔に触れた。近くにいた女性も同じようにして勝元の顔に手を伸ばす。あと少し……あともうちょっと。二人は更に身を乗り出した。
愚かな少年たちが勝利を確信したその瞬間、人魚は歌をやめて大きく口を開け——文字通り牙を剥いた。
「ギャアアア!」
少年たちの悲鳴が響いた。
翼と勝元は人魚の手から逃れようともがいた。力尽くで振り払い、ようやく解放された翼は勢い余って転がり、船の床に思いきり頭をぶつけた。翼は痛みに悶えたが、そんなことを気にしている場合ではない。人魚たちが集まって勝元を海へと引きずりこもうとしている。恐怖で絶叫する勝元とその体を引っ張って必死に抵抗する涼介の元へ翼が走ったその時、一発の銃声が空気を裂いた。
銃声に驚いた人魚たちは一気に散り散りになった。その隙に翼と涼介が勝元の体を引き上げる。だが、勝元を喰おうとしていた人魚まで船に上げてしまった。
「ギャアッ」
翼と涼介は大声を上げてその場から後退りした。床に横たわる勝元の体に、人魚がしぶとくしがみついている。
「大野ちゃん!」
群治郎が千歳の名を叫んだ。その瞬間、船が猛スピードで動き始める。彼女は万全の状態でこのタイミングを待ち続けていたのだ。
「し……死ぬっ、し、やば、やばいっ」
勝元は息絶え絶えになりながら、できるだけ腕を伸ばして人魚の体を遠ざけて蹴りつけたが、一切効いていない。翼と涼介は何もできずに愕然と立ち尽くしていた。人魚はギザギザの歯を剥き出しにして、勝元の首に噛みつこうと顔を近づけてくる。
「うわああああああ!」
勝元は再び絶叫した。しかし、目の前の人魚が突然いなくなり、「……え?」と呆けた声を上げる。慌てて体を起こすと、人魚は不意に背後から群治郎に蹴られて勝元の体から引き離されたのだと分かった。
人魚は威嚇する蛇のような声を上げると、群治郎に襲いかかろうとした。群治郎は冷静な表情で人魚に銃を向け、一発撃ちこむ。人魚の腹に穴が開く。しかし、鱗のようなものが肌に現れて傷を覆い、傷はみるみるうちに回復してしまった。だが、群治郎は構わず銃を撃ち続けた。一発、二発、三発。引き上げられてすぐの魚のようにピチピチと体を跳ねさせていた人魚はやがて動かなくなり、死んだ途端に干からびて、カラカラに乾いたゾンビのような姿になってしまった。
「ウエッ」
勝元たちは思わず口を手で塞いだが、堪らずすぐに海に向かって嘔吐した。
へとへとになりながらも一息ついたところで、三人はギョッとした。水面の下に一心不乱に泳ぐ人魚たちの姿が見える。まだ彼女たちは諦めていないのだ。やがて、一人の人魚がまるでイルカのように大きく跳び上がって船の上に乗ろうとしてきた。
「イヤァァアアア!」
少年たちは何度目か分からない絶叫の声を上げた。すかさず群治郎が人魚に銃口を向ける。パン! という音と同時に人魚は海に落ちていった。
その時、先程まで穏やかだった波がいきなり大きくなり、一同が乗る船を大きく押し出した。更にはどこからか長い蔓が伸びてきて、船に巻きついたかと思えば陰陽師たちの待つ浜辺へと引っ張っていく。五行の術で、誰かが自分たちを助けてくれたようだ。
「……若いねぇ」
群治郎が呟く。勝元は情けない気持ちでいっぱいだった。翼と涼介もきっと同じだろう。
人魚たちから大きく距離を取って戻っていく船の上で、三人の少年たちは己の浅はかさを思い知るのだった。
先輩陰陽師たちの木行や水行の術の助力によって高速で戻ってきた船から出てきた勝元たちはかなり疲れ切っており、「ごめんなさい……」と謎の謝罪の言葉を述べたきり何も言わなくなってしまった。船がたくさんの人魚に囲まれているところを見た上に、何度も彼らの絶叫を聞いているので、散々な目に遭ったのだろうとは想像がつくが、具体的に何があったのかは教えてくれなかった。
八人の智陰陽師たちは、ビーチの脇に寄って上司たちの戦う姿を見ていた。
人魚たちは海から十分に距離を取っている陰陽師たちに手を出すことができず、波打ち際から少し離れたところで泳ぐのをやめ、水面から僅かに顔を出してこちらを睨みつけていた。こちらの様子を伺っているのだろう。そんな中、群治郎が銃を一発撃ちこむ。一人の人魚が海の中に倒れ、残った人魚たちは牙を剥いた蛇のような声を上げ始めた。耳をつんざくような恐ろしい音だ。
「人魚は遠くからは何もできません! 後衛の陰陽師たちは攻撃して! 前衛は援護!」
あきらが叫ぶ。怒り狂う人魚もいれば、海の中に潜って姿を消した人魚もいる。だが、最も体の大きい赤い髪の人魚だけはじっと動かずこちらを見つめていた。
あきらの指示を受けて、後衛の陰陽師たちが次々に攻撃を仕掛ける。人魚の数は減り、残りはあと七人というところで急に赤い髪の人魚が叫び声を上げた。七人の人魚たちは一斉に海の中に潜って姿を消した。
「あいつがボスね」
あきらは唸った。
「もっと下がって! 距離を取って!」
あきらが大きな声を張り上げる。陰陽師たちは更に後退した。
緊張が広がる。海からは誰も顔を出さない。あきらは波打ち際を睨みつけている。しばらく沈黙が続いた後、水面が揺れた。
赤い髪の人魚が海から出てきた。どうやら、たっぷりとした髪が体を大きく見せていたようだ。髪を揺らしながら陸へと上がり、彼女はなんと立ち上がった。魚のような下半身はどこへやら、人間のものと同じ脚でしっかりと立っている。ゆっくりと歩く彼女の体は、やがて苔のようなものに覆われていった。
「え! 人魚って歩けるの?」
香織が衝撃を受けた顔で言った。
「でも人間に化ける妖怪はいっぱいいるしそりゃそっか……?」
ありさが首を捻りながら呟く。
「人魚姫あんな思いしなくてよかったじゃん!」
勝元が迫真の表情でツッコミを入れた。
赤い髪の人魚は突如として牙を剥き、陰陽師たちの元へ跳び上がった。それを皮切りに残りの六人の人魚たちも勢いよく海から飛び出してくる。陰陽師たちが人魚たちから逃げようと急いで走り出したところで、逆に一人の陰陽師が前へと躍り出た。あきらだ。
あきらは迷いなく赤い髪の人魚の前に出て見事な回し蹴りを披露した。人魚の体が勢いよく吹っ飛ぶ。あきらは人魚を素早く追いかけると、次は腹部めがけて鋭いパンチを繰り出した。人魚は動けなくなっている。続けてあきらは華麗な飛び蹴りをお見舞いした。
赤い髪の人魚にとどめを刺したのはあきらのパートナーである群治郎だった。再び大きく吹っ飛ばされていく人魚の体を狙って銃を一発撃つ。弾丸は人魚の体を貫き、人魚はその場に落ちて小さな干物のような姿になってしまった。
赤い髪の人魚が死んだ途端、六人の人魚たちは慌てて海の中に飛びこみ、脱兎の如く逃げていった。
「うわっ……」
人魚のグロテスクな死体にショックを受けている仲間たちをよそに、柚子は感動を覚えていた。あきらの鮮やかな身のこなしと腕っぷしの強さ、それから群治郎の素早い判断力と的確な攻撃。ようやく二人が戦うところをこの目で見ることができた。文句なしの最高のコンビネーションだ。さすが花隊の隊長と副隊長!
「ふう」
あきらが髪を掻き上げながら息をつく。
「……人魚の群れは
あきらがそう言いきったところで、自然と拍手が巻き起こった。
「かっけえ」
翼も感嘆の声を漏らしている。
「さて、怪我人もいないようですし今日の任務はこれで終了です」
「お疲れ様ー」
群治郎がひらひらと手を振る。それから、あきらは見学者である柚子たちの方へと視線を向けた。
「まだスイカを食べていない人もいるでしょう。配ってあげてください。少し休憩したら帰ります」
「お疲れー」
声をかけながら勝元にスイカを渡す。ぐったりとしていた勝元は、スイカを一目見てから「俺はいいや」と首を振った。
「え、いらないの?」
「俺もいいや」
「……俺も……」
翼と涼介まで声を上げる。少女たちは眉をひそめて顔を見合わせた。
「大丈夫?」
香織が心配そうに言う。
「無理はしないでいいけど……お腹空かないの?」
柚子もそう言ったが、三人は首を横に振った。
「よほど大変だったみたいね……お疲れ様」
「お疲れ様」
椿に続けてありさも優しく声をかけたその時、「きゃっ!」と突然椿が小さく叫び声を上げたので、一同は驚いて彼女の方へと向いた。
「どした?」
柚子が声をかける。
「ごめんなさい……大きな蜘蛛がいてびっくりして……でももうどこかに行っちゃったわ」
椿はキョロキョロと足元を確認しながら言った。
「蜘蛛はびびるね」
そう言ってありさが深く頷いた。
「……で、船で何があったの?」
沙也香が話を戻す。
「絶対言わない」
三人の少年たちは声を揃えてきっぱりと言った。
「……今の俺たちに優しくしないで」
力なく告げられた勝元の言葉がよく分からず、柚子は怪訝な表情を浮かべて首を捻った。
影から伸びる白い腕の上を、大きな蜘蛛が這っていく。
やがて、蜘蛛は闇に呑まれて見えなくなった。
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