人魚の潜む海(2)

 今回勝元たちが乗るのは、いわゆるフィッシングボートと呼ばれる、中央に操縦席がある部屋が設置されている白い小型船だ。沈んだ様子で小型船に乗りこむ勝元たちを見て、一番後ろに立っていた群治郎は困ったような顔をして笑った。

 陰陽団には一級小型船舶免許を持っている陰陽師が所属しており、今回囮の四人を運ぶ船は彼女が操縦することになっている。彼女は既に船に待機していた。

「おはようございます」

「おはよう」

 群治郎が朗らかに返した。

「大野千歳ちとせです。今日はよろしくお願いします」

 千歳は、髪をポニーテールに結んだクールそうな女性だ。

「よろしくお願いします」

 三人の若き陰陽師たちも挨拶を返した。

「大野ちゃんすごいね、小型船の免許なんて持ってたんだ。しかも一級」

 群治郎が感嘆したように言うと、千歳ははにかんだ。

「釣りが趣味なんです。ちなみにこの船は私物です」

「陰陽団ってマジでいろんな奴がいるな……」

 翼が小さな声で呟いた。

「準備はできているので、早速行きますか」

「それじゃお願いします」

 千歳の言葉に群治郎がそう返したので、勝元は咄嗟に口を開いていた。

「えっまだ心の準備できてない」

「じゃあ波に揺られながら覚悟を決めてください」

 そう言う千歳は真顔だ。彼女は勝元が反応を返す前に操縦席へと向かってしまった。

「……マジなのか冗談なのか分かんねえな」

 翼が神妙な口調で言う。群治郎は操縦席の方を見て楽しそうに笑っていた。

「大野ちゃん不思議ちゃんだからねー。まあそれはともかく、実際人魚がいつどのタイミングで出るかも分からないしさっさと腹を括ろうか」

「あっぐっさんも厳しい」

 不意に投げられた群治郎の言葉に、勝元は呻いた。



「あ、船動いた」

 浅瀬で香織とビーチバールを投げ合っていた柚子はふと動きを止めた。勝元たちが乗っている小型船がとうとう出発したのだ。ボールを持ったままぼうっと遠くを見つめている柚子の元に、香織が声をかける。

「おーいどうしたの……って、あー、船出発したんだね!」

 香織は目の上に手を置いて太陽の光を遮りながら船の方を見つめた。

「……大丈夫かなぁ」

 柚子は呟いた。囮という大層危険そうな役割を担当することになった勝元たちのことがとても心配だった。自分のパートナーは特に人魚の誘惑に屈する姿が容易く想像できるため、不安な気持ちしかない。すると、浜辺からありさの声が聞こえてきた。

「おーい、体力オバケたちー」

 ありさが手招きをしている。柚子と香織は彼女の方を向いた。

 沙也香と椿から話を聞いて、ありさは柚子のことを「体力と運動神経のオバケ」と認識するようになってしまった。香織もなかなかの運動能力の持ち主らしく、先程からまとめてこんな風に呼ばれている。

「スイカあるってよー。団長からの差し入れ」

「え!」

 柚子はパッと顔を輝かせた。

「スイカ割りしたーい!」

 香織も歓喜の声を上げる。二人はありさの元へと走った。ちょうどあきらがスイカを運んできたところだった。泳ぎも遊びもせずに浜辺でゆっくりしていた沙也香と椿もどこかソワソワしている。あきらがふうと息を吐いてあらかじめ敷いていたシートの上にスイカを置くのを見て、柚子は目を丸くした。

「うわっ大きい!」

「まだあります」

「まだあるんですか?」

 平然と言うあきらに椿が驚きの声を上げる。

「全部で三つあるので……あなたたちで適当に割って、みんなに配ってください。餌たちにも残しといてやって」

「男子への当たりが強いなぁ」

 ありさが冷静な声で言った。

「スイカ割り用の棒と目隠しのタオルはそこにあります」

 あきらはてきぱきと言いながらシートの上に置かれた道具を指差した。やけに用意周到である。

「なんであるんですか?」

 香織が尋ねると、あきらは一切表情を変えずに答えた。

「道具も含めてすべて団長からの差し入れです」

「完全に面白がってるじゃん」

 沙也香が呆れたように言った。

「なんでもいいからやっちゃおー! スイカ割りたい人!」

 香織がそう言って、空高く手を突き上げた。あまりにも元気なその姿に思わず笑ってしまう。

「一番年上が一番子供っぽい」

 ありさがからかうように言う。香織はつい先日誕生日を迎え、晴れて成人となった。

「順番でみんなやればよくない? 一発でちゃんと割れないだろうし。どうしてもやりたい人は優先で」

「私は大丈夫です」

 ありさがそう提案すると、沙也香はそう言って小さく手を振った。ありさは沙也香を見つめて目を瞬く。

「えーいいの? それじゃとりあえず一番最後にしとくね。柚子ちゃんと椿ちゃんは?」

「やりたいです!」

「私も、やってみたい……です」

 柚子に続いて、椿も遠慮がちに言う。ありさはニコッと笑った。

「それじゃ四人でじゃんけんして順番決めよ」

「あれっ、ありさちゃんもやりたいの? 意外!」

 香織はあんぐりと口を開けて言った。

「やりたいよー、やったことないし。はい行くよ、最初はグー」

「じゃんけんぽいっ」



「あー、いいなー女の子たち。スイカ割りしてる……」

 設置された椅子に座り、船端に両腕を重ね、その上に顎を乗せて浜辺の方を眺めていた勝元がぼんやりと声を上げた。棒を持ってヨロヨロと歩いているのは香織だろうか。彼女たちの高い声はこちらにも響いている。少し離れたところでだらけて座っていた翼が、勝元の隣へとやってきて同じように浜辺に視線を向けた。

「お、ほんとだ。いいなー、俺もスイカ割りやってみたかった」

 翼が言うと、勝元はチラッと横を見てから前に向き直った。

「……スイカ割りしてる女の子たちが可愛くていいなーってことね」

「いやわざわざ言い直さなくてもそうだろうなと思ったよ。ほんとぶれねえなお前」

 翼が呆れたように言う。勝元は気怠げに笑っただけだった。

 並んで座る勝元と翼の向かいには、静かに海を見つめる涼介が座っていた。何を考えているのかは分からない。舳先へさきに座る群治郎は、自身の得物である銃の整備をしている。

 ふと船が停まった。操縦席の方を見ると、部屋から出てきた千歳が「ここを第一のポイントとします。しばらく停まっているので人魚を誘き寄せてください」と言ってまたすぐに引っこんでしまった。

 人魚を誘き寄せるように指示された勝元と翼と涼介は思わず顔を見合わせた。美しい女性の姿をしていると言われる人魚の存在には確かに心惹かれる。だが、自分たちの階級ではまだ戦うことを許されていない強力な妖怪であることも事実だ。興味と恐怖の感情が合わさって、かなり複雑な気持ちのまま三人は黙りこんでいた。

「やり方が分からないわけじゃないよね?」

 ふと群治郎が声を上げた。三人が群治郎の顔を見る。

「……はい」

 涼介が頷く。

「……まあ怖いよな。気持ちは分かるよ。君たちは新人だし、こんな任務に就くことになるなんて思いもしなかったよね」

 群治郎の声色は優しい。群治郎はメンテナンスを終えた腰に銃を戻して続けた。

「でも……人魚に襲われてしまった人たちも、みんな自分がそんな目に遭うことなんてその瞬間まで知らずに喰われていったんだよね。覚悟を決める余裕なんてないし、そもそも決められないよな。得体の知れない存在に襲われる覚悟なんて」

 三人は何も言わず、真剣に群治郎の話を聞いている。群治郎はどことなく切なげな表情を浮かべていた。

「怖がることは悪いことじゃないよ。命を守るために必要な感情だから。恐怖心があるから人は防衛する。……でも、陰陽師なら怖がってるだけじゃいけないね」

 真面目な顔をしていた群治郎だったが、そこまで言うと小さく笑った。

「俺に言われても……って感じかな。でも大切なことだからね。……もし襲われたら俺が守るから、誘き寄せるところまでは君たちに頼むよ」

 俺は囮になるほど若くないからね。そう締めくくった群治郎は、三人に背を向けると海に視線を向けたまま何も言わなくなってしまった。

 勝元たちは互いに見つめ合った。このまま怖がって何もできないままではいけない。そんなことは分かっているのだ。

「人魚は歌が好き……なんだよな」

 勢いよく振り向き、海をじっと見つめて翼が言った。

「座学ではそう習ったな」

 涼介が言う。船の上はしばらく沈黙に覆われていた。翼は勝元と涼介の方へ向き直ると、二人が自分を見ていることに気付いて驚いた声を上げた。

「うおっ! な、なんだよ」

「この前のカラオケ、俺たちの中では断トツで一橋くんが歌上手かったなーと思って」

「……えっ、そ、そうか?」

 翼の顔が嬉しそうに歪む。勝元は深刻な顔で頷いた。

「いや待て、おだてて俺にやらせようとしてるだけだろ」

「だけじゃないよ、半分くらいだよ」

「それもアウトだろ!」

 翼が吠える。すると涼介が口を開いた。

「いや、マジな話お前が一番歌える。リードボーカルやってくれ」

「なんだよそのバンドみたいな言い方……」

 翼は不服そうに呟いたが、やがて大きく息を吐くと再び海の方へ顔を向けた。そして、意を決したように声を張り上げる。

「しゃーねぇなぁ! 歌ってやるよ! 何でもいいよな?」

「悲恋のバラードの方がいいよ」

 すかさず勝元が言う。

「喰われた人たちが歌ってた可能性のあるような人気の曲の方がいい」

 涼介も続けて忠告した。

「そういえばそう習ったな! 的確なアドバイスありがとよ! お前らも歌えよ!」

 翼はほとんど自棄やけになりながらそう叫ぶと、今若者の間でとても流行っているピアノ・ロックバンドの曲を口ずさみ始めた。



「うわめっちゃ甘い! 美味しい!」

「自分で割ったスイカ初めて食べるー!」

 柚子と香織が歓喜の声を上げる。沙也香と椿とありさも、不格好な形に割れたスイカを満足げに食べていた。

 柚子、椿、香織、ありさ、沙也香の順番でスイカ割りに挑戦した彼女たちは、人魚が現れるまで待機している陰陽師たちの元へスイカを配って回り、自分たちもようやく食べ始めたところだった。八郎が差し入れたスイカ割りは塩をかけなくても甘味が引き立っており、とても美味しかった。

「柚子ちゃん割るの美味かったねー」

「偶然ですよー! ……椿がヒビも入れられてなかったの面白かったですね」

 柚子がニヤッと笑ってそう言うと、椿以外の三人が笑い声を上げた。椿は顔を真っ赤にして声を上げる。

「ち、力がないんだからしょうがないでしょう!」

「ごめんってー」

「大丈夫大丈夫、私もほとんどだめだったし」

 ありさがそう言って、柚子と香織の方を見る。

「このオバケたちがおかしいんだよ」

「オバケじゃないですーねー柚子ちゃん」

「私たち普通ですよねー」

「普通じゃないと思う……」

「そう言う沙也香ちゃんも地味にすごかったけどね」

 ありさの言葉に一同は再び笑った。なんて楽しい時間だろう。

 スイカを食べ終え、一頻ひとしきり盛り上がった後、ふと柚子はずっと気になっていたことを口にした。

「なんで人魚とか雪女とか、みんな女の人の姿をしてて男の人が好きなんだろう」

 柚子の言葉に、四人は耳を傾ける。

「逆パターンはいないのかな? 人魚は女のイメージが強いけど……男の人魚も出てくる映画とかはあるにはありますよね」

「……確かに」

 ありさが頷く。

「でもやっぱり男の人魚が出てくる作品は少ないよね」

 香織もそう言って首を傾げた。

「……同性を誘惑する妖怪はいないのかな。いてもあんまり出てこないとか? ……団長は見たことない的なこと言ってたけど」

 与えられたイメージというものの影響は大きい。だが、それに縛られ続けるのも良くないだろう。柚子がしばらく考えこんでいると、沙也香がボソッと声を漏らした。

「男の方が誘惑しやすいからじゃない?」

 四人が同時に沙也香の方を見る。その様子に沙也香は一瞬たじろいでから、話を続けた。

「まあ人にもよるだろうけど、女の人は多分……男の人ほど知らない人からの誘惑に乗らないじゃないですか。だから、もしかしたら昔は男の姿をした妖怪とかモンスターがいて、女の人を誘惑してたけど、さほど捕まえられなくて減っていったとかあるのかなぁと思って」

「……なるほど……」

 香織とありさが揃って感嘆の声を漏らした。

「確かにありそう。あとは……昔は女の人は家にいる時間が長くて誘惑される機会自体あんまりなかったとか?」

 柚子も思いついたことを言ってみた。

「……あー……」

香織とありさが声を上げる。

「妖怪は人の恐怖や憎しみなどから生まれると言うけど……男性が女性に抱く恐怖心は妖怪を生みやすい性質を持っているのかもしれないですね。例えば怒った女性は何をするか分からなくて怖い、とかそういうの……女性から見て怖い男性も当然いるけど、その怖さは声や体が大きくて力が強いからとか、どちらかというと男性の存在そのものが怖いという感じだから……」

「……ほー……」

 香織とありさはすっかり放心したような声を上げている。

「三人とも頭いいね」

「レベルが違うね」

「そっそんなことないですよ!」

 こっそりと囁き合う二人を見て、柚子たちは慌てて声を上げた。



 翼と勝元と涼介の歌声は、意外と悪くなかった。群治郎が感心したように三人を見つめている。リードボーカルを務める翼はだんだんと調子が出てきたのか、目を閉じて体を揺らし始めた。

 急に勝元と涼介の歌声が消える。サビに入る一つ前のフレーズを歌いながら目を開けた翼は、二人に文句を言おうとしたが、目の前の状況を見て固まってしまった。

 大きく広がる海の中に、一人の少女がいる。

「あれ、やめちゃうの? 続きを聴かせて」

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