愉しい旅行(6)

「……やはり、姫君ほどのお方を僕ごときの術で惑わすことなど、不可能なのですね」

 ずっと耳の奥で鳴り続けていた笛の音が止んだ。ふと声が聞こえてきて、柚子は慌てて振り向いた。近くには誰もいない。柚子は気配を感じて上を見た。少し先に見える木の枝の上に、誰かが立っている。柚子は目を凝らした。着物を着た儚げな雰囲気の人物が手に篠笛を持っている。少女のように見えるが、声は少年のそれだ。

「あんたが……」

 柚子は低く唸った。

「そうだ、姫君は記憶を失くされているんでした。自己紹介いたしますね。僕は奏丸かなでまる。篠笛の付喪神です」

「付喪神?」

 柚子はおうむ返しに繰り返した。奏丸が頷く。付喪神。小さい頃にテレビでやってた昔話で見たことがある気がする。柚子は必死に思い出した。確か、長く使われてきたものに取り憑くおばけみたいなの。これも本当にいるんだ……。

 奏丸は木から降りて柚子の目の前に立った。柚子は天叢雲剣を持つ手に力をこめた。奏丸が目を伏せる。

「ご無礼をお詫び申し上げます。ですが、僕たちもなりふり構っていられないのです」

 奏丸はそう言うと、笛を口の近くまで持っていった。

「あの建物には、僕の可愛い三人の弟たちが向かっています。姫君がお戻りになっても、皆さんはもう弟たちの手によって死んでいるでしょう」

「は……?」

 柚子は息を呑んだ。急いで戻らないとみんながやられてしまう。早くこの奏丸という妖怪を倒して施設に戻らなければ。柚子は天叢雲剣を振り上げた。奏丸が、歌うように呟く。

「姫君、僕たちの元へお戻りくださいませ……」

 柚子が剣を振り下ろそうとしたその時、奏丸は篠笛に息を吹きこんだ。

 その瞬間、奏丸の姿は煙のように消え、柚子の目の前には再び母親の姿が現れていた。柚子は思わず剣を振り下ろす向きを変えてしまった。

「柚子」

「……っ」

 柚子は母親から視線を逸らした。目を閉じて唇を噛みしめる。情けない。偽物だと分かっているのに、攻撃ができない。

「柚子。一緒に行こう?」

 必死に母親の言葉を無視して、柚子は大きく息を吐いた。それから、意を決して歯を食いしばり、天叢雲剣を母親の姿をした幻覚に向けて勢いよく突き刺す。母親は胸から大量の血を流して煙のように消えた。

 柚子が一息つこうとしたその時、柚子の前にはまたもや母親が立っていた。

「柚子、無理しないで」

「もう……やだ……!」

 柚子は涙を堪えながら声を絞り出した。再度母親の胸元を貫いたが、案の定、母親の姿はもう一度現れた。

「いい加減意地張るのはもうやめなさい」

「やめて……!」

 柚子は涙声で叫んで剣を振った。力加減がまずかったのか、即死できなかった母親の耳をつんざくような叫び声が響き渡る。柚子は顔を歪ませた。両手で天叢雲剣を構え、勢いよく振って己を惑わす幻影の首を斬り落とす。それでもまた母親は現れる。柚子はとうとう力なく崩れ落ちてその場にへたりこんでしまった。

 両手で顔を押さえてすすり泣く。たとえ偽物だと分かっていても耐えられなかった。こんなの拷問だ。心が擦り減って、死にそう。

「姫君」

 篠笛を吹くのを一旦中断して、奏丸が声を上げる。目の前にいたはずの母親の姿はどこかへ消えていた。

「一緒に来ていただければ、やめます」

 柚子は声の聞こえる方を睨みつけた。奏丸は篠笛を演奏しながら木々の枝から枝へと移動しているのか、その姿は見つけられなかった。

 彼らの元に行くわけにはいかない。妖怪たちの元へ自分が向かって何がどうなるのかはまったく想像もつかないが、決して屈してはならないということだけは分かっていた。柚子は黙って奏丸の声に耳を澄ませる。

「僕の篠笛の音色は、聴いた者が最も会いたいと願う者の姿を映し出します。姫君も、もっとそのお方と一緒にいたいと思うのであれば、こちらにお戻りになった方がいいのではないのでしょうか」

 奏丸は淡々と言った。行くものか。戻ったとしても、母親と一緒にいられないことなんて分かっている。

「会いたいと願う者……」

 柚子は呟いた。

「そうです。僕にできることはそれだけ」

 奏丸はそう言うと、再び篠笛の唄口に息を吹きこんで音を鳴らし始めた。柚子の目の前に先程消えたばかりの母親が現れる。母親は地面の上に座りこんでしまっている柚子に近づいて、抱きしめようと優しく腕を伸ばしてきた。柚子が勢いよく振り払うと、母親は拒絶されたことにショックを受けたような表情を浮かべる。その顔を見て一瞬申し訳ない気持ちになってしまった自分に気がつき、柚子は顔をしかめた。

 会いたい人か。……会いたいに決まってる。だって、もう二度と会えないんだから。

 こんな別れ方をすることになるなんて夢にも思わなかった。あの時、もう少し冷静でいられたら母親は化け狐に喰い殺されずに済んだのではないかと、何度も何度もそう思い返している。守れたはずなのに、守れなかった。柚子の大きな目から大粒の涙が零れ落ちた。

 せめて、謝れたらいいのに。私が人間じゃないせいで、お母さんを巻きこんで、死なせてしまった。お母さんは私が殺したようなものだ。

 それに、許されるなら、ありがとうとも言いたい。今まで育ててくれてありがとう。私のことを産んでくれてありがとう、と。お母さんの娘で良かったと、心の底からそう思っているということを伝えたかった。

 だけど、もう叶わない……。

「……会いたいって思うことの、何が悪いって言うの……」

 柚子は深い息と共にそう吐き出した。

 もう会うことができないのだから、想いだけが募っていく。この気持ちはどうしようもできない。大切な人がいなくなってしまったという事実を受け止めることができたとしても、だからといってもう悲しくないというわけではないのだ。

 もしかしたら、母親の死は一生引きずることになるかもしれない。柚子はそう思った。きっと、この寂しさとは今後も付き合っていかなければならないのだろう。

 ならば、やることはただ一つだ。

「会いたいよ。お母さん……」

 柚子は小さな声でそう言った。そして、目の前にいる母親の姿をした何かを見つめる。

「でも、今一番会いたいのはお母さんじゃない」

 柚子はハッキリと言った。

「今私が会いたいのは……」

 柚子はそう言うと、ゆっくりと立ち上がって上を見上げた。

 この研修旅行が終わり次第、自分は陰陽師になる。この道を歩むと決意したのだから、覚悟だって決めなければいけない。柚子が今何よりも優先すべきことは、いち早くこの戦いを制して仲間たちの元に向かい、全員の安全を確保することだ。そしてそのためには、あの奏丸という妖怪を可能な限り迅速に倒さなければならない。

「奏丸。あんただよ」

 柚子が力強い口調で言うと、心配そうに柚子を見つめる母親の姿が溶けるように消えて、奏丸の姿へと変わっていった。そう、私が今会いたいのは本物の奏丸。こいつに会って、倒さなくちゃいけない!

 柚子は目の前の奏丸を迷いなく斬りつけた。奏丸の体は霧散し、跡形もなく消え去る。すぐさままた偽の奏丸が現れたが、柚子は躊躇いなく斬りかかった。もう遠慮はいらない!

 何度も代わる代わる現れる幻影の奏丸を斬りながら、柚子は走った。笛の音が遠ざかっていく。死の匂いを嗅ぎ取った本物の奏丸が、必死に逃げているのだろう。だが、逃がすものか。

 柚子はもう何体目か分からない奏丸の腹部を思いきり貫くと、剣を引き抜いて高く跳び上がり、木の枝の上に乗った。そして、木々の間を軽やかに跳んで奏丸を追いかける。

「姫君、どこにおられるのですか?」

 柚子の少し先にいた奏丸は立ち止まると、演奏を止めて辺りをキョロキョロと見回し、すっかり怯えた声で叫んだ。

「さすが姫君、お速い——」

「ここにいるよ」

 柚子は奏丸の立っている木の枝のすぐ近くの枝に降り立った。奏丸が目を大きく見開く。

「笛の音が途切れると幻もなくなるのに演奏やめちゃうの? 超余裕じゃん」

 柚子は皮肉っぽく言いながら木の根元を一瞥した。先程まで自分を追っていた偽の奏丸の姿はない。

「姫君……僕にはこれほどの能しかございません……どうか……」

 懇願するように弱々しい声を上げる奏丸を、柚子は冷ややかに見つめた。ああ、あんなことをしておきながら、あんたは私が怖いんだ。

「許さない」

 柚子はハッキリとそう言うと、天叢雲剣を大きく振りかぶった。



水行為癸壱急急如律令すいぎょういきいちきゅうきゅうにょりつりょう、癸の壱、泡盾ほうじゅん!」

 沙也香と和泉が咄嗟に印を結んだ。その瞬間、大きな泡が二つぷっくりと膨らみ、一同の体を包みこんだ。丈夫な泡で妖怪の攻撃を防ぐことができる術だ。素早く斬りかかってきた伐丸の斧が泡を直撃したが、泡はプルプルと揺れるだけで割れる気配はない。伐丸は反動で弾かれ、「うおっ」と声を上げながら大きく吹っ飛んだ。

「こいつら、何の妖怪だ?」

 涼介が首を傾げた。

「なんか分かんないけど、とりあえず倒せばいいんだよね?」

 勝元も声を上げる。

「あんたたち、無理しちゃだめよ!」

 桐真がそう言って、腰に納めている刀を抜いた。

「ほんと、何の妖怪なのよ……正攻法が分からないじゃない……」

 桐真が困惑したように言ったその時、沙也香が作った泡盾がパチンと弾けて割れた。その瞬間、弽と胸当てを装備し終えた椿が叩丸を狙って矢を放つ。叩丸は椿の打った矢を間一髪で避けると、椿を見つめた。

「無駄な足掻きはみっともないよ」

 叩丸は小馬鹿にするような表情でそう言うと、勢いよく駆け出して椿めがけて槌を振り上げた。和泉の作った泡盾が割れた瞬間、慌てて翼が駆けつけ、刀で槌を弾いて攻撃を防ぐ。それも束の間、今度は刈丸が翼の体を斬り裂こうと鎌を振り回しながら近づいてきた。涼介が投げた手裏剣が刈丸の手の甲に当たり、刈丸が痛みに立ち止まったところで、和泉がもう一度泡盾を作り出した。先程よりも大きな泡が全員の体を包みこむ。

「一度に三体を相手するのは大変ね……」

 椿が言った。その視線は、叩丸が避けた辺りの床に落ちている矢へと向けられている。

「何なんだこいつら」

 涼介が唸るように言った。桐真が涼介に視線を向けて息を吐く。

「三体とも……何の武器持っとるんやろ」

 和泉が呟く。

「どういうことですか?」

 沙也香が尋ねたその瞬間、泡盾が割れた。

「てめえら安全なところでくっちゃべってんじゃねえよ!」

 伐丸が涼介の足元に狙いを定めて、まるで木の幹を伐るように斧を横向きに振りかぶる。

土行為己弐急急如律令どぎょういきにきゅうきゅうにょりつりょう、己の弐、隆隆りゅうりゅう!」

 和泉が叫ぶ。土が大きく盛り上がって涼介の立っていた床を押し上げ、涼介を伐丸の攻撃から守った。その瞬間に椿が再び矢を放つと、矢は伐丸の左腕に当たった。椿は少し嬉しそうな顔をした。

「イッテェな!」

 伐丸が呻き声を上げながら、右手で矢を引っこ抜き、その場に乱暴に投げ捨てた。ゆっくりと伐丸の左腕の傷が塞がっていく。椿の表情が凍りついた。

「この野郎……チマチマ動き回りやがって!」

「伐丸は相変わらず血の気が多いなぁ」

 叩丸が呆れたように言う。

「ああ? それの何がわりいってんだ!」

 伐丸はそう言いながら再び駆け寄ってきた。その瞬間、勝元が印を結ぶ。

「火行為丁弐急急如律令、丁の弐、不知火」

 一同の目の前に一筋の炎が並び、それを境に三人の妖怪の姿が見えなくなった。

「うおっとっとっと……消えた?」

 伐丸の慌てたような声が響く。

「……本当にいなくなったわけじゃないだろう。その炎の向こう側にいる」

 刈丸の冷静な声も聞こえる。

「おい、どうなってんだよ?」

 翼が素っ頓狂な声を上げると、勝元は「シーッ!」と口元に指を当てた。

「向こうからも俺たちの姿は見えてないよ」

 勝元は小声でそう説明した。

「そういえば和泉、さっき何か言ってたわよね」

 桐真がそう囁いて、和泉を真っ直ぐに見つめた。和泉は微かに頬を染めつつ、真剣な表情で頷く。

「うん。三人とも、妖怪の武器としては馴染みのないもの使っとるなって思って……」

「古びた農具ですよね。好んで武器として使用するものではないと思うけど……」

 椿が呟いた。やがて不知火の炎が消え、妖怪たちの姿が再び現れた。

「出たな……!」

 伐丸がニヤリと笑う。

「水行為癸壱急急如律令……癸の壱、泡盾!」

 沙也香がまた泡盾の術を唱えた。伐丸の「オイ!」という声が聞こえる。

「武器からあいつらが何の妖怪なのか、分かったりしますか?」

 沙也香が叫ぶ。叩丸が槌で泡盾を叩いた。叩丸の体はポヨンと跳ね返ったが、泡盾は一撃で割れてしまった。

「今だ!」

 ここぞとばかりに刈丸がやってきて鎌を振り下ろす。涼介が二本の苦無を持って刈丸の鎌を押さえつけた。それから、二人は互いを弾き返そうと自分の得物に力をこめて押し合い始める。

「古びた農具……」

 桐真は呟くように言ってから、ハッと息を呑んだ。

「あいつら、最初なんて言ってたかしら? 私たちに襲いかかってくる前! 私たちに対して、なんかちょっと変なこと言ってなかった?」

 桐真の言葉に、刈丸の首筋を狙って弓を引いた椿が大声を上げた。

「刈り取るとか、伐り倒すとか!」

 矢は見事に刈丸の首に刺さった。刈丸が苦しそうに声を上げながら悶え、矢を引き抜く。

「あと、叩き潰すって!」

 勝元も叫んだ。同時に武器を振り下ろしてきた伐丸と叩丸から、火ノ壁で身を守ったところだった。

「分かったわ!」

 桐真が勝ち誇ったように声を張り上げた。 

「こいつらは持っている武器そのもの! つまり、人間に化けた付喪神よ!」

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