愉しい旅行(5)

「え? なんで……お母さん……どうしてここにいるの……?」

 柚子は掠れた声で囁いた。以前よく着ていたパンツスーツに身を包んだ母親が、悲しそうな微笑みを浮かべて森の近くに立っている。柚子はよろよろと歩きながら母親に近づいた。

「柚子……」

 母親は娘の名を呼ぶと、両腕を広げた。

「一人にしてごめんね」

 その瞬間、柚子は飛び出していた。母親の体に抱きついて、年甲斐もなく泣き叫ぶ。

 母親は何も言わずに柚子を抱きしめ、小さな赤子をあやすように背中をぽんぽんと叩いた。その心地よさに、柚子は更に顔を歪ませた。

「……お母さん……ごめんなさい……」

 柚子は震える声で謝った。ずっと謝りたかった。あの時、冷静になっていればもっと上手く動けたはずだった。お母さんを死なせずに済んだはずだった。

「私がもっとしっかりしてれば……お母さんを守れたのに……」

「柚子は悪くないよ」

 母親は優しく、それでいてはっきりとそう言った。

「あんな状況でしっかりできる人なんていないから」

 母の慰めに、柚子は唇を小刻みに震わせた。ギュッと瞳を閉じると、まぶたについた水滴がポロポロと垂れて再び頬を濡らす。

 お母さんともっと話したかった。一緒に出かけたりもしたかった。

 柚子にいわゆる反抗期と呼ばれるような時期はなかった。親子の仲は良かったが、母親はいつも忙しく、ずっと柚子のそばにいたというような感じではなかった。一人で私を育てるために大変な思いをして働いてくれてたのに、何も親孝行できないままお母さんは死んじゃった。柚子が心の中でそう呟くと、また目に涙が滲んできた。まだまだ全然物足りない。もっと一緒の時間を過ごしたかった。お母さんとたくさんのことを分かち合いたかった……。

「……寂しかった……」

 柚子はくぐもった声で深い息と共に吐き出した。ずっと誰にも言えなかった、心からの叫びだった。

「うん」

 母親は柚子の頭を撫でた。柚子は母親にしがみついたまま続けた。

「お母さん……私、どうすればいいか分かんないの……」

「何が?」

 母親が聞き返す。柚子は唇を噛みしめた。こんなこと、お母さんに言ってもいいのかな。私のことを嫌いにならない? 怖がらない? そもそも、もういないはずなのに現れたお母さんは一体何者なの? 幽霊? だったら伝えてもいいのかな。だって、誰にも言えないのに、誰かに聞いてもらいたいから……。

 もう耐えられなかった。柚子は思いきって口を開いた。

「……私……前世で酷いことをしたみたいなんだけど……覚えてないの。何も覚えてない……でも、もしそれがほんとだったら、絶対に許されないことなの。死なないと償えないくらい……ううん、それでも足りないかも……」

 柚子の言葉に、母親は目を見開いた。体を離して、じっと柚子を見つめる。柚子は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「どうしてそんなこと言うの」

「だって……」

 柚子は前世の自分が犯した罪を母親に告げようとしたが、結局、何も言えずに固まった。小さく開いた口からは、苦しげな呼吸が漏れている。

「柚子が死ぬ必要なんてない。あのね、柚子は生まれてきただけで偉いんだよ」

「……そうなのかな」

「そうだよ。柚子が生まれてきてくれて、お母さんそれだけで本当に嬉しいんだから」

 惨めな思いだったが、母親にそう言われると、少しだけ気分は楽になった。柚子はもう一度母親に抱きついた。

「……ありがとう……お母さん……」

「ううん。……柚子はただ楽にして、柚子の好きなように、やりたいようにやればいいんだよ」

 母親の言葉に、柚子は思わず微笑んだ。小さい頃って、どんな夢を持ってたっけ。お母さんに聞けば思い出せるかな。

「ねえお母さん……」

「ん?」

「どうして……ここにいるの?」

 柚子は、聞こうと思っていたものとは異なる質問を口に出していた。しかし次の瞬間、柚子は自分がそんな疑問を抱いたことに疑問を感じていた。お母さんはここにいる。何もおかしいことなんてなくない? だって、お母さんは私の家族なんだから。

「柚子を迎えに来たの」

 母親の言葉の意味が分からず、柚子は首を捻った。

「一緒に行こう。みんなもいるよ」

「みんなって……?」

 柚子は唾を飲みこみ、涙を拭いながら尋ねた。母親は何も言わずに柚子の手を取り、優しく繋ぐと、森の奥へとゆっくりと歩き出す。しばらく歩くと、背の高い木々の中に人影が見えて、柚子は目を凝らした。

「え……お父さん……?」

 柚子は唖然として呟いた。精悍な顔つきをした若い青年が立っている。青年は徐々にこちらに近づいてきていた。柚子も母親と繋いだ手を離して、青年の元に向かう。

「柚子」

 青年が柚子の名を呼んで微笑んだ。青年の整った顔は、笑うとクシャクシャになった。

「ずっと一緒にいてやれなくてごめんな……」

「お父さん……!」

 柚子が父親に駆け寄る。父親は柚子を強く抱き寄せた。止まっていたはずの涙が再び溢れてきた。お父さん。お父さんだ。まったく覚えてないけど、ずっと、ずっと会いたかった人。

「大きくなったな……本当に……」

 父親が慈しむように言う。柚子は何も言えず、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくった。母親も近づいてきて、柚子の背中から腕を伸ばして夫と娘を抱きしめた。

 しばらくの間ずっとそうしていると、周りに人が集まってきたような気がして柚子は顔を上げ、目を瞬いた。藤原親子の周りに、四人の年取った男女がそれぞれ二人ずつ立っている。

「私のお父さんとお母さん。おじいちゃんとおばあちゃんだよ」

「こっちは父さんの父さんと母さん。四人とも、柚子の家族だよ」

 柚子は父と母に抱きしめられたまま、祖父母たちの顔を見回した。四人とも、どこかで見たことがあるような顔をしている。四人はみんな皺だらけの顔を更にしわくちゃにさせて、柚子を愛おしそうに見つめていた。

「みんな……みんないるんだ……」

 心臓がドクドクと鳴り響いている。こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。柚子が荒い呼吸をしながら家族の顔を順番に見ている間に、父親と母親はゆっくりと柚子から体を離した。

「私の家族……」

「そう。みんなここにいるよ」

 母親が明るい声で言った。

「みんなで一緒に帰ろう」

 父親も元気よく言った。柚子は父親と母親の間に入って、二人と手を繋いだ。祖父母たちが満足げに微笑み、先導するように前を歩く。柚子は両親と一緒に幸せな気持ちで歩いた。

 周囲を見ると、いつの間にか森から抜け出していて、見覚えのある道が広がっていた。

「……どこに向かってるの?」

 気付けば柚子は声を上げていた。父親と母親は驚いたように柚子を見て、お互いの顔を見合わせた。それから、おかしそうに笑い声を上げる。

「どこって、もちろん家だよ」

「家に帰るんだよ」

 二人の言葉になんとなく納得が行かず、柚子は首を横に振った。

「だって……、今私は陰陽団の寮に住んでるんだから、帰るならそっちに行かなきゃ」

 柚子はそう言ったが、なぜ自分がそんなことを言ったのか分からなかった。頭がふわふわする。母親は心配そうに柚子を見つめた。

「何言ってるの? そんな必要はないでしょ。みんな一緒にいるんだから」

「え……でも……あれ? 変なの……」

 柚子は何が何だかよく分からなくなってきて力なく笑い声を漏らした。ふと振り向いた祖母と目が合う。そして柚子は、恐ろしいことに気付いてしまった。

 そっと両親から手を離して、よろよろと後退あとずさる。家族のみんなは、そんな柚子を不安げな表情を浮かべて見つめた。柚子は愕然として立ち尽くしていた。

 私のおじいちゃんとおばあちゃんたちは、みんな私が生まれる前か、生まれてすぐに死んでいる。写真を見せてもらったこともあるけど、こんなに年は取っていなかった。父方のおじいちゃんに至っては写真も見たことがない。この人たちは、どこかで見たことがあるんじゃない。お母さんにいろいろ教えてもらう前に、小さい時に自分で想像していたおじいちゃんとおばあちゃんの顔だ。

 柚子は顔を青くして、嘘であってほしいと願うように小さく首を横に何度も振った。おかしい。おかしい。おじいちゃんとおばあちゃんは子供の時に夢見た顔をしてる。お父さんは写真で知っている姿のまんま。お母さんは、死んだあの日に着ていたのと同じパンツスーツ姿……。

「信じられない……」

 柚子はそう呟くと、ポケットの中にそっと手を入れた。

「何が信じられないの?」

 母親は心の底から柚子を心配しているような声でそう言った。柚子の息が次第に荒くなっていく。ここから抜け出すにはどうすればいいんだろう? 柚子は必死に頭を巡らせた。一つだけ方法が思い浮かんだが、そんなことはしたくない……。

「早く帰ろう。お腹空いたでしょ」

「みんなで昼ご飯を食べよう」

 母親と父親が言う。本当にそんなことができたらどんなに幸せか。でも、ありえないのだ。唇を噛んで黙っている柚子を見て、父親が口を開いた。

「柚子! 帰るよ!」

 父親の怒鳴るような声を聞いたその瞬間、柚子は決意した。

 柚子はポケットの中に入れていた門の札を引っ張り出し、天叢雲剣を取り出すと、両親めがけて勢いよく剣を振り下ろした。

「ぎゃあああ!」

「うわああああ!」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 柚子は泣き叫びながら何度も剣を振り回した。母親たちが痛みに叫び声を上げる。柚子は歯を食いしばりながら自分に言い聞かせた。惑わされるな! 手加減するな! ここにいる家族はみんな、偽物なんだから!

「ああああっ!」

 柚子は天叢雲剣を握りしめると、大声で絶叫しながら六人の体を斬り裂いた。家族は苦しそうな断末魔を上げると、煙のように消え去った。その瞬間、周りの風景もグニャリとねじれるようにして元に戻り、柚子は涙を流しながら森の中に一人立ち尽くしていた。

 最低。最悪。信じられない! こんなことしてくる妖怪もいるんだ。柚子は怒りに震えていた。

 騙された自分が情けなく思えた。忘れてはならない。柚子の家族はみんな死んでいる。この世に誰一人と残っていない。母親は化け狐に喰われて死んだ。この目で見たのだ。その事実が覆ることはない。全員死んでいる! 生き返ることはない!

「……ううっ……」

 柚子は呻き声を上げると、最後の涙を拭って顔を上げた。天叢雲剣をしっかりと持ち直して、震える手を押さえつける。

 こんなむごいことをさせる妖怪がいるなんて。絶対に許さない!



「柚ちゃん遅くない?」

 勝元が声を上げた。他の四人が食堂の中を見渡す。翼がスマートフォンを取り出して時間を確認した。

「もう一時半だぜ。さすがに腹減るよな」

「さっき声かけたんだけど……集中してて時間忘れちゃってるのかもしれない」

 沙也香が心配そうに声を上げる。椿が立ち上がった。

「休憩はした方がいいわ。呼んでくる」

 椿はそう言うと、食堂を出て訓練場まで向かっていった。しかし、五分ほど経ってから小走りで戻ってきた椿の隣に柚子はいなかった。

「訓練場にいなかったんだけど……入れ違い……ではないみたいね……」

「え……?」

 五人の間に緊張が広がった。翼が意味もなくスマートフォンの画面をつけては消す作業を数回繰り返してから声を上げる。

「部屋に戻ってるとか……」

 翼の言葉に、椿が首を横に振る。

「部屋にはいなかったわ」

「ト、トイレかな……」

 沙也香が声を上げる。

「もうちょっと待ってみる……?」

 勝元が控えめに言った。一同はまるで自分に言い聞かせるように何度も頷いた。椿が席に着く。しかし、更に五分が経過しても柚子は戻ってこなかった。

「……何も言わずにどっか行くようなタイプじゃなさそうだけど……」

 涼介が呟く。五人が不安げに顔を見合わせていると、食堂にあきらたちがやってきた。

「皆さん。昼休憩が長いですよ。旅行気分では困ります」

 厳しい口調で説教を続けようとするあきらを、椿が遮った。

「あきらさん。柚子が訓練から戻らないまま見つからないのですが……」

 椿の言葉を聞いた瞬間、あきらは口をつぐんだ。素早く群治郎と視線を合わせると、鋭く指示を出す。

「全員ここを離れないで! 何かあれば一緒に行動してください。桐真、和泉、五人を頼むわ。私たちは外を見てくる」

「了解です」

 桐真と和泉がしっかりと返事をしたのを確認すると、あきらと群治郎は無言で急いで走っていった。

「……実は、この森には生け捕りにした妖怪を閉じこめているの。実習に使うためにね。この施設には近寄ってこれないようにしているはずだけど、何かあったのかもしれないわね……」

 桐真が言う。四人が顔を青くした。勝元はなんとも言えない表情で黙りこくっている。

「大丈夫。あきらさんもぐっさんも強いけん、ちゃんと柚子ちゃんを連れ戻してきてくれるよ」

 和泉がみんなを慰めるように明るい声で言ったその瞬間、食堂の窓ガラスが割れる大きな音が響いた。

「きゃあっ!」

「ウワッ?」

「な、何?」

 一同が悲鳴を上げる。顔を上げると、窓が三枚も割れていた。その割れた窓の向こうから、それぞれ一人ずつ誰かが食堂の中に入ってくるのが見える。三人とも、そっくりの顔をした少年たちだった。一人は頭に、一人は口元に、一人は首元に赤い布を巻いている。

「さっさと刈り取るぞ」

 口元を布で隠した少年が言った。手には小さな鎌のようなものを持っている。鎌の刃は軽く折れ曲がっている。

「おい刈丸かりまる、俺に指示すんな! 一番上の俺が全員り倒してやる」

 頭に布を巻いた少年が叫んだ。彼は斧を持っている。斧はところどころ傷んでいるように見えた。彼の言葉に、首に布を巻いている少年が馬鹿にするような笑い声を上げる。

伐丸きりまる、俺たちに順番なんてほとんどないようなものでしょ。この叩丸たたきまるが全員叩き潰すから、二人とも見てなよ」

 叩丸と名乗った少年が、今からゲームでもするような調子でそう言いながら、右手に持った槌を左手に軽く何度も叩きつけた。槌は少しひしゃげている。

「……こんな奴らいたかしら……」

 桐真がぼんやりと呟く。

「やばい、来る!」

 沙也香が叫んだ。

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