打ち上げ前夜

 作業スペースとして確保した雑居ビルの3階。その上階が各自の生活スペースとして割り当てられている。ここ数日、雑居ビルの4階にあるネットカフェの個室がコースケの寝床となっていた。


 カラオケボックスほどの広さの部屋には、床一面に広がるふかふかのシートが備え付けられている。入り口と反対側の壁には窓があり、窮屈さが幾分か和らいでいた。壁は薄いパーティションであったが、空間は天井まで仕切られていて、その居心地は思いのほか悪くなかった。


 付けっ放しになったテレビ画面には、『台風13号厳重警戒』という青のL字型テロップが表示されている。都内全域に大雨洪水警報が発令されているようで、気象庁が行なった会見の様子が報じられていた。画面左上のデジタル時計は夜7時過ぎを知らせていて、打ち上げまでは30時間を切っていた。


 コースケはテレビから目を外して、窓の外をぼんやりと眺める。窓からは外神田の裏通りが見下ろせた。重たい雲の下、電線からは雨が滴り落ち、街灯や看板のネオンが濡れた路面を鮮やかに照らしている。通りに面したパーツショップの店主が商品ワゴンを片付けている。傘をさした通行人は足早に歩いていく。台風の接近に伴い、雨風はだんだんと強まっていた。


「ずっと室内にいた気がして。こういう日なら堂々と歩けるよね」

 廊下に出たコースケはエリとレンを呼び出すと、そう提案した。連日、フル稼働で作業を続けていたこともあって、気分転換をしたかった。


 ビニール傘をさした3人は、土砂降りの秋葉原に繰り出した。JR線は大雨の影響で運休していて、見渡す限り人通りはまばらだ。途中ですれ違ったのはスーツを着た数人のサラリーマンと、カッパを着て必死に自転車を漕ぐ出前の配達員だけだった。


 店仕舞いが済んで閑散とした街を歩く。賑わった雑踏の音の代わりに、路面を打ち付ける激しい雨音が街を覆っていた。中央通り沿いに建てられたオフィスビルのエントランス前には止水板がせり出し、ほとんどの店のシャッターが下ろされている。シャッターがない店舗は、窓ガラスに養生テープを米印に貼って凌いでいる。


「秋葉原ってこんなに静かだったんだ」

 コースケは、自分たちが世界の喧騒から取り残されたように思えた。


「こんな天気だし。それに夜だし」

 レンがぼそりと言った。


 外神田一帯を一周した3人は、神田明神と柳森神社にお参りをした後、ネットカフェへと戻った。




 シャワーを済ませたコースケは、帰り道に自販機で買った人数分のおでん缶と弁当を作業スペースの片隅に置いた。PCに向かって作業を続けていたのは檜山一人だけで、他の人々は自室に戻っているようだ。壁に掛けられた8桁の7セグメントディスプレイが刻々とカウントダウンする。


「エリとレンが、上で一緒に食べないかなって」


 手元のラップトップから目を離すと、檜山は言った。

「気ぃつこーてくれてありがとう。せやけど、まだキリも悪いし。一人も嫌いやない」


「暖かいうちに」


 コースケの言葉に、檜山は明るい声で応えた。

「折角だし、おでん缶にしようか」


 コースケは屋上へと繋がる階段を上った。階段の踊り場は落ち着いていて、火照った身体を冷ますにはちょうど良かった。手すりに軽く腰掛けたコースケは、コンクリートの壁にもたれかかる。シャツ越しに背中がひんやりとしみた。頭上では薄暗い蛍光灯がジーっという音を立てている。


 肩の力を抜くように、深く息を吐く。溜まった今までの疲労がすーっと抜けていくようだった。


 暫くして、下の階から足音が近づいてきた。音の方を見るとニールの姿があった。

「差し入れ、ありがとう」


「いえ」


 ニールはコースケの隣に肩を並べると、前を向いたまま問いかけた。

「ロケットを作ったこと、後悔していないか?」


「……もう一度やり直せるとしても、作らずにはいられなかったと思います」

 コースケは階段の先、屋上へと続くドアを見上げる。雨がバシャバシャと窓に打ち付けていた。


 ニールは口元を緩ませる。

「私も同じだった。飯も忘れて夢中でもの作って……気づいたら朝になってて。懐かしい」


 建物の外で唸る雨風の音が空間を包む。頭上の蛍光灯がパチパチと不安定に揺らぐ。


「この先に、なにもなかったら――」

 無意識に溢れた不安が、足元にころりと転がった。過去を振り返れば、その日々は紛れもなく充実していた。だが、未来がそうとは限らない。


「やってる最中は前が見えないからな。けれど結果がどうであれ、終われば全ていい思い出になる。そういうものだと思う」


「なんかほっとします」


「島本の言葉だ。打ち上げ前に風邪ひくなよ」

 ニールは照れ隠しをするように言い残すと、階段をゆっくりと降りていった。


 コースケの部屋に集まった3人は、胡座をかいてちゃぶ台を囲んだ。ちゃぶ台は小さく、3人分のおでん缶と弁当、それにドリンクを置いただけで手狭になった。


 3人は、何を話したかすら記憶に残らないような、他愛もない話に明け暮れた。それは時間が止まればいいのにと思うほどに穏やかなひと時で、わずかな時間でも、ロケット開発をしていた時と変わらない日常があった。動乱の最中、束の間の平穏をコースケは噛み締めていた。

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