エピローグ 終わりも駅
────そこは、あの駅でした。
らんおばあさんがホームのふちギリギリに立って、のんびりと線路を見下ろしています。
巾着袋が揺れています。
らんおばあさんが、まるで歩くように足を宙に踏み出しました。
やばい。
警笛がけたたましくプワーーーーン!!
電車がワアァァァンッッと入線!
中村玄はいない。
だから、あたしは叫ぶことしかできません。
ので、とにかく、ともかく、なにしろ、らんさんを救うために、それしかできないから、全身全霊で、心の底から、絶望的に、ああ、なんでこんな時に中村玄がいないの、ほとんど諦めながら、あたしには救えない、無理、無理でしょ、ごめんなさいらんさん、という精一杯の思いで、叫びました。
「危なぁぁぁぁいっ!」
すると、え?
あれ?
誰かが巾着袋を握ってる。
らんさんを引き戻した。
そこに立っていたのは、二十代の青年でした。
「ああ、やっぱりらんおばあちゃんだ。こんなところでなにをしてるの、危ないなあ。徳さんが亡くなったって聞いて、きっとおばあちゃん落ち込んでるだろうなって、これからお見舞いに行こうと思ってたんだよ。ずっとご無沙汰してたからね。電車に乗ってたらうたた寝をしちゃって、でも、どういうわけか夢の中にあのちっちゃい白黒が出てきて、いきなりブワッて膨らんだんだ、びっくりしてその瞬間に目を覚ましたら、ちょうど駅に着くところで、何気なくこのホームを見たら、ホームのはじっこにおばあちゃんを見つけて、あわてて走ってきたってわけ。だいじょうぶ? 僕です。わかりますか。実は結婚したんです。で、嫁さんと相談して、もしよかったら、ぼくら夫婦と一緒に暮らしませんかって迎えにきたんです。わかりますか。昔、少年院を出たばかりの頃、らんさんと徳さんが名付けてくれた中村玄ですよ。僕は中村玄です」
らんさんは、中村玄さんを見つめています。
どこかで会ったような。
なつかしいけれど、誰だったかしら……
どちらの中村さんだったかしら……
そんな顔で。
らんさんは、まったく思い出せない気まずさを微笑で覆い隠しました。
そして、中村玄さんに手を引かれて雑踏の中に消えていこうとしています。
その後ろ姿を見送っていると、突然らんさんがあたしを振り返りました。
不安そうな顔であたしを見つめて、
しばらく見つめて、
そして、
とても嬉しそうに幸せそうに微笑んで、深くうなずきました。
実はあたし、無意識に胸の前で指を一本立てていたんです。
いつだったか忘れたけれど、中村玄があたしに話してくれたことを思い出しました。
それをあなたにも教えてあげる。
こんな話なの。
『あなたは、タラコは生も明太子もダメで、焼きタラコしか認めない人である。今、あなたの前に一匹のパンダが現れ、しっぽを振り始めた。そのパンダの〈しっぽのチカラ〉は、相手の好きなおむすびの具を読み取ることである。せっせせっせとパンダはしっぽを振ってあなたのデータを読み取っている。すると、なぜかあなたはおむすびが食べたくなり、当然、大好きな焼きタラコを買って食べてみる。ところがなんとこれが、半生タラコだった。がっかりするが、でも、ちょっと待てよ、意外においしい。いままで食わず嫌いだったことを後悔する。ところで、あなたの職業はドロボウで、たった今、一仕事終えてきたばかりだ。今日はかなりの大仕事で、大金持ちの家からかなりの額をドロボウしてきた。その興奮冷めやらぬ時に食べた半生タラコのおむすびは格別だった。食わず嫌いを反省し、他の具も試してみるにつれて、おむすびの〈深さ〉に目覚める。あなたは、ドロボウ稼業を廃業し、一念発起、おむすび屋を起業する。具に工夫を凝らしたことが成功の元となった。あなたはおむすび界の帝王となり、財界の主要な地位に君臨する。そして、かつて自分がドロボウに入った金持ちたちが組織する友好倶楽部に入会し、多額の寄付をする。こうして、あなたは盗んだ金をもとの持ち主に返し、罪を償い救われたのである。〈救い〉のきっかけは、改めて言うまでもなく、あの時のパンダのしっぽの一振りであった』
そう、〈救済〉なのです。
記憶パンダは、しっぽを振ることであなたを救うのです。
意味なく。
〈意味なく〉とは、〈もれなく〉ということです。
〈相手を選ばず〉と言ってもいいし、〈なにひとつ判断しない〉ということでもあります。
記憶パンダは選ばないのです。
判断しないのです。
見事なまでの平等と確信。
そのゆるぎない姿。
まさに、一所懸命。
救うために、ひとところで懸命にしっぽを振る。
──それが〈記憶パンダの生き方〉の根本なのです。
記憶パンダ中村玄にとって人間は、手段ではなく目的なのです。
ヒメネズミのあたしは駅から出て、動物園に向かいました。
パンダ舎にタンタンはいました。
でも、それは中村玄ではありませんでした。
記憶パンダの中村玄はもういません。
オソレヤマで倒れて、それっきり現れません。
あたしは、らんさんがプラットホームの端で一歩を踏み出す一瞬の間に、永遠の旅を巡ってきました。
すべては、中村玄が見せてくれた一瞬の幻だったのでしょうか。
それとも、あたしが中村玄の夢をみていたのか。
どちらともいえないし、どちらともいえるようで……
あたしは駅前に戻り、自動販売機の下で雑踏を眺めながら、もう二度と戻ることのできないあの場所で出会った仲間のことや、もちろん、らんさんや中村玄のことなどを思い出しました。
都会の夜景がじんわりとにじんできました。
目に涙があふれてしまって、目の前の世界が、現実界なのか記憶界なのか見分けがつかなくなってしまいました。
あたしは、泣きました。
それは悲しみなのか、哀しみなのか、あるいは他のどんなこころの動きなのか。
〈なつかしさ〉という言葉がふと心に浮かびました。
〈なつかしい〉とは、どんなこころなんだろう。
中村玄との旅を巡ってきた今、あたしはなんとなくわかる気がします。
それは、
なにか大切な物を忘れているような気がして……
それが、〈なつかしい〉というこころなのでしょう。
とてもたいせつなもの。
でも、もうそこには戻ることができない。
そして、なつかしいこころがいっぱいに充ちた場所、それこそが記憶界なのです。
ついさっき別れて来たばかりなのに、こころの中が〈なつかしさ〉でいっぱいになってしまって、もうどうしようもなく、涙が止まらなくなりました。
(おわり)
記憶パンダ 南新田 @runa1234
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