第49話 少女と少年の記憶界 その4


まわりの大人が妊娠に気づいた時には、すでに少女のおなかは大きくせり出していた。


困惑と嘲笑と冷淡の空気の中、少女はけなげに働いた。

先に明るい光を信じていたから頑張れた。

しかし、胎児の父親探しが始まった。

少女はかたくなに明かさなかったが、じきに知れた。


少年の、旅館への出入り、炭の取引は禁止。

少年はジイサンにわけを話していたので、ジイサンは耐えた。

生まれたら、母子を引き取ってこの地を去ろう。

ジイサンにもそれは楽しい希望の日々に思えた。


そのうち、学校や役場などからも炭の取引を断たれた。

それでもジイサンと少年は耐えた。

ほたる湖でとったなまずを売り歩いてしのいだ。


そのうち、年頃の娘を持つ親たちが騒ぎ出した。

餓鬼(がき)を、山に野放しにしておいていいのか。


山狩りが始まった。


生命の危険を感じたジイサンは、村から去ることを決意し、少年に少女を迎えに行かせた。

旅館の裏で会ったふたりは、逃げ出す段取りを打ち合わせた。

今夜あの場所でと少女に言い残して、少年は走り去った。


少女の荷は、なにもない。

これから始まる少年との新しい人生。

そこに必要なものは、さくらのハンカチ一枚。

わたしは、この一枚のハンカチから始めるの。


深夜、ハンカチを握りしめた少女は、オソレヤマに向かった。


少年とジイサンはけもの道を進み、やがて、深い谷にかかるつる草で作られた吊り橋を歩いていたときだ。

たいまつをかかげた村人たちに行く手をふさがれた。

どこへ行くと問われ、この地を去ると答えた。

方向が違うと言われ、ふたりは顔を見合わせた。

とっととこの村から出て行けと怒鳴られ、ジイサンは方向を変えるが、少年はそのまま突破しようと走り出した。

突然走ったので、吊り橋が大きく揺れ、村人たちはよろめいて、たいまつを落とした。

折から続いていた日照りで吊り橋は乾燥していた。

一気に火の手が上がり、つる草が燃え、橋が傾いた。

ジイサンが、続いて少年が深い谷底に落ちた。


岩に頭を強打して二人とも、死んだ。



少女は、いつまで待っても現れない少年を探すために、オソレヤマを離れた。

森へ戻ってきたとき、心配して探しにきた源じいと出会った。

少年の死を聞いた。

少女は腰を抜かし、その場で破水した。



明け方、旅館で赤ん坊を出産した。

泣き叫ぶ赤ん坊に頬ずりして、少女は「らん」とつぶやき、泣いた。



なぜかその場に、黒こげの巨大な白黒とネズミ、そして、涙を流す女の子がいた。

その女の子はおそるおそる手をのばして、赤ん坊の頬に指を触れた。

唇を寄せて、赤ん坊の小さな手に接吻した。

そして、つぶやいた。


「生まれてきてくれてありがとう、わたし」



出産後、少女の人格が崩れた。

少女は脳病院の閉鎖病棟でむなしく生きながらえたが、十年後のある朝、唐突に病が抜け落ちた。

同時に記憶も抜け落ちた。


旅館のおかみは、退院した少女を喜んで迎え入れた。

この手の美談を自ら演出する人だった。

少女はすでに二十六歳になっていた。


門の前を竹ぼうきで掃除をしているとき、少女はぼんやりと坂道を見下ろしていた。

その坂道を見て彼女はなにを思っていたのか。

誰を待っていたのか。

あの夏、少女のためにエナメルの靴を獲得しようと、必死に駆け上がってきた少年の姿なのか。


彼女はこの旅館に四年間勤めたあと、ある朝、眠るように死んだ。



その三日後、

白黒と、ネズミと、老婆と、少女が、その坂道をやってきた────


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