第45話 火の海
オレ様は、巾着袋を救ったことを一刻も早くらんに知らせたかった。
燃えている巾着袋をくわえたまま、三階に向かって階段を上がりはじめた。
上りながら、炎を消そうと首を左右に振りまわす。
急いで駆け上がっているので、上体の振れ幅がさらに激しくなる。
大トカゲ走法のギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ。
激しく振られる巾着袋の炎は、消えるどころかますます燃え盛り、あちこちに火の粉を振りまいた。
座敷の障子に燃え移り、広間に積んであった布団にも、さらに、ふすまや座布団やくずかごの中の紙類に、どんどん燃え移っていく。
オレ様は、そんなことにおかまいなく、グイグイと上半身を左右に振り、まるで火の粉でこの屋敷の邪気を焼き払うかのように振り回し続けている。
三階まで達する頃には巾着袋の火は消えたが、そのかわり旅館は大騒ぎになっていた。
火の手が全館に広がりつつあった。
人々の叫び声や怒号、悲鳴や泣き声が階下で飛び交っている。
三階の自室にらんはいなかった。
どこに閉じ込められたんだ。
オレ様は三階の廊下を嗅ぎ進んだ。
一番奥の突き当たり、板戸で閉じられた納戸の前で止まった。
ここだ。
戸にはしっかりと南京錠がかけられている。
オレ様は、戸に前脚をかけてガリガリと引っ掻くが、どうなるわけでもない。
ハナが、「あたしにまかせて」と、壁を垂直に登り、そこから屋根裏に入り、天井板の隙間から納戸の中に入った。
戸板の隙間から覗くと、おかみさんのお仕置きで閉じ込められてしまったらんは、薄暗い納戸のすみに体を丸めて膝を抱えて縮こまっていた。
らんの目には光がなく、焦点も合わず、うわごとのように何かつぶやいている。
「……オカアサン…………」
らん、しっかりしないとだめだ!
人って、哀しみに支配されると死んでしまうんだ。
心の中が哀しみで満たされてしまうと、体中の細胞が生きる張り合いをなくしてしまうんだ。
生命を保つ力がだんだん衰えて、衰弱死してしまうんだ。
らんのおかあさんが離れで自然に亡くなったのも、そういうことだと思う。
哀しみに支配されてしまったんだと思う。
だから、らん、気を確かに持つんだ!
壁から天井から、床から、次第に煙が出始めた。
熱くなってきた。
ここが火に包まれるのも時間の問題だ。
どうしたらいいんだ。
その時。
カリカリカリカリカリカリ。
ん? なんの音だろう。
あ、そうか!
ハナ、なるほど!
南京錠のまわりの板にかじりついているんだ。
鍵のまわりをかじり落とせば、錠をあけなくても戸は開く。
カリカリカリカリ。
オレ様の歯は鋭くないから無理だ。
頑張ってくれハナ、お前だけが頼りだ。
カリカリカリカリ。
壁が熱い。
もうすでに、壁の向こうは火の海なのだろう。
熱い、暑い……
らんはほとんど気を失いかけている。
脱水と煙と哀しみで。
オレ様も、だんだん気が遠くなってきた。
カリカリカリカリかり。
ガリガリガリガリガリガリガリ。
ん?
カリカリが増えた。
ガリガリ?
気のせいか?
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。
いや、確かに。
戸の内側でたくさんのガリガリが聞こえる。
オレ様は隙間にへばりついて向こう側を見た。
壁の間からも、天井からも、床下からも、次々とネズミが入り込んできていた。
旅館のネズミたちだ。
彼ら家付きのネズミは、火事などの時は真っ先に逃げ出すのだが、オレ様たちを助けるために戻ってきてくれた。
すると今度はこちらだ。
壁を伝ってラッタやドン、他にもたくさんの野ネズミやリスやウサギが飛び込んできて南京錠のまわりにかじりついた。
森から、歯の鋭い仲間たちが駆けつけてくれたのだ。
内と外で一緒に歯を合わせて、
ガリガリガリガリガリガリリガリガリガリガリ。
そしてついに、カラン、ガシャンと音を立てて南京錠とそのまわりの板がかじり落とされた。
オレ様が前脚を器用に使い、戸を開けた。
らんに走り寄った。
でもらんはまったく無反応だ。
「中村玄、三階まで火の手が上がって来た」
ハナが叫んだ。
壁や天井から炎が吹き出した。
助っ人たちは、まだ火の手の上がっていない壁ぞいに避難して行った。
みんな、ありがとう。
気をつけて逃げてくれ。
走り寄っても、らんはまったく無反応だ。
オレ様はらんの顔をなめる。
ペロペロペロペロ。
らんは目を開いている。
でも、巾着袋を失った今、もう生きる気力がないのだ。
目はうつろ、全身の細胞も、筋肉も動こうとしない。
早くしないと火に包まれてしまう。
あ、そうか。
オレ様は周りを見回した。
巾着袋。
その袋を口にくわえてらんの顔の前で振った。
一生懸命振った。
首を精一杯振り回してぐるぐる回転させた。
すると……
らんの目に光が灯った。
焦点がピッと一瞬にして目の前のオレ様に、そして巾着袋に合った。
「わたしの巾着袋……無事だったの!?」
全身を焼き焦がしたオレ様が笑っている。
らんがオレ様を抱きしめた。
「ありがとう、中村玄!」
らんとオレ様は廊下に駆け出し、まっすぐ階段に向かった。
しかし、階段はすでに燃え落ちていた。
そこはすっぽりと空洞になっており、炎と煙が巻き上がってくる巨大な煙突になっていた。
横も後ろもすでに火の壁だ。
オレ様はムゥウンンッッとうなり声をあげた。
すると小さな身体が、ムクムクムクと膨らんだのである。
たちまち、動物園で見るあの大きさになった。
二メートルのジャイアントパンダに。
「中村玄!」
ハナの顔がなぜかワクワクしている。
オレ様は、びっくりして呆然となっているらんの着物をしっかりと口でくわえると、三階分の高さの、炎が噴き上がってくる噴火口のような空洞にむけて、一気に身を躍らせた。
「キャーッ!」
オレ様に引っ張られ、らんと、らんの着物にしがみついたハナも落ちていく!
落下の途中、横から炎が激しく吹き出した。
そのショックでらんが気を失い、手から巾着袋が離れた。
黒い影が炎と煙の中から突然現れ、その巾着袋をキャッチ!
小太郎だ。
しかし、オレ様にも危機が。
地上がぐんぐん迫っている。
落下しながら、オレ様はらんの頭を前脚で包み込んだ。
らんとハナを自分の腹の中に抱え込み、くるっと体を反転させて、自分が下になり背を地上に向けた。
次の瞬間、激しく地面に叩き付けられた。
グフッと息が漏れた。
おしっこもちょっぴり漏れた。
でも、この大きな身体がクッションになって、らんとハナを激突のショックから守ることができた。
少し離れたところに黒い羽根が見えた。
「小太郎!」
ハナが走った。
小太郎もやはり突発的な炎の爆風にやられたのだろう。
焼け落ちた柱の下敷きになってあえいでいた。
オレ様もよろよろと歩み寄り、小太郎の顔をなめてあげると、本当にうれしそうに目を細めて、そして……息絶えた。
カラスの小太郎は、らんの巾着袋をしっかりと抱き守って、今生を終えたのだ。
外では、おかみさんが右往左往しているのが炎のすき間から見えた。
ハナが、「あたし、様子見てくる」と走った。
戻ってきたハナの報告によると、運転手さんが、
「おかみさん、こんな時になんですが、車の座席にこんなものが」
と、おかみさんの手に何かを乗せた。
真珠のブローチだ。
らんが疑われるきっかけとなったもの。
それを見て、おかみさんはその場に泣き崩れた。
「ああーーっ! わたしはなんてことを!」
麻痺して固まってしまった笑顔のままで、消防団に泣きついた。
「三階の奥に、女の子が一人残っているんです! お願い、助けてください!」
「おかみさん、この火じゃ無理だ。だいたい、三階はもうすぐ焼け落ちる」
ハナからそれを聞いて、オレ様はつぶやいた。
「こどもに失礼な大人からは、逃げた方がいいんだ」
オレ様は巾着袋をくわえて、らんを背負い、ハナを従えて、ギュッギュッと炎の中を進み、裏口から屋敷を抜け出て、森へ向かった。
「中村玄、どこへ行くの」
と、ハナが心細そうに聞くが、オレ様は答えない。
というか、今は歩くので精一杯なんだ。
全身の火傷やら三階から落ちた打撲やら何やらかんやらで、残っている力はシッポを振ることにすべて使いたい。
だから、行き先を答えている余裕などないし、ついてくればなにもかもわかる。
オレ様はこれから、ある記憶界に飛び込もうとしていた。
そこへ、らんもいっしょに連れて行こうと考えている。
ただし、その記憶界の主はすでにこの世にはいない。
死んでしまった人の記憶界には干渉できない。
ただ物語を見ているだけしかできない。
それでいい。
見ているだけでいいんだ。
らんにその物語を見せなければならない。
記憶界の鍵をこじ開けてらんを助けるには、その物語が絶対に必要なんだ。
シッポの回転数を上げた。
オレ様の無数の毛が、らんにまとわりつく。
毛の一本一本から強いビジョンが送り込まれ、らんの表情は、まるでおかあさんの胎内でやすらいでいるようにやわらかく微笑んで────
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