第43話 おかみさんの憎しみ


旅館のハイヤーが玄関に止まった。

おかみさんが降り立った。

何かの催しでもあったのか、華やかに着飾っている。

玄関から番頭さんが走り出て、


「おかみさん、東京からお電話です」


と告げた。

おかみさんは帳場の電話をとった。

オレ様は、東京という言葉に反応した。

すかさずおかみさんの襟足に駆け上って盗聴した。

東京のおとうさんからだ。


「徳がそちらへ戻った」

「え! どういうことですの?」

「置き手紙があった。らんに会いに行く、もう東京へは戻らないと書いてあった。女か? 軟弱な子だ。将来は期待できんな」



電話を終えたおかみさんは、顔が真っ赤になった。

着替えるため自室へ向かうおかみさんの顔には怒りがあらわだったもので、すれ違う使用人たちはみんな肩をすくめて近づかない。

触らぬおかみになんとやらだ。

折り悪く、らんが洗濯物のかごを抱えてやってきた。

小さな声で歌いながら来たものだから、おかみさんが爆発した。

鬼の形相で、


「仕事中に歌なんか歌うんじゃありません!」


と声を裏返して怒鳴り、さらにわけのわからない奇声を発して平手でパシッとらんの頬を打った。

らんは、ぶたれた拍子に、洗濯かごを落としてしまい、中身を廊下にばらまいてしまった。

すみませんすみませんと這いつくばって拾い集める。


そのときトイレにでも行くところだったのか、お酒の入った村長さんが宴席から出てきて、上機嫌に声をかけた。


「おかみ、この子が例の女の子か。こういう子が道を踏み外さずに生きていけるのも、おかみのような人がおるからですな。あんたは村一番、いや、県でも有数の慈善家ですからな。今度、県会議員に出てほしいと知事が言っとったです」


おかみさんは、鬼顔から慈悲深い観音顔に瞬間的に転換、笑顔を満面にたたえた。


そのとき、ピキッ、と音がした。


「あらまあ、そんな、県議だなんて身に余ります。わたくしは、こういう子たちのしあわせを心から願っているだけでございますから、ほほほほほ」


今の音、なんだろう? なにかがキレたような、音。

村長さんらを見送り、らんを振り返ったおかみさんの顔には、まだ花のような笑顔が貼り付いている。



ん?

どこかおかしい。

おかみさんの額に大粒の汗が浮いている。

間近でよくよく見ると、なんと、おかみさんの顔が笑顔のまま麻痺して、固まってしまっている。


さっきの、ピキッという音は、表情をつかさどる神経が切れた音だったのだ。


おかみさんは笑顔のままプリプリと怒り、急ぎ足で自室へ戻っていった。




畑仕事に戻ったらんは、一仕事終えて源じいと休んでいる。

枯れ葉を集めてたき火をした。

里山の風景に目を移した。

あちこちで小さな煙が立ち上っていて、香ばしい風が鼻をくすぐる。

オレ様はつかず離れず、つねにらんが視野に入る範囲にいて注意深く見守っている。

〈スイッチ〉が入ってしまった今、何が起こるかわからないからだ。

狸のポンとポコが、たき火の中の芋をねらって灰をかき出そうとしている。

小太郎が鳴きながら飛んでいる。

どこかの犬が吠えている。

のどかだ。


突然、


「らんッ!」


というおかみさんの金切り声が、安らかな空気を引き裂いた。

オレ様とハナはびくんと反応した。

らんにピタリと両側から寄り添った。


「らんッ! 早くいらっしゃい!」


おかみさんの鬼声が旅館中に響いている。


「はい、ただいま!」



不自由な脚で旅館から母屋へ急ぐらんは、一歩踏み出すごとに全身がカクンとはね上がるように見える。

オレ様もあとを追う。

前脚でグイグイと下半身を引き上げながら階段を駆け上がって行く。


らんがおかみさんの部屋に入った途端、宝石箱が飛んできておでこに当たった。


「お出しなさい!」


らんは、なにが何だかわからずおろおろしている。

宝石箱の当たったおでこがぱっくりと裂けて血が流れ始めた。

顔面神経の切れたおかみさんは、金切り声をあげながら笑っている。


「わたしの真珠のブローチ、どこに隠したの!」

「し、知りません」


らんはか細く答え、血が目にしみるのだろう、着物の袖で目をぬぐっている。


「泣いてごまかすな、この泥棒!」


華やかな笑顔で激怒しているおかみさんは、そう怒鳴って、らんの頬を打った。


「恩知らずの盗人娘!」


盗人と叫ぶおかみさんの目は、憎悪で充血し、そして晴れやかな笑顔だ。


「わかった、その袋の中だね」


おかみさんはらんから巾着袋を奪い取った。

逆さにして中身をすべて廊下にばらまいた。

らんは、すみませんすみませんと廊下に這いつくばり、たいせつなものたちを拾い集めている。


オレ様は、らんが何度こうして謝り、何度這いつくばってきたのだろうと考えて胸が熱くなってしまった。

らんを見下ろすおかみさんの目が、とてもまがまがしく光った。

オレ様は警戒した。

排除のスイッチ、死のタイマーという言葉が頭の中でガンガン響く。

おかみさんは、らんの手の中から一枚の紙を奪った。


「これは徳さんの字じゃないか」

「あ、それは」


徳さんの地図だ。

おかみさんはその地図を見つめ、ふーんと鼻を鳴らし、次にらんに視線を移してじっと考えている。

地図をはらりと床に放った。

らんは、おかみさんの視線を避けるように、その地図を拾い巾着袋の中に仕舞い、口紐を固く結んだ。


「お前がいつまでもそんなものを持っているから、徳さんがかどわかされるんだ」


おかみさんは、そう言って巾着袋をらんの手からひったくり、階段へ向かった。


「こんなものは風呂の焚き付けにしてやる」

「だめ、そればっかりはやめて!」


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