第41話 徳さんのかなしみ


徳さんの背中が考えている。

力無く首を振って、こちらを向いた。

水差しに手を伸ばし、コップに水を少し注いだ。

飲もうとして、横に座っているぬいぐるみを見た。

おや? という顔をした。

ぬいぐるみがウインクした。


「…え?」


徳さんの動きが止まった。

白黒に初めて気がついた。

オレ様が飛びつくのと、ハナが薬袋の影から飛び出すのが同時だった。

徳さんは、「ああ」と大きく息を吐いて顔をくしゃくしゃに歪めた。


「来てくれたの!」


オレ様を抱きしめて、白黒の毛に顔を埋めた。


「元気だったかい? らんはどうしてる?」


オレ様とハナは、徳さんの顔をペロペロなめ上げた。




「ヘンだ……」


徳さんの思いが部屋の中に漂っている。


「……すっきりしないんだ。おとうさんの言うこと、本当に正しいんだろうか。納得できない。それに……おとうさんの手は、とても白くて細い。それが嫌だった。源じいや、村のお百姓さんたちの手は節だらけの木の根っこのようだ。らんの手だってアカギレだらけで、いつも爪には土がこびりついている。ああいうのが本当の手だ。ぼくは……ぼくは、コンドルになんかなりたくないし、経済もやりたくないし、あんな方程式、解きたくもない。ぼくが好きなことは……好きなことは……きれいな花を見て、星や月を見て、のんびり風に吹かれて、カラスはどうして鳴くんだろうって考えること。らんと一緒に。そして……そして……あの場所にいたい。らんと一緒に」


徳さんは、「あ、そうだ」と言って机に向かい、そこに出しっ放しだった一冊のノートを開いた。


「ほら。なんだと思う?」


オレ様はノートをのぞき込んだ。

森が描いてあって、湖があって、山道があり、山頂から向こうにはすり鉢の底のようなオソレヤマがあり……。

それは驚くほど細かな地図だった。


徳さんは、ふふ、と笑って、カリカリカリカリと鉛筆で一心に書き込みはじめた。

それは、手作りの地図だった。


カリカリカリカリカリカリカリカリ。


旅館の裏の森からほたる湖へ続く道。

その道のまわりに生えている草や花や木、時々顔を出す小動物や虫たち、それらをこと細かく描き込んである。

絵で、文字で、記号で。

湖、そのまわりのいきものたち、その分布図。

すんでいる魚たち、オタマジャクシ、冬に張る氷の厚さ、それに山道……早春のふきのとう、たらの芽、こごみ、そして、らんの場所、花々の配置。


徳さんは、ふるさとの地図を作っていた。

らんと歩いた場所、一緒に過ごした場所の地図。

この部屋の中が、花や草や土の匂いでいっぱいになった。


あ、タヌキのポンポコ親子が切り株につまずいた、と言ってクスッと笑いながら鉛筆を走らせる。

ときおり手を休めて、目を閉じ、五感を研ぎ澄ませている。

開け放した窓から吹き込んでくる風の中に、森の息づかいや、湖や川の音や香りを感じ取ろうとしている。

地図を描きながら、徳さんがオレ様にささやいた。


「僕はあの場所が大好きなんだ。どうして好きかわかるかい。あそこには、らんがいるから。ここにはらんがいない」


徳さんの顔に疲れが見え始めた。


「中村玄、この地図をらんに届けてくれないかい。僕はもう少し眠る」


そう言うと、ぐったりと机に突っ伏して寝てしまった。



そして深夜。

突然、眠りから覚めた徳さんは、立ち上がって絶叫した。

空気がこおり付くような哀しい叫びだった。

聞いた者が心臓をわしづかみにされるような、せつない叫びだった。

こういう叫びを上げるような哀しい思いのない人は本当に幸せなんだと思う。

そのまま二、三歩、ふらふらと歩き、ばったりと倒れてしまった。

オレ様は、急いで駆け寄った。すごい熱だ。


階段をあがってくる足音がする。

隠れた。

ドアが開いてお手伝いさんが駆け込んできた。

「おぼっちゃま!」

お手伝いさんが徳さんの介抱をし、お医者さんを呼ぶために部屋を飛び出していった。


ハナは、徳さんのノートから地図のページだけを歯でていねいにかじり取っていた。

シャリシャリシャリシャリシャリシャリシャリ。

プチン。

かじり取った一枚の地図を、今度はたたんで、たたんで、もうひと折りたたんで、そし

て丸める。

クルクルクルクルクルクル。

徳さんの食べ残しのご飯粒を一粒いただき、かみつぶして、丸めた紙に押し付けた。

ギュッと押して、接着。

さらに、オレ様の毛を抜き取って、プツン! 

痛ッ。

これで、クルクルと巻いて、しばって。

この筒を背中に背負って、いま巻いた毛の余った部分を前に回して、胸の前で結んで、筒を背に固定して、


「中村玄、準備OK」


それを見届けるとオレ様は、再び徳さんに駆け寄った。

徳さんの寝顔をじっと見つめながら、口の中で牛のように舌をモゴモゴさせる。


門が開き、車が入ってくる音がした。お医者さんが往診に駆けつけたのだろう。

「徳!」というおとうさんの声も階段を上ってきた。


ハナが急かす。


「中村玄、行こう! 急がないと見つかってしまう!」


オレ様は、もごもごと口を動かし、舌を突き出した。

その舌先には小さなカタマリが乗っかっている。


「どんぐり!?」


ハナが驚いた声を上げた。


「頬袋のないパンダが、どこにどうやって隠してきたの?」


オレ様は、舌先に乗せたドングリを、徳さんのてのひらに握らせた。


「徳さん、あの森のお守りだよ」


そして、耳元でしっかりとささやいた。



「こどもに失礼なおとなからは、逃げなさい」



オレ様とハナは部屋を突っ切って、階段を駆け下り、ホールを抜けて、お医者さんやおとうさんの、「なんだこの犬は!」という叫び声と入れ違いに外へ飛び出した。


「おとうさん、オレ様は犬じゃない、パンダなんだ」


中庭に小太郎が舞い降りてきた。

その背にハナが飛び乗ると、オレ様は大トカゲ走法で走りながら号令をかけた。


「さあ急ごう!」

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