第26話 別れ


空が漆黒から薄い群青色に変わり始める頃、徳さんとらんはオソレヤマを出発した。


走って、昇って、下って、らんがつまずいて転びそうになると徳さんがサッと手を取ってくれる。

二人は、ずっと無言で走り続けた。

世界に一つしかない宝石のように、この夜の出来事を秘めると心に決めたかのようだ。

口を開くのがもったいなくて、走り続けた。


オレ様は、胸騒ぎと緊張で目がどんどん吊りあがっていく。


ほたる湖の水面に朝日が斜めに差してきた。


祭りの最終日とあって、旅館は徹夜の大にぎわいが続いていた。

出入りする村の人々、酔っぱらい、酒や食事を運ぶ仲居さん、仕事を終えて自室へ戻る板さん……

夜番と朝番の交代時間にもあたったことで、徳さんとらんは混雑にまぎれてそれぞれの部屋に戻ることができた。


らんは、離れに戻ってしばらくボオーッとしていたが、旅館の仕事を手伝うため急いで着替えた。

らんが厨房へ駆け込んだとき、そこは戦場のような忙しさだった。


「らんちゃん、そのお膳、桐の間に運んでちょうだい!」

「はい!」

「済んだら、楓の間の片付けね!」

「はい!」

「きのうはお祭りどうだった?」

「はい!」

「らん、お銚子運んで!」

「はい!」


午前中は、お膳を運んでは片付けるの繰り返し。

お昼のまかないは立ったまま。

食べ終わるとすぐに洗い場で山のようにたまった食器をじゃぶじゃぶ洗う。

どのおとなと比べても、負けないほどの働き量だ。


休む間もなく次から次へお客さんが出入りする。

村の偉い人たちもひっきりなしにやってくるため、午後は下足番の応援にまわった。


「いらっしゃいませ! お履物をおあずかりします」

「ありがとうございました! お履物はこちらでございます」

「らん、水汲んできて!」

「はい!」


玄関から裏の井戸へ走る。

水を汲んで、桶を天秤棒につるし、肩に担いで、一、二、一、二。


「らん、このクソ忙しいのに、なに笑ってんだ!」

「はい!」


知らず知らずに、笑みがこぼれてくる。


「うれしい! 生きているのがこんなにうれしいなんて」



前を行くオレ様にか、あるいは独り言か、らんは「いちに、いちに」のリズムで天秤棒を担ぎながら語りかけてくる。


「おかあさんに会いたくて会いたくて、やっと会えると思ったら、亡くなっていた。でも、徳さんに出会えた。徳さんはたいせつな人。とてもたいせつな人。わたしの命。だから、うんとうんと思って、たくさん思って、一生思いつづけて、たいせつにしよう」


オレ様は立ち止まってらんを見上げた。

小さな肩にかなりの重量の天秤棒が食い込んでいる。

重そうだな、とオレ様は改めて思うのだ。

でも、らんの表情は明るい。


「心配してくれてるの、中村玄? だいじょうぶよ。この重みがとても頼もしくて、一歩一歩土を踏みしめて歩くことがとても幸せに感じるの」


気になったのは、おかみさんの姿を今日はまだ一度も目にしていないことだ。

村長さんや村の偉い人たちが来ているのにおかみさんは挨拶に出てこない。

何か、いやーなものが胃から上昇してくる。

オレ様は走った。


「どうしたの、中村玄!」


らんとハナが同時に同じ言葉を発した。


オレ様は、らんを助けるためにここへ来たんだ。

おかみさんから目を離すな、とオレ様の野性本能が叫んでいるのだ。



屋敷のあちこちを走り回った。

いない。

三階にあるおかみさんの部屋。

いない。

徳さんの部屋、いない。

おかみさんも徳さんも、いない。


ん?

旅館の運転手さんがスーツケースとランドセルを運んでいる。

ランドセル?

どういうこと?

運転手さんについて行くと、門の前に旅館のハイヤーが。

そして、座席におかみさんと徳さんが座っていた。

徳さんは泣いていた。


オレ様は走った。

井戸へ。

らんに告げ、門へ走りもどった。


「どこへ行くんですか!」


らんは、ハイヤーの後部窓ガラスに顔を押し付けて、おかみさんに聞いた。


「東京ですよ」

「どうしてですか」

「どうしてって、あなた、徳さんとは会わないという約束破ったのですから当然でしょ。この子は東京の私立でしっかり学んでいただくことにしました」


らんは言葉を失った。


「ここには心を惑わすものがいるのでね」


おかみさんは、冷く笑っている。

「さ、急いで」と運転手さんを促した。


「待って、待ってください!」


動き始めたハイヤーにらんがすがりつく。


「すみませんおかみさん! わたしが悪いんです! 徳さんを返してください! ごめんなさい! ごめんなさい!」


下駄が邪魔なので、脱ぎ捨てて裸足で走る。

走る。

らんの気持ちが激しく伝わってくる。

オレ様も走る。

ハナも走る。

速く! 速く! 

もっと速く走りたい。

らんの必死の思いが、必死だからこそ、言葉になって口から飛び出してくる。


おもいきり、股を開けるだけ開いて、地を蹴って、宙を跳んで、できるだけ前へ、前へ! 

脚がこのまま壊れちゃってもいい。

追いつきたい。

追いついて、土下座して許してもらおう。

走れ、走れ、走れ!


らんは飛ぶように走っていく。

オレ様は、追う。

ハナも。

らんは、坂道を転がるように走る。

でも、ハイヤーの姿はあっという間に見えなくなってしまった。

それでも、らんは走る。

どんどん走る。


路地から路地へ、あぜ道を駈けて、どこかの家の庭先を走り抜け、線路に出た。


「どうしよう。前みたいに、線路に石を置こうか。だめだわ、そんなことしたら、汽車がひっくり返って、徳さんがけがをしてしまう。どうしよう」


そのとき、汽笛が聞こえ汽車が走り迫ってきた。

らんは、線路の脇を懸命に走って、「徳さーん!」と手を振った。

徳さんが気づいて、立ち上がって、窓を開けた。

「らーーん!」と叫んで何かをばらまいた。


たくさんの白い紙。

それが、風にのって、汽車のスピードにさらに巻き上げられ、大きな花びらのように、ひらひらとらんの頭上に降ってきた。

汽車はあっという間に遠ざかってしまった。

汽笛だけが遠くで聞こえる。



……行ってしまった。


らんの膝がストンと抜けて、その場にへたり込んでしまった。

足の裏はひどいことになっていた。

ずっと裸足で走ってきた上に、線路のゴツゴツとがった敷石の上を全力で走ったため血だらけだった。

足裏の皮膚がズタズタだった。


オレ様は、らんの血だらけの足の裏をなめる。

ぺろぺろぺろぺろ。

一所懸命になめる。

自分がどれだけ傷ついても、徳さんのことだけを思い続けるらん。

その一途さがオレ様は不吉だった。

らんのこころが徳さんに絞られれば絞られるほど、不吉の風船はぐんぐん膨らんで破裂にまっしぐらだ。


まわりには、徳さんが撒いた白い紙が散らばっている。

らんは、膝の上に舞い降りた一枚をぼんやりと見た。

〈ななつのこ〉と、半紙に筆で書かれてある。

らんは首を回して、他の紙を見た。

〈おぼろづきよ〉。

オレ様とハナが走り回って、一枚一枚、らんに運んだ。

〈あかとんぼ〉〈らん〉〈とく〉〈なかむらげん〉……

全部で三十枚ほど。

歌の題名とか、名前とか、地名とか、おはなとか……。


これは、徳さんがらんの字の勉強のために作ってくれた教科書だった。

それがわかったとき、らんは半紙の束を胸に抱いて、声を上げて泣いた。




村の人がリヤカーでらんを診療所へ運び込んでくれた。

足の裏の傷はかなりひどく、らんは高熱にうなされる日が続いた。

それだけではない。

からだの限界を超えて走ったため、股関節と脚を骨折していた。



五日後におかみさんが東京から一人で戻り、診療所に泊まり込みで付き添った。

おかみさんはとてもやさしく、まるで母親のようにらんを介抱した。

徳さんのことも、祭りの夜どこへ行っていたのか、なにをやっていたのか、まるで何もなかったかのようにまったく触れない。

ただただ、


「もっと精のつくものをお上がりなさい」とか、

「痛かったでしょうね」と涙ぐんだりしていた。


この〈優しさ〉は、診療所を退院して旅館へ戻ってからも続いた。

らんは、まだ歩くことができないため、おかみさん自らが背負って三階の自室へ運んだ。

おかみさんの〈慈悲深い優しさ〉は、近年まれな美談として村中に広まった。



母屋の三階の奥に、畳三枚ほどの小さな部屋があり、そこがらんの部屋になった。

離れの荷物、タンスの中身はすべてこちらに運び込まれ、離れは、畑の拡張のため取り壊されてしまった。



らんは、かつておかあさんがそうだったように、こころの底が抜けてしまった。

反応の鈍い無感情な表情になり、あの屈託のない元気さと明るさと、そして歌は、消えてしまった。



そしてオレ様は、最悪の状況に向かい始めた。


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