第25話 夏祭りの夜
夏祭り。
らんは朝早く起きて、おむすびを握った。
それを竹の皮で包み、タクアンを添えた。
「いってきます」
勢いよく旅館を飛び出したらんは、オレ様とハナを肩に乗っけて、まっすぐ森へ向かった。
夏は、草も花も樹も、虫も動物も生き生きとしているので空気がとても濃い。
らんは、走りながらその濃い空気を胸いっぱいに吸い込む。
体中に染み渡ってもまだ余るほどの空気が血管の中を駆け巡る。
だから、どこまでも走って行ける。
「この風も、この森も、この湖も川も、あの山もみんな好き。ここの空気が大好き。どうして好きかわかる?」
うん、わかってるよ。
「徳さんが吸っている空気だから」
うんうん。そうだね。
森の中はひんやりと涼しいのだが、らんは一所懸命走るので、すぐにおでこが汗で光ってきた。
靴を脱いで川の流れに足をひたした。
風がオソレヤマの方から吹いてきて、湖をわたり、らんの髪の毛の間を吹き抜けていった。
〈種まきうさぎ〉の山道を登り、登りきったら一気にオソレヤマまで駆け下りた。
オソレヤマの谷底についたときには、らんの前髪には風のクセがついていて、広いおでこがピカピカ光っていた。
イオウの起伏を、今度はゆっくり歩く。
オソレヤマで走ると、イオウをのどの奥まで吸い込んでしまってむせてしまうからだ。
春には春のランが、夏には夏のランが咲くのが、らんの場所。
すでに徳さんが着いていた。
カキランとキバナノアツモリソウの咲いているあたりに蜘蛛の巣ができていて、巣の真ん中に大きな蜘蛛が一匹、陣取っている。
徳さんが心を奪われているのは、その蜘蛛だ。
とても美しい蜘蛛。
あまりの美しさに、らんはため息をついた。
「きれい……黒と黄色のしま模様に、所々に赤がスーッて……本当にきれい」
「毒があるんだよ。哀しい女の人の生まれ変わりなんだって」
〈哀しみ〉というこころを、らんは考えてみた。
「蜘蛛に生まれ変わる哀しみって、どんな哀しみなんだろう」
蜘蛛が少し動くと、振動が巣を伝って、小さくて黄色くてちょっとうつむいているカキランの花を震わせた。
カキラン、カキラン、カキラン、と震えている。
「カキランが泣いている」
らんがそうつぶやいた。
それっきり黙り込んでしまった二人はおそらく、目の前の蜘蛛とカキランの〈哀しみ〉について思っているのだろう。
流れる雲を見ながら、みんなでおむすびを食べた。
食べ終わると、オソレヤマのあちこちを歩いた。
夕方になってもふたりは帰ろうとはしない。
今夜は赤い満月。
ふたりは、らんの場所で肩を並べて寝そべった。
「月が赤い」とらんが言うと、
「月が赤いと風が強く吹くんだよ」と徳さんが教えてくれる。
「ふーん、そうなんだ」
「らん。誰がこの世界を創ったかわかる?」
「神様」と、らんは元気よく答えた。
「ううん、風だよ。そよ風が吹いて世界がはじまったんだ」
「知らなかった」
「まず、とても広くて何も存在しない場所に、生きとし生けるもののエネルギーが働き出す。すると、どこからともなく微かな風が吹き起こる。この風が世界のはじまりだと本で読んだことがあるんだ」
「生きとし生けるもののエネルギーって、なに?」
「生き物が泣いたり、笑ったり、怒ったり。すると、風が吹いて世界が少しだけ動く」
するとらんがバトンリレーのように言葉を受け継いだ。
「善いことをしたり、悪いことをしたり、生まれたり、死んだり、手をつないだり、走ったり、……えーと、あとは……」
徳さんがやわらかく笑った。
「そう。するとね、どこからともなくかすかな風がふいてきて、次々と新しい世界が現れるんだ」
と言うと、タイミングよく風が吹いてきた。
びょうびょうびょうびょうびょうびょう。
「ほら、ふいてきた」
と、徳さんが言うと、らんが風の音を口まねする。
「びょうびょうびょうびょうびょうびょう」
ふと、らんはなにかに気がついたように、〈びょう〉をやめ、徳さんに問いかけた。
「いちばんはじめは、生き物のどんなこころが風を起こしたんだろうね。この世のいちばん最初の風」
ふたりは、とくに答えを出すつもりもなく、ぼんやりと星空を見上げた。
「さっきの風はね、らんが〈徳さんは物知り〉って感心したら吹いたんだよ」
らんがそう言うと、徳さんははにかんだように笑った。
そして、星を見上げたまま、すぐに静かな表情に戻った。
「ううん。僕はなんにも知らない。どうして月が空にあるのか。どうしてあそこで星がキラキラ光っているのか。何にも知らない。知らないことだらけだ」
「ケーザイよりもたいせつなことって、たくさんあるね」
「そうだね。どうして僕が生まれてきたのか。どういう理由で、いま僕の横にらんがいるのか。そういうことの方がずっとたいせつだね」
らんは、(ドキン)と胸の中が弾んだ。
オレ様は確かにその音を聞いた。
「ぼくたち、星の彼方にすれ違ってしまわなくてよかったね」
「…どういうこと?」
「一度すれ違ってしまうと、何億年も会えなくなってしまうんだ」
らんは、その言葉の意味を考えている。
「会えてよかったね、ってことだよ」
徳さんが星を見上げて言う。
らんのほっぺがプーと膨らむ。
緊張とドキドキのいつものやつだ。
夜がふけた。
すべての音が大地の底に沈んでしまった。
「……眠るにはもったいない夜ね」
そう言ったらんが最初に眠ってしまった。
こんな夜は、眠るためにあるんじゃない。
目覚めるためにあるのに。
満月に照らされたイオウの大地に、たくさんのこどもたちがあらわれ、石を積んでいる。
そして……
……ひとつ積んでは かあさんに
わたしは どこからきたのです
ふたつ積んでは とうさんに
いずこへ わたしはいくのです……
その合唱は、風に乗ってオソレヤマの谷底いっぱいにゆらゆらと揺れている。
一、二、三……全部で五十三人のこどもたち。
その中の一人、徳さんに指を一本立てて応えたあの女の子が、オレ様の頭を撫でた。
目鼻立ちのしっかりした女の子で、うれしそうにオレ様を抱き上げて頬をすりつけた。
その頃、旅館では、二人がいないことを知ったおかみさんの怒りがグツグツと煮えたぎっていた、なんて二人は知らなかったし、気にかけもしなかった。
でも、オレ様の心の中では胸騒ぎの嵐が荒れまくっていたんだ。
おばあさんが消えた日から膨らみ続けてきた不吉という風船が、もう限界まで膨らみきっていた。
破裂するのは時間の問題で、破裂したららんを始め、オレ様たちはどうなるのか、この世界は存続できるのか。
いつ、なにが起こってもいいように、オレ様は片時もらんのそばを離れないようにしている。
その不吉な予感は現実のものとなる。
つまり、風船が破裂したということだ。
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