第18話 うつくしいそらを書く
離れの横にある梅の花が咲いた。
甘くて酸っぱい香りが鼻をくすぐる。
真っ白だった遠くの山の雪がとけはじめると、斜面に残っている雪がウサギの形に見える部分がある。
村の人々はこれを、種まきウサギと呼んで、昔からこのウサギがあらわれると種まきを始めるらしい。
種まきウサギは春の訪れを知らせてくれるのだ。
らんは、オレ様と一緒に早春の道を学校へ向かっていた。
徳さんのお弁当を届けるためだ。
ハナもついてきた。
途中、空から小石が落ちてきて頭に命中するところだった。
「危ないわね。どうしてこんなものが降ってきたのかしら」
ハナは不思議そうに空を見上げている。
頭上を小太郎が飛び去っていく。
一声鳴いて去っていく小太郎にハナは手を振っている。
「またね、小太郎」
オレ様は、小太郎が明らかに威嚇して鳴いていたのに気づいていた。
この森の住人たちから警告されていることは、ハナが怖がるので言っていない。
まあ、そのうちぼちぼち話すさ。
というか、身をもってわかる時が近いのかもしれない。
校庭では、小さな学年の子らがかけっこをしていた。
らんは、校舎の壁にそって歩き、窓から教室を覗き込みながら徳さんを探した。
徳さんの教室はちょうど習字の時間だった。
窓が開いていたので、らんはオレ様とハナを手のひらに乗せて、教室の中を見せてくれた。
みんなは半紙を机の上に広げて、一生懸命に墨をすっている。
墨の香りが外まで漂ってきた。
らんが目を閉じて深呼吸をした。
「いいにおいね」
墨の香りをゆったりと味わう。
徳さんがこちらに気づいた。
駆け寄ってきたので、らんは窓越しにお弁当を渡した。
「徳さんも字を書くの?」
「うん、そうだよ」
「今日はなんて書くの?」
「春」
先生が注意をしたので、徳さんは席に戻った。
らんは、しばらくそこにいて習字の授業と徳さんを見ていた。
「本当に、いいにおい」
両手の指をお祈りのように組み合わせて、胸にぎゅっと押し付けている。
こんな時のらんは、頭の中で様々なことがぐるぐると駆け巡っているんだ。
徳さんが春を書くと聞いて、らんはとてもうれしくなったようだ。
旅館への帰り道は、美しい空をながめながら戻った。
らんは、ほとんど学校へ通っていない。
だから、字を知らない。
ある日、らんは徳さんにこんなお願いをした。
「わたしに字を教えてほしいの」
徳さんは、夜中にこっそり離れにやってきて、らんに習字を教えてくれた。
一緒に墨をする。
すりすりすりすり、すりすりすりすり。
「ほんとうに、墨っていいにおいね」
すり終わると徳さんが聞く。
「なにを書きたい?」
らんは考えた。
しばらく考えた。
そして、決めた。
「うつくしいそら」
「よし。うつくしいそらを書こう」
横に徳さんがぴたりと寄り添って、筆を握ったらんの手を、その上から徳さんも包み込むように握って、ゆっくりと筆の運び方を教えてくれる。
らんは、うつくしいそらを書いている間中、ほっぺをいっぱいに膨らませていた。
たぶん、緊張とドキドキ。
たぶん、徳さんも緊張とドキドキ。
書き終わって、重なった二人の小さな手がほどけ、体が離れたとき、同時に大きな深呼吸をしていたから。
一週間ほどすると、らんの習字はかなり上達してきた。
もうひとりで筆を運べそうなほどだったが、でもやっぱり、最初の日と同じように二人は手を重ねて書くのだった。
ある夜、いつもと同じようにぴたりと肩を寄せて書いていたら、突然、縁側におかみさんがあらわれた。
ものすごい顔で立っていた。
「こんな時間に、ふしだらな!」
らんが、おかみさんの前まで走り寄って、「すみませんすみません」とおでこを畳にこすりつけてあやまった。
「すみませんおかみさん。わたし字を知らないので」
おかみさんは、いきなり竹の定規でらんの手の甲をぴしっと叩いた。
痛っ!
その後もらんは、一人でうつくしいそらを書き続けた。
毎日毎夜、何枚も何枚も。
ある日、書きためたうつくしいそらを、部屋中に並べてみた。
百枚以上あったので、畳はうつくしいそらで埋め尽くされてしまった。
「中村玄、おいで」
らんは、オレ様を部屋に呼び上げた。
「ぜんぶ、うつくしいそらよ。きれいね」
たくさんのうつくしいそらはまぶしいほどだった。
らんは、その中からもっとも気に入った一枚を選んで、それをていねいに四つに折り、巾着袋に納めた。
……たいせつなもの。うつくしいそら……
この森へきて、らんは幸せそうだ。
でもオレ様は警戒を怠らない。
老師が言うように、やっぱり何かがヘンなのだ。
何がヘンで、どうしてヘンなのか、そこのところの最も重要な点がぼんやりしていてわからんのが、不安要素だ。
ぼんやりした不安は、正体がわからないぶん怖い。
オレ様の目は、日に日に鋭くなってきている。
つまり、目つきが悪くなった。
とハナに言われた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます