第9話 おかあさんをたずねて


────北行きの列車に乗った。


冬だった。

車内は温かく、ガラス窓が曇ったので、らんが指でぬぐった。

丸い覗き窓ができた。

おばあさんの分も覗き窓を作ってあげた。

窓際には、おばあさんからもらったみかんが一個置いてある。


「食べないの?」


と、おばあさんが聞くと、らんは恥ずかしそうに言う。


「みかんの色がとてもきれいだから」


らんは、そこにそうやって置かれたみかんの色がとても気に入ったので、手をつけずに眺めているのだ。

ガラス越しに入ってくる日差しがとても温かく、車内は暑いくらいだ。

おばあさんが、「窓を開けましょうか?」と言ったので、らんはポンと弾みをつけて立ち上がり、ふたりで力を合わせて窓を押し上げた。

冬の風がヒューッと吹き込んできてらんの前髪をはね上げた。

広いおでこがむき出しになってくすぐったかったので、らんは声を出して笑った。


「初めて笑ったわね」


網棚の上に腰掛けたハナがしみじみと嬉しそうに言う。


「こうして、おばあさんになった自分と旅をできるのがとてもうれしいんだわ」



らんは、雪景色をしばらく眺め、そして、そろそろみかんを食べようともう一度おばあさんに笑みを戻した。


おばあさんの姿は目の前から消えていた。


「おばあさんはどこへ行ったの」

「さあ」

「はぐらかさないでよ、中村玄」

「オレ様にもわからんよ」


それにしても……どうして消えたんだろう。



終点は小さな山村だった。

駅前から長くゆるやかな坂道が続いている。

オレ様は先頭に立ってその坂道をのぼって行く。

大きな旅館にたどり着いた。

入り口に古い大きな門がある、歴史を感じさせる旧家だった。

一羽のカラスが門の上から地上に降り立った。

オレ様の前で数歩歩いては立ちどまり、オレ様を覗き込むように首をかしげ、しっとり濡れた眼球を落ち着きなく動かしている。

オレ様は、カラスに声をかけた。


「キミは小太郎」


そう名付けた。


「いっしょに行く?」


カラスの小太郎は、一声明るく高々と鳴いた。

オレ様は旅館の玄関には向かわず、建物沿いにぐるりと敷地の裏手に廻った。

旅館の周りには、千年は生きてきたと思われる杉の原生林がひっそりと広がっている。

杉の枝に積もった雪の固まりが何個も落ちてきた。


上の方から何かの、誰かの、重たい視線を感じる。

気のせいかな。


旅館の裏手には小さな離れがあった。

一部屋しかない質素な小屋だ。

オレ様はその離れを横目で見ながら、さらに森の奥へと進んだ。

雑木の森だ。

人一人歩ける程度の巾に雪を踏み固めた一本の小道が伸びている。

その道は、お墓に通じていた。

旅館を経営する一族代々の墓所なのだろう。

オレ様は、一番端に立っている真新しい細長い木の板に鼻を寄せてクンクンにおいを嗅いだ。

その板には女性の名が書かれてあった。


「……あ」


その名前を読んで、らんは小さな声をあげた。


「おかあさん……」


そのまま、へなへなと腰を落としてしまった。


「なんてこと……」


ハナもオレ様に体を寄せて震えている。


そのとき、頭上から声が降ってきた。

厳しいほど深い声が。


『お前たちは誰だ』


ああ、これがさっきから感じていた視線の正体か。


「オレ様は中村玄だ。こいつは、ヒメネズミのハナ」

『その子は』

「わたしはらんよ。おかあさんに会いにきたの」


しばらく間があった。そして、


『一足遅かった。おまえさんの母親は三日前に死んだ』


強い風が吹いて、杉の枝から雪がバサッと落ちた。


『なんの前ぶれもなかった。朝になっても起きてこないので見てみると息がなかった。たった独りで静かに旅立ってしまった』


オレ様は、キョロキョロとあたりの杉の木を見上げて声の主をさがした。


『母親がここへ戻ってきたのは二年前だ。病院を出たあと、この旅館で仲居として働いていた。さっきの離れで暮らしながらだ。身寄りのない女だったし、病院に入るずっと以前、十才からこの旅館に奉公していたこともあって、この墓所に埋葬されたのだ』


オレ様は頭上を見あげて、声の主に聞いた。

「あんたは、いったい誰なんだい?」

『この森のものたちは、わしを老師と呼ぶ』

「老師? お偉い方なんですね?」


ちょっと皮肉な口調で言ったが、老師は動じない。


『呼び名など、記号のようなものだ。老は当たっているが、師などと呼ばれるほどの徳はない。ただの老いぼれだ』


らんは、森のどこかにいる老師に話しかけた。


「どうしておかあさんはらんを迎えにこなかったの? やっぱりらんは捨てられたの?」

『母親はおまえさんを捨てたわけでも、なにか難しい事情があったわけでもない。簡単な話だ。忘れてしまったのだ。……ある日突然、つきものが落ちるように病が完治すると、体から毒素が抜け落ちるのと一緒に、記憶も抜け落ちてしまったというわけだ』

「じゃあ、おかあさんはらんを捨てたんじゃなかったのね」


らんの目に、ほんの少しだけ光が宿った。

老師が淡々と続ける。


『おまえさんの母親は、夕方になると、門の前で竹ぼうきを動かす手を止めて、道の向こうを眺めていた。まるで、坂道を上ってやって来る誰かを待っているようだった。見ているとこちらの肌がざわついてくるほどの寂しさが伝わってきた』

「……おかあさんが待っていたのは、らんのこと?」

『……わしにはわからん』


らんは、〈おまえさんを待っていたのだ〉という答を聞きたかったのだろう。

なんとなくはぐらかされたようで、寂しそうにうなずいている。


「わたしも寂しかった。ずっと。おかあさんの寂しさとわたしの寂しさはどう違うんだろう……」


オレ様は、老師の声の方向にシッポを振り始め、

老師の記憶界にアクセスした────


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