第3話 少年の名前


さくらの季節だった。

夫婦は少年をお花見に誘った。

河川敷の桜の枝にオレ様とハナは座っていた。


「徳さんとらん夫婦は、若い頃からずっと、鑑別所や少年院などを出た子どもたちが社会に復帰するための手助けをしてきたんだ」



次々と場面が変わることに、ハナは次第に順応してきたようだ。

というか、理解することをあきらめて、なるがままに身をまかせていた。

うん、それが正しいやり方だ。


「あの少年は、らんと徳さんに出会ったこの十四歳の春に感謝することになるだろう」

「意味わかんないし」


さくらの下で、らんは手作りのお弁当を広げた。

おむすびだ。

少年は、ふてくされておむすびにかぶりついた。

オレ様は、らんのおむすびの味をよく知っている。

それは、お米のひとつぶひとつぶがやさしく寄り添っていて、ほんわりと握られたおむすびだった。

ほっとする味なんだ。


さくらをながめているうちに心がほっこりとしてきて、とても自然に、らんが歌いはじめた。

らんは心がなにかに震える時、それに共鳴するように歌が出てくるんだ。

とくに童謡が大好きだ。


「あ、この歌、知ってる」


ハナが、フンフンと鼻歌でらんに合わせている。

その歌は、さくらを題材にした、誰でも知っている素朴な童謡だった。

らんは、音程もさほどしっかりしていないし、発声も不安定で、高音部では声が細かく震える。

でも、一つ一つの音に色をつけるように歌っている。


「らんさんはていねいにていねいに、心をこめて歌うのね」


ハナの口調は優しい。

この場に順応してきたようだ。

よしよし。


「らんさんの歌を聴いていると、何かとても大切なことを忘れているような、それが何なのかどうしても思い出せない。そんな、せつないけどほんのり懐かしい気持ちになるわ」


ハナはちょっと涙目になっている。

そうなんだ。

らんの歌は、かたく凝り固まっていた心が、ゆっくりとほどけてくるような……聴くものをそんな心持ちにさせてくれるんだ。

ほら、少年も、ささくれた自分の心を、歌が優しく撫でてくれるような気がしたんだろう。


らんの歌はこんな風に少年に語りかけた……ささくれているのは心の表面だけなの、ずっと奥のほうには鏡のようにピカピカ光る透明なものがあるのよ。それがあなたの本当の心なの、他に比べるものがないくらいに綺麗な心をあなたは持っているということを思い出してね……たぶん、おそらく、こんな風に。


少年は、歌に全身をゆだねているうちに、さくらを見あげて素直にああきれいだなぁという表情になっている。

おむすびを頬張りながら、歌に合わせて少し首を揺らしている。

素直においしいという表情だ。


「あの子、トゲトゲした感じがなくなったわ」とハナ。


そして小さな声で、ホントに小さなかすかな声だけど、少年はいっしょに歌っていた。

ハナも、少年も、徳さんも、みんならんと一緒に歌っていた。

しかし、オレ様はそんな感傷に浸っている暇はない。

少年がトイレに立ったので、ついて行った。


「おい」

「なんだ、白黒」

「お前、泣いてただろ」


公衆トイレの入り口で、オレ様は挑発した。

でも、少年は挑発に乗らなかった。

それはオレ様の予想通りだった。


「うん。ちょっと恥ずかしくてさ、おしっこ行ってくるって嘘ついた」


少年は笑いながら手の甲で涙を拭う。

爽やかだ。

素直なやつだ。


「なんかさ、いっしょにおむすびを食べて、いっしょにさくらを見て、いっしょに歌う。

……いっしょに……」


少年の目から涙がポロポロこぼれてきた。


「……いっしょに……たったそれだけのことが、実は生まれて初めての経験なんだ。生まれて初めてのことなのに、なんか懐かしい気持ちになっちゃって。急に胸のずっと深いところがむずむずしてきちゃって。涙があふれてきて、ポロっておむすびの上に落ちてさ、口の中が涙のしょっぱい味でいっぱいになっちゃった」


そう言って笑う。


「今まで悔しくて辛くて泣いたことはたくさんあるけど、こんな涙は初めてだ」

「そういえばおまえ、さっきから自分のこと俺様って言わなくなったな」

「ああ、そうだね。どうしてだろ」

「オレ様がおまえの俺様をいただいたからだ」


少年は首をかしげて考えている。


「ま、深い意味はない。おまえにはもう自分のことを俺様なんて呼んで背伸びする必要がなくなったってことだ」


少年は、姿勢を低くしてオレ様の目を覗き込んで言った。


「俺様はお前にくれてやる」

「ああ、俺様はオレ様がもらってやる」


少年は微笑した。

うん、爽やかな笑顔だ。

戻ると少年は、正座して夫婦に向き合った。


「ぼくは、十四年間、ずっと叱られ続けてきました。そのたんびに憎んで反抗して悪いことを重ねて、そうするともっと厳しく叱られて、おまえなんか死んじまえと怒鳴られる、いなくなれって。その繰り返しの十四年間でした」


夫婦はうなずきながら聞いている。


「ぼくは自分の名前が嫌いなんです。ぼくの名前は、ののしられたり、怒鳴られたり、叱られたりするためだけにある名前でしたから」


気がつくとオレ様の足元でハナがポロポロ涙を流している。

グズグズの鼻声で、しゃくりあげながら言う。


「あの子、自分の名前をずっと愛することができないまま生きてきたのね。だから、名前ではなくて、俺様と名乗って、崩れそうになる心を支えてきたのね」


順応が早いやつだ。案外賢いネズミなんだな。

少年は夫婦に深く頭を下げた。


「人生をやり直したいので、新しい名前をつけてください。名付け親になってください」

「いいわよ。ねぇ徳さん」

「ああ」


夫婦は快く引き受けた。


「わたしたちが、まだこどもだった頃、わたしと徳さんにとってたいせつな存在だったものの名前をあなたに贈るわ。いいでしょ、徳さん」

「ああ、いいとも。はるか過ぎ去った日に出会った、宝のような名前だ」


ハナがウキウキワクワクの顔でオレ様を見る。


「大切な名前だって。宝のような名前だって。なんだろね」


らんは、深呼吸すると、大切にそっと名前を贈った。


「中村玄というのはどうかしら?」


ハナが、「ひぇっ」としゃっくりのような変なリアクションをした。

驚いてオレ様を見て、もう一度、「ひぇっ!?」


オレ様は、静かな表情でうなずいているだけだ。


「ウソでしょ、宝のような名前って!?」


今のオレ様は、たぶんドヤ顔パンダだと思う。


「あのね、あたし、前から知りたかったんだけど、あなたの中村玄という人間みたいな名前って、このご夫婦がつけたの?」

「うーん、難しい質問だ」


オレ様は、腕組みをして考える、ふりをする。


「そもそも、パンダが中村玄って、ヘンじゃない?」

「どうして? ヒメネズミのキミはハナだろ? ヘン?」

「ヘン……かな」


ハナは、自分が何を聞きたいのか、こんがらかってしまったようだ。

オレ様は、大きくうなずいた。


「そう。オレ様の名前は、らんが名付けた」


そう言うや、すぐに否定した。


「いや、らんじゃない。出会ったとき、すでにオレ様は白黒の中村玄だった」

「どっちなのよ」

「やっぱり、らんが名付けて、名付けてない」

「……あなた、何言ってるの?」

「パンダは白黒? それとも黒白?」

「ねぇ……だいじょうぶ?」

「ニワトリが先か、タマゴが先か、中村玄が先か、らんが先か」

「………」



その後、徳さんは町内を走り回って少年の働き場所を探した。

お弁当屋さんが引き受けてくれた。

でも、少年はその仕事が長続きせず、別の仕事に就くためにこの町を離れて行った。

それっきり彼からは便りがない。


十数年ほど前の出来事だ────

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