37 我が胸に輝くは銀十字
早暁。シャルルは、銃士隊長トレヴィルの屋敷を訪れた。
変事を聞きつけたアルマン、アンリ、イザック、そして、他の銃士たちもトレヴィルの屋敷にすでにいた。
「陛下が誘拐されました。今こそ、王を守る我らの出番です」
屋敷の広間に銃士たちが集結し、シャルルはトレヴィルに力強くそう言った。国王の危機ならば、一も二もなく駆けつけるのが銃士である。当然、トレヴィルも異論はないはずである。シャルルはそう考えていたのだが……。
「……俺は、シュヴルーズ公爵夫人のふたつの要求を飲むべきだと思う」
アンヌ太后の前で見苦しい醜態を見せてから、トレヴィルの顔は病人のように弱々しく、唇も小刻みに震えていた。事情を知らないシャルルは困惑して「な、なぜです!」と怒鳴る。
「今、陛下の命はシュヴルーズ公爵夫人に握られている。いつ殺されてもおかしくない。ならば、奴の要求を受け入れるしかないだろう。主君の命を最優先するのが臣下のつとめだ」
「違います、トレヴィル隊長。当然、陛下の命は必ず守らねばなりません。しかし、それと同時に我らは陛下の国王としての尊厳を守らなければいけないのです。反逆者の指図に従い、国家の大事を決めてしまうのはルイ十四世陛下の威厳を地に落とすことになります」
「国家の大事だと? あのイタリア人の進退が国家の大事なのか? ……そういえば、お前は命を狙われたマザランを助けたそうではないか。お前は銃士隊を裏切り、あの外国人の宰相の肩を持つ気か? さては、フランソワにでもそそのかされたな……?」
「トレヴィル隊長、今の敵はシュヴルーズ公爵夫人とベンガンサ隊、それにボーフォール公です。私情は捨てて、冷静に判断してください」
強い口調でトレヴィルをそう諌めたのはアルマンだった。さらに、アンリも「そうです。アルマンの言う通りです」と
「マザランの解任問題は置いておくとして、もっと深刻な問題は、陛下を解放するためのもうひとつの条件です。『ボーフォール公を陛下の実父と認めろ』とは、あまりにもふざけているではありませんか。シュヴルーズ公爵夫人は、陛下が先王陛下の子ではないと太后様に公言させるつもりなのです。もしもそんなことを太后様が認めてしまったら、大変な騒ぎになります。国は必ず乱れるでしょう」
「……ふん。太后様は、現にマザランの囲い者になっている。あのお方は、平気な顔をして夫を裏切り続けてきた悪女だ。もしかしたら、本当に、陛下やフィリップ王子は先王陛下のお種ではないのかも知れんぞ」
「え! そうなんですか⁉」
ルイ十三世は、昔、下半身に大きな腫物ができて苦しんだことがある。そして、その腫物のせいで子を作る能力を失ったという噂があった。王妃が妊娠したと聞いたルイ十三世は、最初は狂喜し、子が無事に生まれるように神に祈りを捧げた。しかし、ルイ十四世が生まれてしばらくして、ルイ十三世本人も、
(この子は、本当に我が子であろうか……?)
と不安に思い、王妃を疑った。
それらの裏の事情をルイ十四世やフィリップ王子が誕生した時期にパリにまだいなかったイザックは知らないが、あの頃のルイ十三世の悩みようを間近で見ていたシャルル、アルマン、アンリたちにとってそれは非常に胸が痛くなる問題だったのである。しかし――。
「ルイ十四世陛下の血の繋がりなど、この際、問題ではありません」
急にシャルルが、みんなが
「ルイ十四世陛下は、先王陛下のお世継ぎとして生まれた。それだけが一番大事な真実なのです。
……先王陛下は、俺にこうお漏らしになったことがあります。『我が血を受け継ぐ子であろうと、そうでなかろうと、我が息子……ブルボン王家の後継ぎとして生まれてきてくれたあの子に朕は心から感謝する』と……。
陛下は、最終的に自分の心の中でそう結論づけていらっしゃったのです。陛下は、父子の血の繋がりの有無をこえて、ルイ十四世陛下を愛していました」
亡き国王ルイ十三世は、信頼する剣士シャルルだけには自分の本音を語っていたのだった。
彼は、ルイ十四世とフィリップ王子が誰の子なのかとさんざん悩んだ末に、
――事実はどうであれ……。自分が王子たちを我が子と認めれば、その認めたことがこの世の真実になるのだ。そうしたほうが、国家のためになる。
と考えた。そして、自分の葛藤など打ち捨て、ルイ十四世を王太子としたのである。私情を殺し、国家のために尽くし続けた正義王ルイらしい決断だった。
「先王陛下がそう決めたのです。ですから、ルイ十四世陛下の実父の問題を詮索することなど無用のことなのです! 我ら臣下が、事実はどうであったのかと勘繰る行為は、先王陛下の苦渋の決断を無駄にすることになります!」
シャルルは吠えるようにそう言い、トレヴィルを真っ直ぐに
トレヴィルは、ルイ十三世が銃士隊長の自分ではなくシャルルにだけ
(やはり、俺は陛下の信頼を失っていたのだ。俺には、そんな話、いっさいしてくださらなかった……)
と思って顔を激しく歪めた。
そして、シャルルから目をそらし、「助けに行きたかったら、行けばいい。ここから去れ」とポツリと言った。
「……ただし、銀十字の隊服は脱いでいけ」
銃士隊の隊服である青色のカザック
トレヴィルの無情な言葉を耳にしたシャルルの瞳孔が大きく開く。拳を強く握るあまり、血が
アルマン、アンリ、イザックが「隊長! 何ていうことを……!」と声をそろえて
「マザランは俺の敵だ。太后様は俺の心を踏みにじった。あの二人に手を貸そうとする者を俺は仲間と認めない。認めたくない……」
トレヴィルの両眼からぽとり、ぽとりと涙が落ちる。
それは、愛したアンヌ・ドートリッシュへの未練のために流した涙なのか、それとも、かつては我が子のように可愛がっていたシャルルを自ら切り捨ててしまった悲しみの涙なのか――。
「……分かりました。では、これでおさらばです」
シャルルは静かにそう呟き、カザック外套を脱いで足元にそっと置いた。そして、アルマン、アンリ、イザックら銃士たち一同の顔を一つ一つ愛おしそうに見つめた後、こう叫んだ。
「みんな、さらばだ。俺はもう銃士ではなくなってしまったが、銃士としての心は失っていない。
俺は銃士隊を離れても、我が剣の誇りにかけて国王陛下を守る。そして、君たちとの友情にかけて銃士たちの絆を忘れない。……愛する仲間たちよ! 我が胸には、今でも銃士隊の銀十字が輝いている!」
シャルルはそう言い残し、去ろうとした。しかし、アルマンがシャルルの腕をつかみ、それを止めた。
「待て、シャルル」
「止めないでくれ、アルマン!」
「止めるものか。俺も一緒に行く。俺たちは十五歳の頃から常に行動を共にして来たではないか」
「しかし、お前はトレヴィル隊長の親類……」
「お前は、銃士たちの絆を忘れないとさっき言ったではないか。銃士を辞めても仲間だとフランソワにも言った。ならば、銃士ではなくなったお前は、今でもなお俺の仲間だ。何なら、俺も銃士の隊服を脱いでやってもいい!」
アルマンはそう言うと、カザック外套を脱ぎ捨てた。
「この外套を着ていなくても、俺たちは銃士なんだ! 決死の戦いに
「その通り! さすがは三銃士の兄貴分です!」
「よっしゃぁ、俺もシャルルと行くぞ!」
続いてアンリとイザックも外套を脱ぎ、シャルルに抱きついた。シャルルは目を
「ありがとう。アルマン、アンリ、イザック。俺は、お前たちを信じていた……」
こうなると、トレヴィルも黙ってはいられない。他の銃士たちまで、シャルルについて行きたそうな顔をし始めたのである。
「待て! アルマン、アンリ、イザック! お前たちは、本気なのか? 銃士隊を辞めて、シャルルがお前たちに何か見返りをくれるとでも思っているのか? 銃士隊を追放されたこの男は一介の剣士にすぎん。地位も名誉も、お前たちに与えられるものなど何もないぞ! 我が子飼いの銃士たちが、情にほだされて出世の機会を失うなど、あってはならんことだ!」
三銃士を手放すわけにはいかないと焦り、トレヴィルが必死になってそう
「友情に見返りって……求めないものだと俺は思うんですが? 違いましたっけ?」
「それでいいんですよ、イザック。たまには賢いことを言うじゃないですか」
アンリがそう褒めると、イザックはデヘヘと照れ臭そうに笑った。
アルマンが前に進み出て、トレヴィルを悲しげに見つめ、「隊長……」と言った。
「友情の大切さを俺やシャルルに教えてくれたのは、トレヴィル隊長ではないですか。神様から与えられた誰の物でもない我が命を大切な人のために使う。それが愛であり、友情だと……。俺は、トレヴィル隊長にそう教わり、今もそれを実践しているだけなのです」
「あ、アルマン……」
「隊長は、宮廷に渦巻く陰謀に関わり過ぎて疲れ果て、何が正しいのか分からなくなっているのです。どうか、正気に戻ってください」
「ま……待て、アルマン……! 我が三銃士……! 待ってくれ……シャルルっ‼」
トレヴィルの悲痛な叫びを背に、シャルルと三銃士は広間を飛び出した。
トレヴィルはがくりと膝をつき、「あ……ああ……。コンスタンス、俺はどうしたら……」とうめいた。
「トレヴィル隊長! 我々も行きましょう! 銃士隊は、みんなで一人じゃないですか!」
銃士たちがトレヴィルの周りに集まり、口々に「シャルルたちと共に!」と言う。トレヴィルは、胸の銀十字をギュッとおさえる。
(愛は……見返りを求めぬもの……。俺は、銃士たちに愛を注ぐかわりに自分への忠誠を求めてきた。しかし、それは銃士の心に反するものだ……。
銃士は利害ではなく、友情で結ばれなければ真の力は発揮できない。昔の俺はたしかにそう考えていたはず。それがいつの間にか、変わってしまっていた。そして、アンヌ様にも愛の見返りを心の中で求めるようになり、報われぬと分かると、自分の欲望が抑えられなくなって狂ってしまったのだ)
シャルルが自分に背くようになったと怒っていたが、一番変わってしまっていたのは他でもない自分だった……。
何と愚かなのだろう、俺は。トレヴィルはそう思い、体を震わせて号泣するのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます