29 開戦前夜のダルタニャン兄弟

 スペインのフランドル総督フランシスコ・デ・メロは、功を焦っている。


「シュヴルーズ公爵夫人がパリで政変を起こした」という連絡が届くのを待てずに、二万七千の大軍を率いて出陣した。目指すはパリである。


「手始めに、ロクロワの要塞を落としてやる」


 スペイン軍は、星形の要塞都市ロクロワを包囲し、攻撃を開始しようとした。


 しかし、そこにフランスのフランドル方面司令官アンギャン公の軍勢二万三千が救援に駆けつけ、スペイン軍と対峙したのである。


(アンギャン公は、たしか二十歳そこそこの若造だという話だが……。なかなか侮れぬ大将のようだ)


 アンギャン公の軍が湿地帯と森林を抜けてスペイン軍の前にその姿を現すと、フランシスコは「この軍を率いている若者は強敵だ。油断して戦うと痛い目にあう」と警戒し、急いで陣形を整えるように全軍に通達した。

 悪路からは敵軍が現れないだろうとフランシスコは考え、湿地帯などの備えを怠っていたのだが、アンギャン公はわざわざ行軍しにくい道を選んで進軍し、敵の守りの薄い所を攻撃しようとしたのである。それは、非凡な将軍にしかできぬ巧みな用兵だった。


 五月十八日、フランスとスペインの両軍は睨み合ったまま夜を迎え、決戦は明日に持ち越された。








 その決戦前夜のことである。


 フランス軍の右翼を守るガッシオン元帥げんすいの指揮下にあったシャルル・ダルタニャンは、近衛歩兵連隊の隊長をつとめている長兄ポール・ダルタニャンに呼び出され、彼の幕舎におもむいた。三番目の兄で、ペルシャ連隊の隊長のジャンも一緒である。


「兄貴、何の用だ。大事な戦を控えたこんな時に……」


 シャルルがそう言いながら幕舎の中に入ると、なぜか全裸になっているポールが葡萄酒ぶどうしゅの入った杯を片手に「よう」と笑ってあいさつをした。ポールの横で寝ていた一人の若い娘が「きゃっ!」と可愛い叫び声をあげて驚き、半裸の状態で幕舎から出て行く。


「何だ、あの女は」


 強面こわおもてのジャンが、長年戦場で怒鳴り過ぎて潰れたガラガラ声でそう問うと、ポールは杯をぐいっと仰ぎ、


「従軍商人の家族に美しい娘がいたから、ちょっとつまみ食いをしていただけさ」


 と、ニタリと笑いながら答えた。


 シャルルとジャンは顔を見合わせて「相変わらずだな、この馬鹿兄貴は……」と表情だけで会話し、深いため息を同時についた。


「いつまでそこに突っ立っているんだ。そこに座れよ。大事な話があるんだ」


「大事な話がある時に女を連れこむなよ。……それで、その話とは何だ?」


 シャルルがそう文句を言いながら座り、ジャンもその横に座ってポールから受け取った杯に葡萄酒を注ぐと、ポールは服を着ながら「ああ、うん。実はな」と切り出した。


「俺、この戦いが終わったら、故郷のカステルモールに帰ろうと思うんだ」


「え? せっかく歩兵連隊の隊長になれたのにか? 就任したの、今年だぞ」


 シャルルが驚いてポールの顔を見つめ、ジャンも口に含んでいた葡萄酒を危うく吹き出しそうになった。


「そんなに驚くことじゃないだろ。親父が死んでもう八年経つんだぞ。長男の俺はそろそろ帰って親父の領土を治めないと。年をとったお袋に領地の管理を任せっきりにしておくわけにもいかないだろ。俺は、田舎貴族の長男にしては十分に出世したさ。これなら、故郷に帰っても、恥ずかしくない。近衛歩兵連隊の隊長にまで登りつめたと聞けば、故郷の人たちもみんなビックリして、俺を敬うさ」


「俺は戻らんぞ。俺は、戦場で死ぬと決めているんだ。それが俺の誇りだ」


 生粋きっすいの軍人であるジャンが胸を張ってそう言うと、シャルルもうなずき、「銃士隊を辞めるつもりはない」と言った。


「それは当たり前だ。三男と四男のお前たちには継ぐ領地がないのだからな。お前たち弟には軍隊でどんどん働いて、軍人として立身出世してもらわないと。そして、我が一族の子息たちがパリに上京した時、そいつらの後ろ盾になってやるんだ。銃士隊のトレヴィル殿がそうしているようにな」


「……うむ」


 ポールの口からトレヴィルの名が出ると、シャルルはわずかに顔を曇らせた。目敏いポールは、弟の表情の変化を見逃さなかった。


「……シャルルよ。どうやら、コンスタンスが死んで以来、お前とトレヴィル殿の間には大きな溝が出来てしまったようだな」


「他人事のように言うなよ。兄貴にだって関わりのあることだぞ。コンスタンスは……兄貴の恋人だった女性じゃないか」


 シャルルが責めるような目つきでポールをにらむと、ポールは自分が銃士隊に在籍していた頃のことを思い起こしながら、「あいつは俺のことを好きだったわけじゃない」と冷ややかな口調で言った。


「あの頃は、まだ銃士隊長ではなかったトレヴィル殿が、当時の銃士隊長ヴィルシャルテル殿に睨まれていて、銃士隊内でできるだけ多くの味方が必要だった時期だった。

 コンスタンスは、銃士隊の中ですでに多くの功績を上げていて発言力も持っていた俺とその弟のシャルルをトレヴィル殿側に引き入れるため、俺の気を引いて男女の仲になったんだ。

 あいつの目的を薄々知りながらも、トレヴィル殿に味方して恩を売ることで出世しようと考えた俺は、コンスタンスの誘いに乗った。……ただ、それだけのことだ。その後、トレヴィル殿は銃士隊長になり、俺も銃士隊の旗手(部隊の象徴の軍旗を守る職)に任じられ、お互いの目的を果たした俺たちは別れた。たしかに、別れ話を先に切り出したのは俺だが、それがコンスタンスの不幸の始まりだったみたいに考えるのはやめてくれ」


「コンスタンスは、兄貴が考えているような女ではない。本当に、兄貴のことを愛していたんだ。俺は、兄貴のそういう人の気持ちを曲解するへそ曲がりなところが嫌いだ」


「やれやれ。お前は、コンスタンスにひと目惚れした十五歳の頃から、まったく変わっていないな。

 シャルル、お前は人が見せる美しい面をその人間の本質だと信じたがる癖がある。だがな、人間の顔は一つではないんだぜ。美しい面も、醜い面もあるんだ。あまりお人好しがすぎると、いつか痛い目にあうぞ。

 ……お前が尊敬しているトレヴィル殿だって、そうじゃないか。俺だって、あの人のことをガスコーニュの英雄だと思って憧れていた時期がある。だが、トレヴィル殿は、国王陛下への忠義よりも、自分が恋い慕うアンヌ王妃に奉仕することに命を燃やす男だった。

 俺が聞いた噂によると、コンスタンスを産んですぐに死んだトレヴィル殿の愛人は、王妃様と瓜二つの栗色の髪の美女だったらしい。トレヴィル殿は、死んだ愛人の面影がある王妃様に執着しているんだ。そして、王妃様に尽くすために銃士隊を私物化して使い、サン=マールの陰謀に巻き込まれた挙句、娘のコンスタンスを失ったんだ。

 ……あの男をいつまでも銃士隊長の地位にとどまらせていたら、お前のためにも、仲間の銃士たちのためにもならんぞ」


 途中まで軽薄な笑みを浮かべて喋っていたポールが、不意にギラリと目を光らせてシャルルを睨んだ。シャルルは兄の不穏当な発言に驚き、うろたえる。


「き、急に何を言い出すんだ」


「シャルル。そろそろ頃合いだ。トレヴィルを蹴落とせ。そして、お前が銃士隊長になれ」


「馬鹿なことを言うな。俺は、恩人を裏切るような真似はできない」


「そういう綺麗ごとを言っている間に、お前がトレヴィルに消されてしまうぞ。王の身辺を守るべき銃士のお前が、こんな戦地に単独で飛ばされていること自体がトレヴィルの陰謀ではないか。奴は、戦場でお前が死んでくれたらいいと思っているんだ。

 ……なあ、シャルル。俺たちが親父の姓カステルモールではなく、母方の姓のダルタニャンを名乗っているのは何のためだ? 軍人として勇名をはせたダルタニャン一族の名にあやかり、パリで出世するためじゃないか」


 シャルル兄弟の亡父ベルドラン・ド・バツ・カステルモールは、ガスコーニュの田舎のカステルモールの領主だった。

 カステルモール家は、数代さかのぼったら商人で、先祖が金で貴族の領地を購入したのである。ベルドランは、多額の借金に悩まされ、息子のシャルルたちの目から見てもカステルモール家は貧乏貴族だった。


 それに引きかえ、ベルドランの妻フランソワーズの実家であるモンテスキュー・ダルタニャンは、ガスコーニュの古い貴族である。さらに、フランソワーズの父――つまり、シャルルの祖父にあたる――ジャン・ド・モンテスキュー・ダルタニャンは、近衛歩兵隊で旗手をつとめていた人物だ。旗手とは、武器を持たずに軍旗を掲げて戦場の前線に立つ非常に勇気のいる役目で、祖父ジャンは仲間から尊敬を集める軍人だった。


 また、そのジャンの息子で、シャルル兄弟にとっては母方の叔父のジャン(父親と同名)は、近衛銃士隊の初期の銃士として活躍し、ラ・ロシェルの包囲戦で壮絶な討ち死にを遂げている。


 シャルルに先んじて銃士隊に入った長男ポールは、母方のダルタニャン家の勇敢な軍人たちにあやかり、パリではダルタニャン姓を名乗ったのである。

 それは、田舎貴族カステルモールの名よりも軍人たちの間では高名なダルタニャンのほうが出世しやすいという打算もあったが、母方の祖父や叔父たちのような立派な軍人になりたいという純粋な憧れもあった。そして、後からパリに上京してきた三男ジャンや四男シャルルたち弟にもダルタニャン姓を名乗らせ、兄弟が力合わせて出世しようと誓い合ったのである。


「お前には一軍を率いる才能があるとガッシオン元帥も言ってくれていた。銃士隊長となり、その地位を足掛かりとして元帥になってくれよ。俺の弟がフランス軍の元帥になってくれたら、これほど嬉しいことはない。お前だって、元帥になることが夢だったろう?」


「……トレヴィル殿に背くことは、トレヴィル殿子飼いのアルマンたち三銃士とも敵対することにつながる。俺は、あいつらとの友情を壊してまで、出世などしたくない」


「お前が銃士隊長となり、銃士たちを正しい道に導いてやればいい。そうすれば、アルマンたちもお前のことを理解して、ついて来てくれる。それとも、お前は、友のことが大切だと言いながら、あいつらのことを信じ切れていないのか? 自分が友を裏切らない自信はあっても、友が自分から離れていかないという自信はないのだろう。この臆病者め」


「へそ曲がりの兄貴に、そんなこと言われたかねぇよ!」


 ガスコーニュなまりでそう叫んだシャルルは、ポールの顔面をぶん殴った。「うげっ!」と情けない声をあげながらポールは仰向けに倒れる。


「とっとと田舎に帰っちまえ! こん畜生!」


 シャルルはそう怒鳴り散らすと、荒々しい足音を立てて、幕舎から出て行った。


 二人の会話中ずっと黙って葡萄酒を飲んでいたジャンは、「兄貴は馬鹿だなぁ」とゲラゲラ笑った。


「本当は、シャルルのことを心配して、故郷に戻る前に一言励ましておこうと考えてここに呼んだのだろう? それなのに、あいつを怒らせることばかり言ってさぁ……」


「あいつはいい加減、コンスタンスのことを忘れるべきなんだ。そして、トレヴィル殿を見限るべきだ。そうしないと、前に進めないじゃないか」


 ポールがむくりと起き上がり、鼻からたれてくる血を手の甲で拭いながらそう言うと、ジャンは「俺も、シャルルが銃士隊長になるべきだと思う」と同意した。


「……だが、コンスタンスは、兄貴が言うほど計算尽くの冷たい女だったとは、俺も思わないがなぁ。少なくとも、年上の恋人である兄貴のことを尊敬していたと思うし、それに…………。愛情があったかどうかは分からないが、あの子はシャルルを大切な友人として信頼していたはずだ」


「つまり、お前も俺のことをへそ曲がりだと言いたいのか?」


 ポールが舌打ちしながら睨むと、ジャンはフフッと笑った。


「兄貴の性格の悪さは治らないが、シャルルはちゃんと立ち直れるさ。あいつには、自分の心の傷と向き合い、それを自らの血肉にして前進する強さがある。安心して故郷に帰れ」


「……無事に帰ることができるかは、明日の決戦次第だがな」


 ポールはそう言い、俺が最後に経験する戦いはかつてない激戦になるだろうと考えた。

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