28 アンヌ・ドートリッシュのクーデター(後編)

 前後から現れた護衛隊と銃士隊は、シュヴルーズ公爵夫人の馬車を包囲しつつあった。


「夫人、馬車から降りてください。完全に囲まれる前に、脱出します!」


 イグナシオがシュヴルーズ公爵夫人の腕を引っ張り、彼女を馬車から降ろした。


 護衛隊の先駆けの隊士がイグナシオに襲いかかったのは、その直後のことである。イグナシオは長剣を素早く抜いて応戦した。その背後では、ベンガンサ隊の隊士たちが銃士たちと戦いを開始している。


(シュヴルーズ公爵夫人の言う通り、こいつらは犬猿の仲のようだ。両隊とも動きがバラバラで、連携して戦おうという気がない。それに、銃士隊、護衛隊のそれぞれの隊士たちも、どことなく剣に迷いがある……? もしかしたら、こいつらも自分たちがなぜ共同作戦をやらされているのか分からず、戸惑っているのか?)


 歴戦の剣士であるイグナシオはそう直感し、(敵が万全でないならば、血路を開くことも可能はずだ!)とおのれを励まして剣を振るい、護衛隊の隊士を一人突き殺した。


「あの男の剣は非常に長く、間合いに入るのが難しい! みなさん、気をつけてください!」


 銃士隊の中でそう怒鳴っている男――アンリの声を聞き、イグナシオは、モットヴィルでシャルル・ダルタニャンと行動を共にしていた銃士たちもいることにと気づいた。


(だが、シャルル・ダルタニャンはいないようだな。チッ、いたらこの場で殺してやったのに)


 イグナシオが内心舌打ちした時、シュヴルーズ公爵夫人がさっきまで乗っていた馬車が大きな音を立てて大破した。怪力のイザックが、車内にシュヴルーズ公爵夫人がまだいると思って、七歳児ぐらいの大きさはある石を馬車にぶん投げたのである。


「イザックの馬鹿、シュヴルーズ公爵夫人はもう馬車の外ですよ!」


「え? そうなの? よぉし、俺がとっ捕まえてやる!」


 イザックが、剣を抜き放ちながらイグナシオとシュヴルーズ公爵夫人に接近する。「うっ……」とイグナシオは一瞬ひるんだ。


 隻眼せきがんのイグナシオは、長剣デュアリング・レイピアで自分に有利な間合いを確保し、片目がない不利を補っている。しかし、大ざっぱな性格で間合いがどうのこうのという戦いの駆け引きを考えるのが苦手な巨人イザックは、躊躇なくイグナシオの間合いにドシン、ドシンと重い足音を立てながら侵入して来るのだ。恐ろしいほどの無邪気、そして、気迫だった。


(こいつは、俺にとって相性の悪い敵のようだ……)


 イグナシオは、思わず後ずさりをした。そんな時、予想外の助けが入ったのである。


「そこの巨体! お前の相手は俺がしてやる!」


 闇深き小路から十数人の足音。

 現れたのは、揃いの黒マントを羽織った剣士たち。

 その先頭に立つ男――ベンガンサ隊の副隊長イバンが、イザックに猛然と斬りかかった。


「イバン! お前、傷はもういいのか⁉」


 驚いたイグナシオは、そう叫んだ。副隊長のイバンは、銃士隊との戦いで重傷を負い、ブリュッセルで療養中だったはずである。


「左手が少々不自由になったが、十分に戦える! 血の気の多い隊長に任せっきりにしていたら心配だからな。残りの隊士たちも連れて来たぞ。俺たちがここで足止めをしている間に、シュヴルーズ公爵夫人を逃がすんだ!」


「分かった!」


 仲間の増援に元気づけられたイグナシオは、長剣を振るって銃士一人、護衛隊の隊士二人に傷を負わせ、ヴァンドーム公(アンリ四世の庶子)の屋敷を目指した。今頃、ロワイヤル広場の隠れ家も襲撃されているはずだ。シュヴルーズ公爵夫人と気脈を通じているヴァンドーム公父子を頼るしかない。


「シュヴルーズ公爵夫人! 今度こそは、お前を逃がさない!」


 アルマンが、イグナシオとシュヴルーズ公爵夫人の前に立ちはだかった。こんな非常時だというのに、アルマンの顔を見たシュヴルーズ公爵夫人は「まあ、アルマン! あなた、生きていたのね! 久し振り!」と笑った。


「お願いよぉ~、アルマン。前みたいに私を見逃してちょうだい。私とあなたの仲じゃないの」


「断る。俺が愛したのは、マリー・ミッションと名乗っていた昔の恋人だ。そして、マリー・ミッションは俺の心の中ですでに死んだ。いま目の前にいるのは、男を狂わす妖婦にすぎん」


 アルマンはそう言い放ち、剣を突き出した。イグナシオが左手の短剣でそれを防ぐ。


 シュヴルーズ公爵夫人は、宮廷から追放されて他国に逃れた後も、何度もパリに潜入して陰謀を巡らした。その頃に使っていた偽名がマリー・ミッションという名だった。

 アルマンはその正体を知らずに、マリー・ミッションと名乗る年上の彼女と出会って恋をし、リシュリューに迫害されて追われているのだというマリーをパリから逃がそうとした。しかし、途中で彼女がフランスの敵シュヴルーズ公爵夫人なのではという疑念を持ち、悩んだ末に殺そうとした。


「……あの時、迷わずに殺しておくべきだった。俺は、『私を信じて。私はシュヴルーズ公爵夫人などという人ではない。そんな女、知らない』というお前の言葉にだまされ、お前を逃してしまった。その後、マリー・ミッションはシュヴルーズ公爵夫人の偽名だったことが判明し、俺は陛下の叱責を受け、一時期、銃士隊を除籍されていたのだ」


「でも、私を愛していたことは事実でしょ。銃士としての使命よりも、私への愛を選んでよ」


「銃士隊に復帰するために、親友のシャルルは俺に惜しみない協力をしてくれた。俺がこの世で最も重んじるものは、女への愛ではなく友への義だ。今度お前を見逃せば、銃士に復帰する機会を与えてくれた友の友情を裏切ることになる。悪いが、ここで死んでもらう!」


「そういうわけにはいかないのよ!」


 シュヴルーズ公爵夫人は後ろ手に隠していた拳銃をアルマンに向け、ダーン! と銃を撃った。

 当てる気はなかったらしく、弾丸はアルマンから大きく外れたが、アルマンの隙を作るには十分だった。イグナシオが、一瞬怯んだアルマンに激しく打ちかかり、シュヴルーズ公爵夫人はその間に数人のベンガンサ隊士に守られて混戦状態のポン・ヌフ橋前から離脱することに成功したのである。








 その翌日。

 パリ市内で、新王ルイ十四世のお披露目が行われた。


「新王、万歳! ルイ十四世陛下、万歳!」


 パリの青空に響き渡る市民たちの熱狂の声と拍手を幼いルイ十四世はその小さな体に浴び、ぼう然としていた。まだ王としての自覚がない将来の太陽王は、父の死をいたむ暇すら与えられず、ついに歴史の表舞台に立ったのである。


 新王のお披露目が終わると、太后たいこう(前の国王の妻)となったアンヌは誰も予想すらしなかった行動を起こした。銃士隊長トレヴィルに護衛を命じ、ルイ十四世を連れてパリ高等法院に赴き、


「先王陛下の遺言をなかったことにしてください」


 と、大法官ピエール・セギエに驚くべき要求をしたのである。


 先王ルイ十三世の遺言――国家の重要方針は摂政会議の多数決で決定し、摂政のアンヌの発言力は大きく制限するという国王最後の命令を破棄しろと迫ったのだ。


(馬鹿な。先王陛下が亡くなって、たった一日だぞ……)


 フランスの司法機関の頂点に立つ高等法院の法服貴族たちは、王母のなりふりかまわぬ要求に驚きどころか恐怖まで感じ、慄然りつぜんとした。アンヌのそばにいた侍女のシャルロットやオートフォール、そして、護衛のトレヴィルも同様である。


 しかし、さらに驚愕したのは、


「いいでしょう。高等法院は、先王陛下のご遺言を破棄いたします」


 と、大法官ピエール・セギエは、アンヌの要求をあっさりと認めてしまったことだ。


 これで、アンヌは摂政としての権限を最大限に利用して国政を思うがままにできるようになったのである。


「だ、大法官! それでよろしいのですか? 亡きリシュリュー枢機卿にフランスの法を守るよう託されたあなたが、そんな……」


 リシュリューと親しかった一人の顧問官がそう言いかけたのをピエール・セギエは手で制し、


わしを大法官に任じてくれたリシュリュー枢機卿の恩は忘れていない。だが、これは、リシュリュー枢機卿の後継者たるマザラン枢機卿からの頼みでもあるのだ」


「は……?」


 次から次へと起こる予想外な展開についについていけなくなった高等法院の貴族たちは、馬鹿みたいに口をあんぐりと開けて、呆けたようになった。


 その時、赤い僧衣の男が高等法院に姿を現したのである。


「大法官ピエール・セギエ殿、ご協力感謝します」


「ま、マザラン枢機卿!」


 彼を憎むトレヴィルが、目をクワッと見開き、そう叫んだ。


 トレヴィルや他の法服貴族たちの驚きを尻目に、マザランは親しげにアンヌ太后の横に立った。アンヌは柔らかい笑みをマザランに向けた後、人々を見回して最後の爆弾発言を口にしたのである。


「私、摂政アンヌ・ドートリッシュは、マザラン枢機卿をフランスの宰相に任命しようと思います」


 あれだけリシュリューと対立していたアンヌが、リシュリューの後継者のマザランと手を組んだ――その衝撃的な情報は、瞬く間にパリどころか国中に広まり、フランスを震撼させたのであった。そして、最も衝撃を受けていたのはトレヴィルである。


(シュヴルーズ公爵夫人を襲った時、犬猿の仲の我ら銃士隊と枢機卿の護衛隊がなぜ共同作戦をやらされたのかと不思議に思っていたが……。太后様とマザランは、密かに通じ合っていたのか⁉ しかも、あの二人の親密そうな様子……ただならぬ。だ、男女の関係なのではないのか……?)








 摂政アンヌ、マザランを宰相に任ず。


 これは、今までアンヌを助けてきた要人派の貴族たちにとって、怒りのあまり狂乱してしまいそうなほどの裏切り行為だった。


 要人派は、共にリシュリューを打倒しようと誓い合ったアンヌの同志だったはずだ。それなのに、アンヌは王母となるや態度を一変し、マザランを宰相にしたのである。



 ――リシュリューは死んだのではない。若返り、姿を変え、今もフランスに君臨しているのだ。



 人々はそう囁き合った。

 また、アンヌとマザランは以前から男女の仲だったのだという噂までパリ市内で流れ始め、口の悪いパリ市民たちは、


「王母様は、イタリア人の宰相の囲い者なんだってよ」


 と、面白半分でそんな陰口を叩いていた。


 意外なことに、まだこの時点では、よそ者が嫌いなパリ市民たちはそこまでマザランを嫌悪しておらず、悪魔みたいに恐ろしかったリシュリューとは違って腰が低くて剽軽ひょうきんなマザランのことを、


「まんまと先王陛下から王妃様を寝取った女たらしのイタリア人」


 と呼び、小馬鹿にする程度だったのである。


 だが、要人派の重鎮ヴァンドーム公の屋敷に潜伏しているシュヴルーズ公爵夫人は、体中の穴という穴から血を噴き出さんばかりに激怒していた。


「……裏切った。アンヌは、最初から私を裏切るつもりだったんだ。私を騙しておびき出し、銃士隊と護衛隊に私を殺させようとしたのは、アンヌ……あなただったのね。

 ふ、ふふふ……。うふふ……。馬鹿ねぇ、アンヌ。私は、あなたのために自分の復讐心を忘れようと思っていたのよ……。でも、こうなったら、おしまい。私は、私を裏切った者を絶対に許さない。息子であるルイ十四世を殺して、あなたに最大の絶望を味わわせてあげる」


 シュヴルーズ公爵夫人の消えかけていた復讐の炎は復活し、さらに激しく燃え上がった。


 彼女が、親友のアンヌが我が子の亡骸に泣きすがる姿を想像しながら新たな陰謀を企んでいる頃――フランス領とスペイン領ネーデルラントの国境では未曾有の決戦が始まろうとしていた。世に言う「ロクロワの戦い」である。その戦場に、シャルル・ダルタニャンは今いる。

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