27 アンヌ・ドートリッシュのクーデター(前編)

 シャルルが戦地ロクロワに向かったという噂は、すぐにシャルロットの耳にも伝わった。


「はぁ……。シャルルさんが戦場に行っちゃった……。あんなふうな最悪の別れかたをして、シャルルさんが二度とパリに帰って来なかったら私……」


「ねえ、ねえ。そんな部屋の隅に座りこんじゃってどうしたのよ。シャルルって、あの銃士隊のシャルル・ダルタニャン? もしかして、シャルロットはシャルル・ダルタニャンが好きなの? ホの字なの?」


 シャルロットが落ちこんでいると、マドモワゼルがニヤニヤと笑いながら話しかけてきた。

 シャルロットはゆっくりと顔を上げて「マドモワゼル……。どうしてここにいらっしゃるのですか? ここは侍女の控室ですよ?」とたずねる。


「いたら悪い? 恋の話があるところにマドモワゼルあり、よ。恋について悩んでいるのなら、私がとっておきの助言をしてあげるわ。だから、もうそんなに落ちこむのはやめなさい」


 五歳児に結婚を迫って追いかけ回しているマドモワゼルにまともな恋の助言なんてできるとは思えない……。そう考えたシャルロットは、「いえ、別にけっこうです」と答えた。


 しかし、他人の話を基本的に聞かないマドモワゼルは「よし! いいわ! 私の恋の助言をよーく聞くのよ?」と勝手にペラペラと喋りだした。


「男なんてねぇ、既成事実を作って『責任取ってよ!』と迫ってやれば、簡単に手に入るものなのよ! 世話係の婆やがそう言ってたもの!」


「き、既成事実⁉」


「酒で酔わせてベッドに連れ込むなり、媚薬を手に入れるなり、色々と手段はあるんだって! これも婆やが言ってた!」


「びびびび媚薬⁉」


「でも、私が狙っている王太子様はまだお子ちゃまだからねぇ~。婆やは『王太子様が精通したらすかさず襲いなされ』とか言ってたけど……。男って何歳ごろから赤ちゃんの種がびゅっびゅって出るようになるのかしら? ねえ、シャルロットは知ってる?」


「せ、精通……。すみません、マドモワゼル。ちょっと頭が痛くなってきたので、少し休ませてください……」


 その婆やは絶対にお姫様のお世話係に向いていない。そう思いつつ、シャルロットは頭をおさえながらよろよろと立ち上がった。本当に頭痛がしてきたので、ベッドに横になろうと思ったのである。


 しかし、シャルロットがベッドで休憩することはできなかった。オートーフォールが血相を変えて部屋に入って来て、


「シャルロット! 大変よ! 急いで国王陛下の寝室に来て手を貸してちょうだい!」


 と、いつも落ち着いている彼女らしからぬ取り乱した声でそう言ったのである。


「え⁉ 何かあったのですか⁉」


「陛下の容態が急変したの! ひどく苦しんでいる! 医者の診立てによると、もう長くないそうよ! ……とにかく急いで!」








 ルイ十三世は、妻であるアンヌ・ドートリッシュとの愛を回復させぬまま、四十一歳で天に召された。一六四三年五月十四日のことである。奇しくも、その日は父アンリ四世の命日だった。


 死の前、このブルボン朝二代目の国王はアンヌを摂政せっしょう、王弟オルレアン公ガストンを王国総代官(軍事の最高責任者)に任じた。ただし、摂政の権限には大きな制限がもうけられた。


「国家の重要方針は、重臣たちで組織される摂政会議において多数決で決めること。摂政であるアンヌの会議における投票の効力は、他の重臣たちと同じく一票とする。また、摂政は、この摂政会議に出席する重臣たちの顔ぶれを変えてはならぬ」


 つまり、アンヌは独断で何も決められないようにされたのだ。

 ルイ十三世は、スペイン王と内密に手紙のやり取りをし、その他多くの陰謀にも関わってきたアンヌがフランスの国母としての役目を十分に果たせるはずがないと考えていたのである。


 アンヌは病床のルイ十三世に泣きついたが、国王の決意は変わらなかった。夫は妻を最期まで白眼視し、妻は夫の所業を恨んだ。国王夫妻の悲しい結末だった。


「最後に……あの女、シュヴルーズ公爵夫人だけは二度と宮廷に復帰させるな」


 ルイ十三世は王妃にそう言い残すと、ついに力尽きて倒れ、危篤状態になった。数時間に渡ってベッドの上でのたうち回った後、午後二時に国王は全ての苦しみから解放された。


「死んだ……。王が、死んだ……!」


 夫の死を見届けたアンヌは、ルイ十三世のむくろの前でへなへなと膝をつき、大きく息を吐いた。


 不仲ではあっても長年連れ添った夫を亡くしたのだ。茫然自失となって目眩めまいを起こしたのかと心配したシャルロットとオートフォールが、「王妃様!」と叫びながらアンヌに駈け寄った。しかし、アンヌは、


「……もう王妃ではありません。私は、新しい王の母にして摂政アンヌ・ドートリッシュ」


 解放感に満ち溢れた力強い声でそう言い、シャルロットとオートフォールの腕をつかんで立ち上がった。そして、二人にこう命令したのである。


「即刻、皇太子を国王に即位させます。そして、やるべきことが他にもある……。こんな所でいつまでもぼんやりしている場合ではありません。今すぐ、パリに戻ります。馬車の準備をして!」


 シャルロットとオートフォール、王の死に立ち会ったオルレアン公、マドモワゼルらは驚愕きょうがくした。こんなにもヒステリックなアンヌの声を聞いたのは初めてだったのである。


「シャルロット、あなたは銃士隊の詰め所にいるトレヴィルに私の指示を伝えるのです」


「は、はい。どのような指示を……」


 アンヌの豹変ひょうへんに戸惑いながらシャルロットがうなずくと、アンヌはシャルロットの耳に口を寄せ、「シュヴルーズ公爵夫人を殺しなさい、と伝えて」とささやいた。シャルロットはギョッとしてアンヌを見つめる。


(あの女だけは生かしておいたら危険だ。夫が死んだ今、彼女の復讐の相手は、私の息子ルイ十四世になる。復讐心に囚われたシュヴルーズ公爵夫人は、躊躇ちゅうちょなく親友の子を破滅させる陰謀を巡らすだろう……)


 そう考え、アンヌはシャルロットに詳しい作戦を伝えるのであった。








 ルイ十三世の死は、その日の日没までにシュヴルーズ公爵夫人の耳に入った。アンヌが遣わした使者が、シュヴルーズ公爵夫人の隠れ家を訪れ、「国王死す」の報を知らせたのである。


 その使者の話によると、「今後のことを今夜話し合いたいから、ヴァル・ド・グラース修道院にまた来て欲しい」とのことだった。


「アンヌが呼んでいる。急がなくては。……イグナシオ。国王の死を知ったマザランが私の動きに警戒しているはずだから、今夜は警護の数を少し増やしてちょうだい」


 シュヴルーズ公爵夫人は、ベンガンサ隊の隊長イグナシオにそう命令し、身支度を慌ただしく整えた。服を着替えている間、手が若干震えていた。


(ついに……ついに……あの憎い男が死んだ……!)


 不覚にも、シュヴルーズ公爵夫人は、ルイ十三世の死に満足して、自分の復讐の人生を終わらせてもいいのではと思いかけていた。


 アンヌの想像とは少し違い、彼女にも人間的な感情がまだ残っていたのである。シャルロットに言われたことをわずかに気にしていたのだ。自分は親友の子を傷つけるのか。それではアンヌとの友情が破たんするのでは……。


(ブルボン王家の息の根を止めることは諦めて、摂政となったアンヌと要人派たちを後ろから操り、私がフランスの宮廷を牛耳る……。それで満足することにしようか。そうすれば、マザランたちリシュリューの残党どもを後々始末することができる。私は、アンヌの実家であるスペイン・ハプスブルク家との和平が実現するように尽力すればいいのだ。それなら、アンヌも喜んでくれるはず……)


 そうなると、パリで政変を起こす手助けをするためにフランシスコ・デ・メロが護衛としてつけてくれたイグナシオたちベンガンサ隊が邪魔になってくる。彼らは、シュヴルーズ公爵夫人が「政変を起こすことは諦めた」と言い出したら、激怒して何をするか分からない。場合によっては、シュヴルーズ公爵夫人を殺すだろう。


(イグナシオたちの始末はおいおい考えるとして、今は私の護衛をさせておこう)


 そう考え、シュヴルーズ公爵夫人はロワイヤル広場の隠れ家を夜の八時に出て、イグナシオらベンガンサ隊十五人に守られながらヴァル・ド・グラース修道院に向かった。


 しかし、セーヌ川の南に渡ろうとした時、思わぬ待ち伏せにあったのである。


「シュヴルーズ公爵夫人。ポン・ヌフ橋の前に、赤いカザック外套がいとうを着た者たちが三十数人います」


 イグナシオが、馬車の中のシュヴルーズ公爵夫人にそう告げた。赤のカザック外套と聞き、


(リシュリュー枢機卿すうききょうの護衛隊たちだ。護衛隊の隊士たちは、リシュリューの死後、マザランの部下になったらしい。私とアンヌが今夜密会することが、漏れてしまったのか)


 すぐにそう判断した。そして、迷うことなく「蹴散らして、進んで」と命令したのである。


 護衛隊は、リシュリューが揃えた勇猛な剣士たちで組織され、国王の近衛銃士隊と劣らぬほどの強さを誇っていた。しかし、今はどうだろう。自分たちのあるじが、恩義のあるリシュリューからよそ者のイタリア人になり、まだ日が浅い。新しいあるじに対する忠誠心がまだつちかわれていない時期のはずだ。数ではこちらが不利だが、スペインで最強の隠密部隊ベンガンサ隊ならば今の護衛隊を蹴散らすことは可能に違いない。シュヴルーズ公爵夫人はそう考えたのである。


「後方から、剣を持った奴らが来ます! こちらも、およそ三十数人!」


 馬車の後ろを守っていたベンガンサ隊の隊士の一人が、イグナシオにそう報告した。


「チッ、挟み撃ちにされたか。……む? あの銀十字と青色のカザック外套は、近衛銃士隊ではないか!」


「な、何ですって⁉ 国王は死んだのに、王直属の銃士隊が誰の命令で動いているというのよ!」


 さすがのシュヴルーズ公爵夫人も狼狽ろうばいしてそう叫び、馬車から顔を出した。


「シュヴルーズ公爵夫人! ここが貴様の墓場だ!」


 地を裂くかのごとき猛々しいあの声は、銃士隊長トレヴィル!


「わ、分からない! なぜ、銃士隊と護衛隊が共同戦線を張っているの⁉ 彼らは犬猿の仲だったはずよ……⁉」

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