26 コンスタンス
国王の寝室から退出した後、シャルルは思いつめた表情をしながら、夕焼けの赤々とした光が差し込む宮殿の廊下を一人歩いていた。
二、三人の銃士とすれ違ったが、シャルルがあまりにも恐い顔をしていたため、誰も声をかけることができなかった。
(フランスを守るためならば、誰と手を組んでもいい。王家に仇なす者は誰であっても許すな……)
ルイ十三世がシャルルに与えた最後の命令は、あらゆる可能性を有するものだった。誰と手を組んでもよいということは、たとえば、銃士隊の敵だったリシュリューの後継者マザランとも、場合によっては共同戦線を張ることになるということだ。
そして、トレヴィル指揮下の銃士隊がブルボン王家に反する行動を取った場合、シャルルは銃士の身分を捨ててでも幼き新王の元にはせ参じなければならない。その時、シャルルは親友である三銃士たちとも敵味方となるだろう。
国王は、それら全ての決断をシャルル一人がして、実行に移せと言うのだ。それは、シャルルに対するルイ十三世の信頼の大きさの証と言えたが――。
(誰がブルボン王家の敵で味方か……。俺がわずかでも判断を誤れば、陛下の期待を裏切ることになる。そして、友人たちとの絆が永遠に断たれてしまう可能性もあるのだ……)
これほど責任が重くのしかかり、気の重い任務は初めてだとシャルルは
「待て、シャルロット! 俺はそういうことが言いたいわけではない! 誤解だ!」
銃士隊の詰め所の近くまで来た時、不意にアルマンの声が聞こえ、シャルルは顔を上げた。
ダン! と扉が乱暴に開け放たれる音。
何事だとシャルルが思っていると、部屋からシャルロットが飛び出して来た。うつむいて走っていたシャルロットは、シャルルの胸にぶつかった。シャルルは、よろめいて後ろに倒れそうになったシャルロットの左手をつかんでぐいっと引っ張り、抱き寄せるようにしてその
「し、シャルルさん……」
「危ないじゃないか、シャルロット。気をつけろ」
「…………」
シャルロットは身をよじるようにしてシャルルから離れ、顔を背けた。シャルロットから拒絶の意思を感じ、シャルルは(いったい、どうしたんだ?)と不審に思う。
「すまない、シャルル。コンスタンスのことをシャルロットに話したのだが……誤解を生んでしまったようだ」
部屋からアルマンも出て来て、シャルルにそう言って
「誤解でも何でもないです。シャルルさんは、コンスタンスさんのことが好きだったんですよね? でも、コンスタンスさんはサン=マール侯爵の陰謀に巻きこまれて死んでしまった。シャルルさんはコンスタンスさんのことを助けられなかったことを悔いて、コンスタンスさんと境遇が似ている私に今まで親切にしてくれていた……。
私は、コンスタンスさんの身代わりだったんです。コンスタンスさんがトレヴィル隊長の私生児(婚姻関係にない男女の間に生まれた子供)として生まれたことで苦しんでいたように、私もバッキンガム公爵の私生児だったから……。
私のことを……私のことを好きだから、シャルルさんは私に優しくしてくれていると思っていたのに……。勝手に勘違いしていた私が馬鹿みたい……」
「シャルロット。俺はそんな話がしたくて、コンスタンスのことを話したのでは……」
アルマンはそこまで言い、言葉を詰まらせた。
コンスタンスを失ってからのシャルルは、彼女を死なせてしまったことへの自責の念に苦しみ、今でも悪夢にうなされている。
心の強い少女であるシャルロットなら、シャルルを悲しみの淵から救い出してくれるのではと思い、コンスタンスの話をしたのだが……。
どうやらシャルロットは、アルマンが話の流れで何となく語った「コンスタンスは、トレヴィルの私生児だった」という彼女の出生の秘密に敏感に反応してしまったようである。
シャルルは、同じくバッキンガム公爵の私生児という境遇のシャルロットをコンスタンスと重ね合わせ、死んだ恋人を助けることができなかったことへの代償行為としてシャルロットに優しくしているのだ――と解釈してしまったのである。
シャルルがトレヴィルに「この娘のことが放っておけない」と言ったのも、シャルロットがシャルルにとって特別な女の子だったというわけではなく、シャルロットの背後にコンスタンスの亡霊を見ていただけなのだ。私生児だということに同情していただけなんだ……と。
シャルロットは、正式な夫婦関係にない男女の間に生まれた自分の境涯を卑しいと思っているわけではない。
――絶対にそんなふうに考えないで。私はこの世のどんな親よりも深い愛情を注いであなたを育てたのだから、誇りを持って生きて欲しい。
と、母リゼットに幼い時からずっとそう言われてきた。
だが、心ない人々の陰口によって負わされた心の傷は簡単に癒えるものではない。それは、少し触れたらズキンと痛む
アルマンは、彼女にとって「私生児」という言葉が禁句だったということに、ここでようやく気がついた。
(俺は、シャルルのことばかり心配していて、シャルロットに対する配慮を怠ってしまったようだ。彼女の繊細な部分に触れてしまった俺の過ちだ……)
さっきトレヴィルと衝突した時もそうであったが、アルマンは剣だけでなく言葉も真っ直ぐすぎる。思ったことや事実をありのまま、遠慮せずに話してしまう。相手に配慮すべき内容も、言葉巧みに柔らかい表現で……ということができない不器用な男だ。こういう繊細さを要する話はアンリに任せるべきだったと今さら後悔し、何と言ってシャルロットをなだめたらいいものやらと悩んでいた。
「勘ちがいをするな、シャルロット」
そう言ったのは、アルマンではなく、シャルルだった。
シャルルは、シャルロットと話す時は、故郷の妹と会話しているような穏やかでくつろいだ話し方にいつもならなるのだが、折悪く大きな悩み事を抱えている最中だったため、その言葉には若干の暗さがあった。
その変化が、シャルロットには、シャルルが自分に対して苛立っているのだと感じ取れた。
「お前に、コンスタンスの代わりなんてできるはずがない。コンスタンスは、この世に一人しかいない女性だった。死んだ人間は戻らない。同じように、シャルロットも――」
「そうです! 私には、コンスタンスさんの身代わりなんてできません! だって、シャルルさんは今でも死んだあの人のことが好きなのでしょう⁉」
「お、おい、シャルロット! 話は最後まで聞け!」
いくら賢くても、まだ十五歳の娘である。勝手に惚れて、勝手に失恋してしまったと思っているシャルロットは、悲しみのあまり自暴自棄になっている。シャルルの制止を振り切り、走り去ってしまった。
「悪い、シャルル。俺が余計なことをしたせいで……」
「気にするな、アルマン。シャルロットはまだ子供なんだ。だから、ああやって一度思いこんだら突っ走ってしまうんだよ」
「いいや、シャルロットはもう大人だよ。あんまり子供扱いするのは失礼だぞ。……突っ走ってしまう癖があるのは俺も一緒だからな。死に急ぐような戦い方をしてしまう俺を毎度助けてくれたのはお前だ。シャルロットにも、自ら危険に飛び込んでしまうような危うさがある。彼女には、お前みたいな男が必要なんだと俺は思うぜ」
「コンスタンスとシャルロットの境遇が似ていると思ったのは、たしかだ。でも、彼女はコンスタンスじゃない。シャルロットという独立した人間だ。シャルロットをコンスタンスの代わりにして、自分の心の傷を癒そうなどと俺は考えたことはない。
……それに、コンスタンスが俺の心に残した傷は、俺が生涯背負うべきものだ。それが、コンスタンスを死なせてしまった自分への罰なんだ」
「それでは悲しすぎる。お前が、一生幸せになれないじゃないか」
「コンスタンスは、死ぬまでの間に小さな幸福すら得られなかった。彼女は、本当は俺ではなく、俺の兄ポール・ダルタニャンが好きだったことはアルマンも知っているだろ。
でも、俺の兄とは結ばれず、私生児ゆえに家庭内での孤立にも苦しむようになった。トレヴィル隊長が正式な妻を
シャルルは、いつも孤独の影を背負っていた彼女に思いをはせ、深々とため息をつく。
たしか、コンスタンスの生母は身分の低い女性で貴族のトレヴィルとは結婚ができず、トレヴィルが銃士隊に入隊する前に亡くなったという話だ。だから、幼い頃に母を失ったコンスタンスは、母親の愛情を知らずに育った。
「いたたまれなくなったコンスタンスは、サン=マール一派の貴族に嫁いだ。トレヴィル隊長がサン=マール一派と結びつくための政略結婚だった。
……しかし、サン=マール一派のスペインとの密約にアンヌ王妃が関わっていることを知ったコンスタンスは、王妃様をその陰謀から手を切らせ、『王妃様からの使者として、リシュリュー枢機卿の元に赴いて、サン=マール一派とスペインが交わした密約書の写しを届けて欲しい』と俺に頼んだ。そうすることで、王妃様と銃士隊はクーデターを未然に防いだ功労者となり、実際は陰謀に関わっていた王妃様やトレヴィル隊長がお
だが、その後、コンスタンスを待っていた運命は、妻の裏切りに怒り狂った夫によって
コンスタンスを撲殺したサン=マール派の貴族を怒りに身を任せて八つ裂きにした時の記憶が蘇り、シャルルはぶるぶると拳を震わせる。アルマンはシャルルの手を握り、「彼女の死は、お前のせいじゃない」と慰めた。
「シャルルは、できるだけのことをやった。コンスタンスの願いを叶えてやり、彼女が大切に思っていた王妃様とトレヴィル隊長を救ったじゃないか。コンスタンスの死をトレヴィル隊長が恨みに思うのは、間違っている。お前は責められるべきことは何もしていない。だから、もう自分を追いつめるな。お前は幸せになっていいんだ」
アルマンは涙をこらえながらそう言い、シャルルの肩をつかんで乱暴に揺すった。
「アルマンは、いつも真っ直ぐだな。何事も本音しか言わないお前にそう言ってもらえると、少しだけ救われた気持ちになるよ。……お前とはずっと友達でいたい。アンリやイザックとも……」
「何を言っている。当たり前じゃないか。俺たち四人はどんなことがあっても仲間だ」
シャルルは「ああ。そうだな……」と言って微笑むと、引き締まった顔に戻り、「俺は、明日の朝、パリを発つよ」と告げた。
「俺がパリにいない間、シャルロットのことを頼む。……俺だって、あいつの好意ぐらい分かっていたさ。でも、お前が言った通り、少し子供扱いしていたかも知れない。戦場から生きて帰ることができたら、シャルロットに謝るよ」
「ああ、そうしろ」
シャルルとアルマンは固く握手を交わし、抱き合うと、再会を誓って別れた。
こうして、シャルル・ダルタニャンは、運命の決戦の地ロクロワへと向かうのであった。
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