30 ロクロワの奇跡

 夜が明け、五月十九日となった。

 決戦の日の朝、フランス軍総大将アンギャン公は、危うく寝坊しそうになった。


 天才の余裕、もしくは傲慢というべきか、アンギャン公は戦いの心配などちっともせずに熟睡していて、開戦直前にガッシオン元帥げんすいに叩き起こされたのである。


「アンギャン公! いつまで寝ているのだ! 戦争だ、戦争が始まるぞ! 一刻も早く将兵たちに突撃の命令を下すのだ!」


「戦争」の異名をとる根っからの戦好きのガッシオンが、アンギャン公の耳元でそう怒鳴ると、若き将軍は顔をしかめて寝床からい出た。


「私に指図をするな、ガッシオン元帥。軍の総帥は、この私なのだ。あなたは、私の巧妙なる戦ぶりを黙って見ておればよい」


(このクソガキめが……!)


 気性の荒いガッシオンは、アンギャン公を張り倒してやりたい気持ちを必死におさえ、自分の部隊に戻った。


「さて……。このロクロワの地で、我が武名をとどろかせることにしよう」


 ようやく戦支度を整えて軍馬にまたがったアンギャン公は、余裕の笑みを崩さぬままそう言うと、鞭で馬の尻を叩き、川を挟んで対峙しているスペイン軍左翼めがけて突撃した。


「ああ、くそっ! あの若造、いきなり前に出過ぎだ! 仕方ない、アンギャン公に続け!」


 ガッシオン率いるフランス軍右翼の部隊もアンギャン公を追いかけ、敵軍に迫る。


 スペイン軍左翼は、三十段構えの長槍兵を前に押し出し、アンギャン公とガッシオンの突撃を防ごうと待ち構えた。この長槍兵の密集陣形で防御しつつ弓兵・銃兵で攻撃を狙う軍事編成こそ、スペイン軍が得意とする「テルシオ」である。この縦に長い長槍の鉄壁の守りを崩すことは非常に困難だった。


「マスケット銃兵、前へ!」


 ガッシオンがそう号令すると、指揮下のシャルル・ダルタニャンたちマスケット銃兵が、携帯していた支え棒を地面に突き刺し、重い砲身をその棒で支えて固定した。そして、一斉に発砲し、ロクロワの戦場に轟音が響き渡った。


 マスケット銃は、砲身が重くて扱いが難しいうえに命中率が悪い。だが、その欠点を補って余りあるほど、破壊力と飛距離が凄かった。マスケット銃は、重量のある弾丸を用い、よく飛ぶ。当たれば一撃必殺、防御力の高い陣形であろうと、その鉄の壁を粉砕する威力があったのである。


「撃て! 撃て! 撃てーっ!」


 ガッシオンが怒鳴り散らし、マスケット銃兵たちは槍隊に守られながら一斉射撃を続ける。

 一列目の兵が撃ち、二列目がさっと入れ替わってすぐに発砲、さらに三列目が前に出て撃つ。かつて仕えたスウェーデン王グスタフ・アドルフの戦法で、ガッシオンは旧主君の戦法を受け継いでいたのである。


 嵐のごときマスケット銃の射撃が続き、スペインの長槍兵がバタバタとたおれていく。いくら命中率が悪くても、これだけ大量に撃てば、相当な数の弾丸が当たるのだ。その中の一発――シャルルが撃った弾丸が、テルシオの長槍兵を指揮していた将軍に命中し、落馬した。


「おお、あれはシャルルが撃った弾か。さすがは銃士隊の古参だな。よし、敵軍がひるんだ今こそ勝負の時だ。突撃ぃーっ!」


 ガッシオンがそう叫んだ。

 だが、それよりもわずかに早くアンギャン公の騎兵隊が前に出て、ガッシオンの騎兵隊はアンギャン公に続くかたちでスペイン軍の左翼に攻めかかった。


 アンギャン公とガッシオンの騎兵隊による疾風怒濤の突撃が、マスケット銃の弾丸の雨で弱っていたスペイン軍の長槍兵に襲いかかる。難攻不落と呼ばれていた鉄壁の陣形は、あっけなく崩れ、アンギャン公はスペイン軍左翼をついに突破した。


 これを見ていたフランス軍の中央の歩兵部隊も、突撃した。


 しかし、スペイン軍も必死である。総大将フランシスコ・デ・メロは兵を巧みに動かし、フランス軍の歩兵部隊を退けたのである。シャルルの兄ポールとジャンは、命からがら敗走した。


 さらに、フランス軍の左翼がスペイン軍右翼に猛攻をかけたが、またもや撃退され、今度はフランス側が窮地に陥った。


「ガッシオン元帥。スペイン軍左翼の敗残兵たちの後始末は君に任せた。私は、敵陣中央を背後から攻撃する」


 敵の左翼を突き破ったアンギャン公はその勢いを維持したまま、ぐるりと方向を転換させ、スペイン軍中央へと突き進んだ。


 アンギャン公に背中から斬りつけられたかたちになったフランシスコは、この豪胆な戦術に驚き、対処しきれずに陣形を乱してしまった。


 敵陣中央を蹂躙じゅうりんしてさらに勢いに乗ったアンギャン公の騎兵隊は、フランス軍左翼の部隊と挟撃してスペイン軍の右翼までも撃破したのであった。


 スペイン軍は、体のあちこちをアンギャン公の鋭い攻撃によって串刺しにされ、総崩れとなった。


 フランシスコは、かつてない大敗北に衝撃を受けつつ、敗走した。彼は、この戦いでの敗北により、自身が恐れていた通りスペイン王に見限られて左遷されることになる。


 そして、スペイン軍の中央の歩兵隊だけが、戦場に取り残された。


 アンギャン公は完全なる勝利を得るべく騎兵隊を突撃させて、この敵軍の残党をひねり潰そうとしたが、追いつめられたことで逆に奮起したスペイン兵たちは密集陣形で予想外の激しい抵抗をし、二度もフランス軍の攻撃を退けた。


「このまま力押しをしても、我が軍の損害が大きくなるだけだな。大砲だ、大砲で奴らを蹴散らせ」


 スペイン軍の決死の奮闘ぶりを見たアンギャン公は柔軟に作戦を変え、大砲の一斉射撃を命じた。


 四方八方から飛来する砲弾は、テルシオの陣形をズタズタにし、ほんの一瞬でスペイン人の死体の山を築き上げた。今度こそ戦意をなくしたスペイン兵たちは降伏を申し出て、若き将軍アンギャン公の膝の前に屈したのである。


 このロクロワの戦いは、ヨーロッパ大陸の広大な領地と世界中の植民地を有した「太陽の沈まぬ国」スペイン帝国に決定的な大打撃を与えた。そして、すでに衰えを見せつつあった帝国の弱体化を加速させることになるのである。








 輝かしい勝利を手にしたアンギャン公は、さらにスペイン軍を追いつめようと国境付近で軍の再編を行なった。

 その麾下きかにあるガッシオン元帥たちも闘志を燃やし、その他の地域に駐屯している将軍たちもアンギャン公に続いて我らもスペイン軍を撃退してみせると息巻いていた。


 だが、間もなくして、そんな彼らの元に届いたのは、ルイ十三世崩御の報せである。アンギャン公の陣にその報せをもたらしたのは、マザラン枢機卿すうききょうの伝令となっていた元銃士のフランソワだった。


 シャルルもフランソワの口から王の死を直接知らされ、目の前が真っ暗になりそうなほどの衝撃を受けた。覚悟しなければいけないとは思っていたが、ルイ十三世と共に歩んだ十年こそがシャルルのかけがえのない青春だったのである。魂の半分をむしり取られたような喪失感をシャルルは味わった。


「シャルル。気持ちは分かるが、悲しんでばかりはいられないぞ。お前には、今すぐパリに帰還するようにとの命令が下っている。俺と一緒にパリに戻ろう」


「待て、フランソワ。その命令とは、誰が下したものだ。マザラン枢機卿か? 俺は、マザラン枢機卿の家来になった覚えはないぞ」


「これはマザラン枢機卿の命令でもあるが、同時にアンヌ太后の命令でもある。お二人は、今や一心同体だ」


「何? それは、一体どういうことだ?」


 戸惑うシャルルに、フランソワは、アンヌがルイ十三世の死の直後に起こしたクーデターについて事細かく伝えた。


「な、何だと⁉ 摂政となったアンヌ様は、おのれが権力を得るために、先王陛下の遺言を破棄したというのか! しかも、マザラン枢機卿を宰相に……!」


 シャルルは、王母アンヌに対して憤慨した。また、アンヌがマザランと手を組んだという意外な事実に驚き、大いに取り乱した。


 先王ルイ十三世と前宰相リシュリューが二頭政治を行なったように、アンヌはマザランと新たな二頭政治をするつもりなのだろうか。


「アンヌ太后は、これまで一度も国政に関わったことがなかった。当然、政治の知識が皆無だ。だから、マザラン枢機卿の助けを借りてフランスを治めていこうとしているのだ」


「アンヌ太后が、フランスを治めるだと? 馬鹿な! あのお方は、我が国を愛していない。故郷のスペインのことばかり考えているのだぞ」


「太后様はお変わりになった。我が子である新王ルイ十四世陛下を盛り立てていくお覚悟を重臣たちの前ではっきりと公言された。ブルボン王家の繁栄のためならば、このままスペインとの戦争を続行するべきだとまでおっしゃっている。和議を結ぶのは、フランスが有利な条件で条約を締結ていけつできるようになった時だけだと……」


「そんな話、にわかには信じられぬ」


「とにかく、パリに戻るんだ、シャルル。パリでは、太后様とマザラン枢機卿に反発する要人派が不穏な動きを見せている。彼ら要人派の陰にいるのは、シュヴルーズ公爵夫人だ。しかも、あの女の護衛にはベンガンサ隊というスペインの隠密部隊がついているようだ。シュヴルーズ公爵夫人は、要人派の貴族たちやスペイン人どもを操って、新王が即位して間もないブルボン王家を転覆しようと企んでいるに違いない。その陰謀を阻止するため、お前の力が必要なんだ」


「……要人派は、すでにアンヌ太后から離れたのか」


「はっきりと敵対姿勢を見せたわけではないが、シュヴルーズ公爵夫人が太后様と要人派の対立をあおるはずだとマザラン枢機卿はお考えだ。そして、枢機卿はお前を頼りに思っている。要人派たちの陰謀を断ち切る剣として、パリにいて欲しいとお考えだ」


「なぜ、あのイタリア人が、特に親しくもない一介の銃士の俺を頼るのだ」


「グラモン元帥や俺が、マザラン枢機卿に進言したのだ。戦争ではアンギャン公やガッシオン元帥のごとき軍才ある将軍が必要だが、宮廷に渦巻く陰謀と戦うためにはシャルル・ダルタニャンのごとき信頼できる剣士が必要だ……とな」


 グラモン元帥とフランソワは、ガスコーニュの同郷人であるシャルルを味方に引き入れるため、マザランにしつこく推薦したのだろう。ありがた迷惑だとシャルルは思った。


「俺は、マザラン枢機卿を守る気などない。先王陛下の遺言をゴミのように破棄したアンヌ太后のことも……」


「その彼らの手中に、新王ルイ十四世陛下はおわすのだぞ。今は個人的な好き嫌いを言っている場合か! 太后様とマザラン枢機卿が倒れたら、幼い陛下も共に倒れるのだ!」


「む、むむ……」


 フランソワに諭されたシャルルは、ルイ十三世が自分に与えた最後の命令を思い出していた。


 ――フランスを守るためならば、誰と手を組んでもいい。王家に仇なす者は誰であっても許すな……。


 今、フランスを守る立場にあるのは、摂政のアンヌ・ドートリッシュと宰相のジュール・マザランだ。


 前者は、夫を裏切り続けてその死後も遺言を無視した妻。

 後者は、トレヴィルの仇敵だったリシュリューの遺志を継ぐ男。

 この二人と、俺は手を組まないといけないのか……。


 そう葛藤しつつも、とにかく今はフランソワの言葉に従ってパリに戻るしかないとシャルルは考えた。シャルルがパリから遠く離れた戦場で今後どうするべきかと悩んでいる間にも、幼君ルイ十四世の身に危険が迫っているかも知れない。


 フランスの新しい太陽を守ってくれ――ルイ十三世のその最後の願いをシャルルは生涯をかけて守り通さなければいけないのだ。それが、亡き主君への恩返しだった。

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