14 王妃アンヌ・ドートリッシュ
シャルロットがアンヌ王妃に拝謁できたのは、それから二日後のことだった。
ただし、王妃の顔を拝むことはできず、シャルロットが見たのは王妃の白魚のごとき手だけであった。
「お懐かしゅうございます、王妃様。シャルロットでございます」
その日の昼下がり。
セーヌ川に面して造られた庭園。
シャルロットはオートフォールからあらかじめ伝えられていた時刻に、王妃の住居であるルーヴル宮殿南翼一階の窓の前で
「久しぶりね、シャルロット」
昼間だというのに薄暗い部屋の中から、シャルロットがどうしてももう一度聞きたかった美しい声が聞こえてきた。
しかし、その声はどこかよそよそしく、冷たい。シャルロットは、懐かしいという感慨にほんの少しもひたれなかった。自分と王妃は、この宮殿の頑丈な壁以上に強固な見えない壁に隔てられているような気がして悲しかったのである。
わずかに顔を上げ、部屋の中の様子をうかがったが、アンヌ王妃は窓のそばの壁に寄りかかるようにして立ち、庭で跪いているシャルロットからは王妃の艶やかな栗色の髪と
「リゼットは今、元気?」
「……母は昨年に亡くなりました」
「そう」
素っ気ない返事。かつて信頼していた侍女の死の報せを聞いて、なぜ少しも動揺しないのか。シャルロットは、窓から姿を見せないアンヌ王妃こそ偽者なのではと疑いたくなった。
「リゼットの両親……あなたにとっては祖父母にあたるベルトー夫妻も他界して、その遺領も親族たちがすでに相続してしまっている今、あなたには貴族としての領地が何もない状態よ。それでは結婚する時に
「……ありがたき幸せ」
貴族の領地……。
それは、シャルロットがこれから貴族社会の中で生きていく上で必要不可欠な物であることには間違いない。しかし、八年ぶりに再会した最初の会話がそんな土地だとか収入だとかの愛が介在しない利害に関するやり取りになるとは、シャルロットにとって小さくはない失望だった。
ただ一言、二言だけでいいから、「また会えて嬉しいわ」「あなたたち母子には苦労をかけたわね」といたわって欲しかった。そうしたら、母と自分の長い流転の人生も報われるというのに……。
そんなふうにシャルロットが心の中で悲しんでいると、すっ……と、窓から白く美しい手が伸びてきた。その手には、蝋で封がされた一通の手紙が――。
「この手紙を銃士隊長トレヴィルに届けなさい。あなたには、コンスタンスに任せていた役目を引き継いでもらいます。私と近衛銃士隊の連絡役をするのです」
仕事をくれると聞き、シャルロットは嬉しくなって反射的にその手紙を受け取ってしまったが、その直後、これはただならぬ役目ではないかと気づいた。
オートーフォールが教えてくれた話によると、アンヌ王妃はルイ十三世からスペインのスパイではないかと疑われているという。
そんな王妃が、国王直属の銃士隊と密かに連絡を取り合っているなんて、どういうことなのだろう。何やら危険な香りがしてならない。ルイ十三世がこのことを知ったら、王妃だけでなく銃士隊にもその怒りは向けられるはずだ。そして、両者の連絡役をしていたシャルロットも、ただではすまないだろう。
これは命に関わる危険な任務だ、とシャルロットは直感した。コンスタンスは、こんな危ない仕事をやらされて死んでしまったのだろうか? オートフォールにコンスタンスの死因を聞いても、彼女は口をつぐむだけであったが、病死ではなく任務の途中で何者かに殺されたのではという疑惑が一気にわいてきた。
――君は、自分の母やトレヴィルの娘のように、宮廷の陰謀に巻きこまれないように注意しろ。
ルイ十三世の言葉が蘇る。自分は、早速、その忠告を破ってしまったようである。
(でも、ここでこの任務を断れば、私は王妃様に永遠に信用してもらえないわ。そんな任務できません、などとは言えない。けれど……このまま王妃様の思惑に流されたままだけでは、昔のような信頼は取り戻せない)
そう考えたシャルロットは、手紙を受け取ると、アンヌ王妃の手首に父の形見の真珠の首飾りをかけた。
「我が父バッキンガム公爵の形見の品です」
「…………」
王妃の指が、ピクッと反応した。そして、しばらくの沈黙の後、
「父親の形見なら、大事に持っていなさい。今の私にはもう必要ないわ」
そう言い、首飾りを静かにシャルロットに突き返したのだった。
「はい……」
シャルロットは一礼し、窓から離れた。
心が、寒々しい。無性にシャルルに会いたくなった。
「あの子……リゼットの死を知っていたようね。それに、バッキンガム公爵ゆかりの真珠の首飾りを持っていた。……ということは、本当にあのシャルロットなのかしら」
シャルロットの遠ざかって行く背中を見つめながら、アンヌ王妃はそう呟いていた。
スペイン領ネーデルラントのブリュッセルからシュヴルーズ公爵夫人の手紙が届き、リゼットの死を知ったのはつい先日のことである。娘のシャルロットは、銃士隊のシャルル・ダルタニャンに保護されて、今はおそらくパリにいるはずだとも手紙には書かれていた。
そして、何よりもあの思い出深い真珠の首飾りを見て驚いた。
あれは、バッキンガム公爵がアンヌ王妃の気を引くために、たくさんの真珠をわざと外れやすく縫い付けた服を着て王妃に拝謁し、彼女の前で真珠を床にばらまいてみせたのだ。面白がったアンヌ王妃はその真珠の一部を拾い集めて首飾りにし、大事に持っていた。だが、後にリゼットがリシュリューにおわれてスペイン領に亡命する時に彼女に別れの品として与えたのだ。リゼットは、その首飾りを父親の形見だと言って娘のシャルロットに持たせていたのか……。
やはり、本物のシャルロットかも知れない。あの凛としていて涼やかな声は、リゼットに似ていた。だったら、こんな窓越しの対面などせず、強く抱き締めて「ずっと、ずっと会いたいと思っていたわ」と自分の気持ちを伝えればよかった。
「けれど、まだ油断はできない。陛下が
シャルロットに託した銃士隊長トレヴィルへの手紙には、「シャルロットが陛下の密偵ではないか調べて欲しい」と書いてある。
トレヴィルの娘であるコンスタンスが死んだ後、アンヌ王妃に忠誠を誓うトレヴィルとの連絡役がいなくなっていたため、どうしても新しい連絡役の侍女が欲しい。だから、シャルロットを名乗る少女が自分の手駒として信頼できる存在か急いで確認しておきたかったのだ。
……これは一部の重臣たちと王のそばにいる主だった銃士たちしかまだ知らない極秘のことだが、ルイ十三世は二日前の二月二十一日に倒れた。病は重い。
(病弱な陛下は、今まで幾度も病にかかり、危篤状態に陥ることがあった。そのたびに、神に守られているのではと思うような奇跡的な復活を果たしてきたけれど……。
今回は、奇跡は起きないかも知れない。陛下にとって最大の脅威であり、最高の味方だった宰相リシュリューが死んでしまい、
夫が死んだら、幼い息子のルイ王太子がフランス国王になる。その時、アンヌ王妃は
「……ねえ。誰と誰が、私の味方になってくれると思う?」
アンヌ王妃は、部屋の奥のベッドでごろ寝している男にそう問うた。男はイタリア
「王弟オルレアン公とコンデ公(ブルボン王朝初代アンリ四世の従兄弟の子供)夫妻は、味方についてくれるでしょう。ただ、オルレアン公はころころと態度を変える御仁ゆえ注意が必要です。
あと、ヴァンドーム公(アンリ四世の庶子)とボーフォール公の親子、ギーズ公(アンリ四世のライバルだった「向こう傷のギーズ」の孫)、マルシャック公子たち、リシュリュー
イタリア訛りの男は、
この男が言う「要人派」とは、宰相リシュリューの圧政に反感を抱き、スペインとの戦争をめぐってリシュリューと対立していた、有力貴族たちのことである。リシュリューを憎んでいたアンヌ王妃とは、近しい関係にあった。
彼ら要人派は、宿敵リシュリューが死んだ直後から何度も仲間同士で密議を重ね、リシュリュー亡き後の政治の実権を握ることを企んでいた。
そして、この要人派の密会には、銃士隊長トレヴィルも顔を出していた。
アンヌ王妃のことを敬愛している彼は、王妃の敵であったリシュリューと激しく対立し、何度も王妃の危機を救っていたのである。だから、アンヌ王妃は、銃士隊は確実に自分の味方になると考えていたのだ。
だが、イタリア訛りの男は、「反リシュリュー派だった人々はいつかアンヌ王妃から離れる」と言うのである。アンヌ王妃は不安を覚え、
「途中まで、とはどういう意味? 彼らは最終的に私の敵になるということ?」
と、彼にたずねた。
「王妃様と私が一心同体であることが
そう言いながら男はベッドから降りると、
「私は、リシュリュー枢機卿の生まれ変わりとなる男ですから」
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