12 グランド・マドモワゼル

 さて、その頃のシャルロットのことである。



 ――君は、自分の母やトレヴィルの娘のように、宮廷の陰謀に巻きこまれないように注意しろ。


 ――特に気をつけなければいけないのは、シュヴルーズ公爵夫人。



 ルイ十三世にそう忠告されたシャルロットは、しばらくの間、その言葉の意味について色々と考えていた。


 母は宮廷の陰謀にどれだけ関わっていたのか?

 あの優しかったコンスタンスの身に何があったのか?

 そして、シュヴルーズ公爵夫人とは何者なのか?

 考えれば考えるほど、疑問がわいてくる。



 しかし、その数日後には、国王の意味深な言葉について熟思する精神的な余裕を失うことになった。


 めでたくアンヌ王妃の侍女としてルーヴル宮殿に入ることができたのだが――新たな問題がシャルロットの前に立ちはだかったのである。その問題で大いに頭を悩まされた彼女は、「シュヴルーズ公爵夫人」という女の名すらもすっかり頭の端に追いやってしまっていた。








 シャルロットは、ルーヴル宮殿に行けばアンヌ王妃にすぐに拝謁を許され、


「久しぶりね、シャルロット。よく戻って来てくれたわね。とても嬉しいわ」


 と、温かく迎え入れてもらえるに決まっていると少々甘く考えていた。


 幼少時に宮廷にいた時は、アンヌ王妃は小さなシャルロットをいつも自分のそばに置き、お菓子をくれたりなどして可愛がってくれたものだ。

 私生児とさげすまれ、母親以外の人間に優しくされたことがなかったシャルロットは、宮廷でアンヌ王妃やその侍女のコンスタンスが自分に愛情をくれたことを今でも忘れてはおらず、その恩を返したいと考えていたのだが……。


「まさか、拝謁できないどころか、仕事のひとつも与えてもらえないなんて……」


 シャルロットは、ルーヴル宮殿の大階段の途中の段にお尻をつけて座りながら「はぁ~」とため息をついていた。


 いちおう宮殿内に自分の寝室を与えられはしたが、それっきり音沙汰なし。「あなたは何々の仕事をしなさい」と命令されることもなかったのである。完全に放置されていた。


 宮仕えしている人々には、それぞれ担当の仕事がある。

 王妃の衣裳係、食事係、部屋係や王太子の世話係……他にもたくさん、みんなは誇りを持って自分の仕事をこなしているのだ。シャルロットが、


「あの……何か手伝わせてください」


 と、恐るおそる申し出ても、「これは私に与えられた仕事です。あなたは、あなたに与えられた仕事をしなさい」とピシャリと断られるだけだった。しかし、シャルロットは何のお役目も言い渡されていないのである。


(馬鹿みたいに階段に座ってボーっとしているしかないのは、あまりにもみじめすぎる。何か、自分にできる仕事を自力で探さないと……)


 そう考えてはいるのだが、右も左も分からない新入りの侍女であるシャルロットは宮殿のどこにいっても邪魔者扱いされてしまうため、結局、今日もこの階段で一日の時間を浪費しているのである。


 そして、もうひとつ大きな悩みがあった。侍女たちの新人いびりがひどい。


「あらぁ~? あらあらぁ~? シャルロットさん、あなた……お漏らししていなくって?」


 シャルロットには、一度考えことをしだすと完全に自分の殻の中に入ってしまい、小さな物音や人の気配に気づかなくなる癖がある。突然頭の上からキンキンと甲高い声が降ってくると、ビクッと驚きながら顔を上げた。


 いつの間にか、四人の若い侍女たちに囲まれていた。

 その娘たちは、クスクスと意地悪そうに笑いながら、シャルロットを見下ろしている。


「お漏らし……?」


 ようやく自分に投げかけられた言葉の意味を理解したシャルロットは、そんなまさかと思って自分の足元を見た。


 なるほど。階段には、何やら黄色い液体がしたたっているようだ。しかし、これは――。


「酸っぱい匂いがします。これはレモン汁です」


 どうせシャルロットがボーっとしている間に、この侍女たちがレモンの汁をまいたのだろうと思いながらそう答えると、侍女たちは一斉にオホホホと哄笑こうしょうした。貴族の娘のくせして、はしたない。


「あなた、畏れ多くも王妃様と不倫におよんだというバッキンガム公爵の私生児なのでしょ? 誰もいない庭で密会して、自分の欲情をおさえきれずに王妃様を押し倒したっていう話じゃない。そんな野蛮でシモがゆるいイングランド人の娘なら、うっかりお漏らしぐらいするのではなくって?」


「なっ……。それは……」


 父が王妃と不倫? そんな話、知らない。きっと嘘だ。母はそんなこと自分には……。


「適当な嘘を言わないでください」とシャルロットは言おうとしたが、別の侍女がシャルロットの言葉を遮った。


「しかも、ねえ……? あなたたち知ってる? 王妃様とバッキンガム公爵の密会を手引きしたのって、シャルロットさんのお母さんなのですって。そのことが陛下にばれて、宮廷をおわれてしまったそうよぉ~?」


 母が、そんな……。これも口から出まかせを言っているだけだとシャルロットは思おうしたが、


(そういえば、お母さんは宮廷から追い出された理由を決して私には教えてくれなかった……)


 と、ふと気づき、この意地の悪い侍女の言葉に真実味があるような気がしてきた。


「まあ、びっくり! 父親はシモがゆるい公爵で、母親はそんな不道徳な女だったのね! ああ、嫌だわ。そんな人間を両親に持つ人と一緒に働かなければいけないなんて!」


「心配しなくても大丈夫よ。この子、仕事も与えられずに階段に一人寂しく座ってお漏らししているしか能のない娘なんだから。すぐに辞めていくわ」


「そういえば、そうね。オホホホ!」


 また、耳障りな高笑い。

 シャルロットは、急速に頭に血が上るのを感じ、カッとなって目の前に立つ侍女を引っぱたいてやろうと右手を伸ばしかけた。しかし、理性で何とかおさえ、震える右手に左手を添えた。


 大人しそうな外見のせいで馬鹿にされてしまっているのかも知れないが、シャルロットは感情が暴発すると大胆な行動を取ってしまう傾向がある。

 幼い頃から私生児だとさんざんに馬鹿にされ、時には危害を加えられもしたため、迫害してくる者たちには猛然と挑みかかる負けん気があったのだ。


(私ももう十五歳だから、自分をちゃんとおさえられるようにならないといけないけど……。でも、さすがに堪忍袋の緒が切れそう)


 こうも毎日いびられ、しかも今日は父と母をけなされ、お漏らししたのかと辱められたまま黙っているのは悔しい。シャルロットはギュッと唇を噛んだ。これ以上、ののしられたら、本当に手を出してしまいそうである。


「ちょっと、あなたたち。階段で、大人数で話しこんでいないでよ。邪魔なんだけれど」


 威圧的だが、どこか子どもっぽい声が階段の踊り場からして、シャルロットと四人の侍女たちは驚いて顔を上げた。


 踊り場で仁王立ちしていたその少女は、とても背の高い子だった。小柄なシャルロットが「わっ……」と思わず声をもらして仰ぎ見てしまうくらい、でかい。


「ぐ……グランド・マドモワゼル! し、失礼いたしました!」


 侍女たちは慌てふためき、階段のわきに寄ってグランド・マドモワゼルと呼ばれた少女に道を開ける。


 その背の高い少女は、フンと鼻を鳴らしながらゆっくりと階段を降りて行く。そして、侍女の一人が後ろ手に隠し持っていたレモンをひょいっと奪い、ピュッ、ピュッとレモンの汁をその侍女のドレスにかけたのである。


「あっ……。グランド・マドモワゼル、な……何を……」


 侍女が泣きそうな顔でそう言うと、少女はそんな抗議など無視して他の三人の侍女たちにもレモンの汁をかけた。


「あらあら、あなたたち、急いで服を着替えたほうがいいわよ。お漏らしをしてそのままにしていたら、小便の臭いが体に染みついちゃうわ」


 少女は悪戯っぽく笑いながら言った。侍女たちは、目に涙をため、何も言い返せずに走り去って行った。シャルロットは、その一部始終をぼう然と眺めていた。


「あなた、災難だったわね。あのレモン汁の悪戯は、以前、宮廷にいたラ・ファイエットという侍女が舞踏会でやられた嫌がらせなのよ。それ以来、みんな面白がって新人いびりの悪戯にレモンを使うようになっちゃったの。馬鹿らしいと思わない?」


 少女はシャルロットにニコリと微笑み、そう教えてくれた。さっきまでふてぶてしい顔つきをしていて傲慢そうに見えたが、こうやって笑うと年頃の女の子らしく可愛らしい。シャルロットは立ち上がり、「助けてくださって、ありがとうございました」と頭を下げた。


「あの……。そのラ・ファイエットという方は……?」


「宮廷を出て行っちゃって、今は修道院にいるわよ。国王陛下が珍しく女性に興味を示した二人の愛妾のうちの一人で、地上に舞い降りた天使と言っていいほど清純な人だったのだけれど……。

 まっ、いじめられてクスンクスン泣いちゃうような人は、さっきの侍女たちみたいな悪魔が潜んでいる宮殿では生きていけないということよ。それに比べて、あなたはなかなか見どころがありそうね。あなた、侍女の一人を階段から突き落とそうとしていたでしょ? 右手がプルプル震えていたわよ」


「突き落とすだなんて、さすがにそこまでは……」


「あんな胸糞悪いの、腕の一本や二本へし折っちゃって別にいいじゃない」


(過激なお姫様だなぁ……)


 シャルロットは、「グランド・マドモワゼル」と呼ばれているこの少女が何者なのか、侍女たちがぺちゃくちゃ宮廷の噂話をしているのをたまたまに耳にしてすでに知っていた。


 グランド・マドモワゼルの本名は、アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン。国王ルイ十三世の弟オルレアン公ガストンの長女である。シャルロットよりひとつ年上の十六歳だ。


 彼女がなぜグランド・マドモワゼルと呼ばれているのかといえば、フランスの習慣で王の弟をムッシュと呼び、その娘のことはマドモワゼルと呼ぶのである。そして、オルレアン公には複数の娘がいたため、長女である彼女はグランド・マドモワゼルと区別して呼ばれるようになっていたのである。


 だから、シャルロットも、


「私は新入りの侍女のシャルロットと申します。何とぞよろしくお願いいたします、グランド・マドモワゼル」


 と、うやうやしくあいさつをした。


 だが、グランド・マドモワゼルはぷくぅと頬を膨らませ、「できたら、その呼び方はやめて欲しいの」と言った。


「みんなは私のことをグランド・マドモワゼルって呼ぶけれど……。あれはねぇ、長女っていう意味だけじゃないのよ。私の身長が女にしてはでかすぎることをからかっているんだから」


「え? そうなのですか? お姫様に対して、そんな悪意を込めたりはしないのでは……」


「絶対にそうなの! だって、グランドには『大きい』という意味もあるじゃない! だから、私、自分が気に入った人間にはマドモワゼルと呼んでちょうだいとお願いしているのよ」


 それは、つまり、シャルロットにもそう呼べということだろうか。(マドモワゼルの誤解だが)人を階段から突き落とそうとしていた危ない侍女を気に入るなんて、変わった姫様だ。


 シャルロットはそう思いつつも、清々しいほど自由奔放な姫様と仲良くなれたら少しは宮廷生活が楽しくなるかも知れないと考えていた。


 シャルルと三銃士たちのような、一緒にいて楽しく、いつも笑い合っていられる友人関係。それはシャルロットの昔からの憧れだった。


「はい、分かりました。マドモワゼル」


 シャルロットが微笑んでそう言うと、自分のあだ名から「グランド」が外れたのがよほど嬉しかったのか、マドモワゼルはにたぁと頬を緩ませた。


「今、王太子様と隠れんぼをしているの。一緒に王太子様を捜してはくれないかしら?」

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