10 シュヴルーズ公爵夫人の過去

 シュヴルーズ公爵夫人――本名はマリー・ド・ロアン=モンバゾン。

 フランスの大貴族モンバゾン公爵の娘で、少女時代は才気活発な美しい娘として評判だった。


 マリーは、十七歳の時、国王ルイ十三世の寵臣ちょうしんであった大元帥リュイヌ公の妻となった。


 リュイヌ公はまだ少女といっていい年齢の妻に、


わしは国王陛下の寵愛を得ている。そなたは宮廷に入り、アンヌ王妃の信頼を得てくれ。そうすれば、夫婦でこの国を牛耳ることができるぞ」


 と、おのれの野望を語り、マリーをアンヌ王妃の話し相手として宮廷に入れた。


 十代の娘のマリーは、夫が欲する権力などには興味がなかったが、可憐なアンヌ王妃に拝謁すると、


(こんな可愛らしい王妃様となら、お友達になりたいわ)


 と思った。


 そして、年が近かった二人はすぐに意気投合したのである。母国スペインから付き従って来た侍女たちが宮廷をおわれた直後で心細かったアンヌ王妃は、親身になって自分の話を聞き、的確な助言をしてくれるマリーを無二の親友として信頼した。


 また、父のモンバゾン公爵から「そなたは少々頑固すぎる」と言われるほど非常に正義感の強かったマリーも、外国から嫁いで来て寂しい思いをしている王妃を元気づけてあげたいと思った。王妃の夫であるルイ十三世もそれを自分に期待しているのだろうと考え、彼女の話し相手の役目を懸命につとめた。


 しかし、女たちが友情を育んでいた一方で――マリーの夫のリュイヌ公と国王ルイ十三世の間では亀裂が生じ始めていたのである。


 ルイ十三世は、「リュィヌ公は信頼できる男だ」と見込んで、彼を大元帥に抜擢ばってきしていた。

 だが、彼は国王の期待に応えるどころか、政治や軍事で驚くほどの無能ぶりをたびたび発揮したのである。そのくせ、まだ宰相になる前だったリシュリューなど出世競争のライバルたちを蹴落とそうとする陰謀には躍起になっていた。


 ルイ十三世は、苛烈なまでに潔癖症な王だった。ベッドのシーツの汚れを気にする潔癖症ではなく、人間の心の汚れを反吐が出るほど嫌う潔癖症である。

 王は、リュイヌ公が欲望のかたまりのような人間だったことを知ると、心の中で彼を見捨てた。だから、リュイヌ公が戦争の最中に熱病にかかって死んでも、顔色ひとつ変えず悲しまなかった。清い心を持つ人間だと認めた者には慈悲深い反面、汚い心の持ち主だと思った者に対しては驚くほど厳しい王だった。


 ルイ十三世のリュイヌ公に対する憎しみは、その妻のマリーにも向けられた。リュイヌ公が病死してすぐに、マリーは宮廷から追放されそうになったのである。表向きの理由は、


 ――マリーの不注意で、妊娠中だったアンヌ王妃がルーヴル宮殿の廊下で転んで流産した。その責任を取ってもらう。


 ということだったが、実際は、汚らわしいリュイヌ公が宮廷に残したあかを全て掃除したいとうのがルイ十三世の本心だった。


 この追放命令は、マリーにしてみれば国王の裏切り行為だった。自分は王妃の世話役として国王に期待され、その役目を自分は十分に果たしている。そう信じていたのだ。


(それなのに、夫が死んだらお払い箱だなんて……)


 夫が国王の寵愛を失って死んだからといって、妻まで宮廷から追い出すことはないではないか。きっと国王は女のことを男の付属物とでも考えているのだろう。そんなふうに思っているから、ルイ十三世はアンヌ王妃を大事にしないのだ。


 リュイヌ公も、妻であるマリーのことを自分が権力を握るための政治の道具としか考えていなかった。本当にどいつもこいつも、男という生き物は女を馬鹿にしている。この世界を支配している男たちは、自分の正義や欲望のために女たちを翻弄し、縛りつけ、捨てるのだ。スペイン人の血を引くからといって国王に邪険にされているアンヌ王妃もまた男たちのエゴの犠牲者なのだ。


(私は……マリー・ド・ロアンという女は、一個の人間だ。亡き夫リュイヌ公のおまけでも何でもない。これからは男たちに利用などされてやらない。私が男たちを操り、愚かな男どもが支配する世界を泳ぎきってやる。そして、復讐をするのだ。私を裏切ったルイ十三世のブルボン王家を破滅に追いこんでやる。

 ……ああ、そうしたら、アンヌはフランス王妃なんてやめて、堂々とスペインに帰ることができるじゃないか)


 マリーの強い正義感は、彼女に「ブルボン王家への復讐」という大きな使命を与えた。そして、ただ利発なだけであった少女は、国家転覆を企む陰謀家へと変貌していったのである。


 だが、復讐するにしても、まずは宮廷にとどまる手立てを考えなければいけない。マリーは、お人好しな人柄で有名だった大貴族のシュヴルーズ公爵に近づき、自分の窮状を訴えた。同情したシュヴルーズ公爵は、


「ならば、我が妻になるといい。陛下も、政府の要職についている私の妻に宮廷から出て行けとは言わないはずだ」


 と言い、マリーを妻に迎えてくれた。これ以降、彼女はシュヴルーズ公爵夫人と人々から呼ばれることになる。


 シュヴルーズ公爵のおかげで何とか宮廷に残ることに成功したシュヴルーズ公爵夫人は、早速、復讐の計画を立て始めたのである。








 目をつけたのは、ちょうどフランスを訪れていたイングランドの重臣バッキンガム公爵だった。

 バッキンガム公爵は、イングランド国王チャールズ一世の妃となるルイ十三世の妹アンリエットを迎えにフランスにやって来ていたのである。

 彼はイングランドで評判の美男子で、たくさんの女性と浮名を流す恋に情熱的な人物らしい。その噂を耳にしたシュヴルーズ公爵夫人は、このバッキンガム公爵がアンヌ王妃に惚れるように仕向けた。


 アンヌ王妃がバッキンガム公爵と不倫をしたと知ったら、ルイ十三世は激怒するだろう。それが原因でフランスとイングランドの関係が悪化し、場合によっては戦争になるかも知れない。その戦いでフランスが負けてしまえばいいのだ。


(それに、ルイ十三世は、性欲が薄いどころか性交渉に激しい嫌悪感すら抱いているため、結婚以来ずっと妻のアンヌを放置してきた。だから、アンヌは恋愛という快楽をいまだに知らない。親友である王妃に素晴らしい夢を見させてあげよう)


 この頃にはすでに人としての倫理観が狂い始めていたシュヴルーズ公爵夫人は、大真面目にそんなことを考えていた。


 バッキンガム公爵に大貴族の妻という立場を利用して接近したシュヴルーズ公爵夫人は、アンヌ王妃の見目麗しさ、愛らしさを吹きこみ、この色男をその気にさせることに成功した。実は、バッキンガム公爵はすでにアンヌ王妃の顔を一度見ていて、美しい人だと心動かされていたところなのである。


 後は二人の逢引の手引きをするだけだ。

 しかし、奥手なアンヌ王妃が自らすすんで不倫をするように仕向けるのは難しい。ここは強行策をとるしかないと考えたシュヴルーズ公爵夫人は、近頃アンヌ王妃の侍女となったリゼットという娘に、


「アンヌ王妃とバッキンガム公爵は相思相愛の仲なのよ。人目を忍んで二人を逢わせてあげたいのだけれど、協力してくれないかしら?」


 と、頼みこんだのである。


 リゼットは頭のいい少女だったが、まだ男性と接吻せっぷんもしたことがない、恋に恋する十代の無分別な年頃だった。バッキンガム公爵がアンヌ王妃に向ける情熱的な眼差しを王妃も実はまんざらに思っていないことを知っていたため、


(お二人はもう密会するような関係にまで進んでいたのね)


 と思いこみ、シュヴルーズ公爵夫人に協力すると約束した。リゼットも、夫に冷たくされているアンヌ王妃を同情してルイ十三世に反感を抱く女の一人だったのである。


 リゼットは誰もいない夜の庭にアンヌ王妃を誘い出し、シュヴルーズ公爵夫人もまたバッキンガム公爵を逢瀬の場所へと案内した。


 ここで、リゼットには予想外の――シュヴルーズ公爵夫人にとっては計画通りの事件が起きた。

 アンヌ王妃に恋焦がれ、自分の欲望を制御できなくなってしまっていた好色家のバッキンガム公爵は、王妃と逢うとすぐに彼女を押し倒したのである。そして、唇を荒々しく吸い、スカートをめくり上げて、庭で行為に及ぼうとした。


「な……何をするの⁉ や、やめて!」


 ルイ十三世との淡白な性行為しか知らなかったアンヌ王妃は、男の獰猛どうもうさを生まれて初めて知り、恐くなって大声を上げた。


 リゼットはうろたえるだけで何もできず、シュヴルーズ公爵夫人が「無礼者!」と怒鳴りながらバッキンガム公爵の横腹を蹴ってアンヌ王妃から引き離した。


 当然、アンヌ王妃の悲鳴やシュヴルーズ公爵夫人の怒声のせいで庭の近くにいた多くの人間がこの騒ぎを聞きつけ、シュヴルーズ公爵夫人にすがりついてわんわんと泣いているアンヌ王妃、思わぬ醜態をさらしてしまって放心しているバッキンガム公爵、自分はとんでもないことをしでかしてしまったと今さら後悔してこれまた泣いているリゼットが数人の侍女や貴族たちに目撃されてしまった。


「泣かないで、アンヌ。バッキンガム公爵はちょっと強引すぎたけれど、これが男女の愛撫なのよ。いつかきっと、あなたもこれが心地よいものだと知る日が来るわ」


 泣き続けるアンヌ王妃の耳元に、シュヴルーズ公爵夫人はそうささやいていた……。








 この夜の事件により、アンヌ王妃とバッキンガム公爵の醜聞スキャンダルはヨーロッパ中に知れ渡った。激怒したルイ十三世はリゼットを宮廷から追放した。


 不倫の現場にリゼットと共に居合わせたシュヴルーズ公爵夫人は、アンヌ王妃からバッキンガム公爵を引き離し、その貞操を守ったことによって追放処分は免除され、謹慎を命じられただけであった。 


 哀れなのは、何も知らずに陰謀の片棒を担がされてしまったリゼットである。シュヴルーズ公爵夫人も、リゼットに対して彼女なりにいちおうは責任を感じていたらしい。イングランドに帰還したバッキンガム公爵に「リゼットの面倒を見てやって欲しい」と手紙を密かに送った。


 一方、そのバッキンガム公爵はというと――。


「アンヌ王妃が欲しい。彼女の愛を勝ち得るためには、フランス国王が邪魔だ。フランス国王を殺さねば……!」


 そう思いつめた彼は、イングランド国王の寵臣である立場を利用してイングランドをフランスとの戦争へと向かわせた。かくして、有名なラ・ロシェルの戦いが勃発ぼっぱつしたのである。


 シュヴルーズ公爵夫人は、たったひとつの不倫騒動だけで、フランスを一年間におよぶ泥沼の戦争に引きずりこむことに成功したのだ。


 ――あの女は、フランスの害になる。

 

 シュヴルーズ公爵夫人のことをいち早くそう警戒したのが、宰相リシュリューだった。リシュリューは、バッキンガム公爵の事件の裏にはシュヴルーズ公爵夫人の陰謀があったに違いないと看破かんぱしていたのである。


 同じように、シュヴルーズ公爵夫人も、リシュリューを何とかして排除したいと考えていた。リシュリューは、フランスのブルボン王家を強大無比にすることを目指し、アンヌ王妃の実家であるスペイン・ハプスブルク家との対決をフランスの国策としている。シュヴルーズ公爵夫人にとって、最も邪魔な存在だった。


(先にリシュリューという大政治家を倒さなければ、国王ルイ十三世に手は出せない)


 シュヴルーズ公爵夫人は、王位を狙う王弟オルレアン公ガストンやリシュリューに反感を持つ貴族たちを味方につけてリシュリュー暗殺計画を練った。


 しかし、その計画がばれてしまい、シュヴルーズ公爵夫人は今度こそ宮廷をおわれることになったのである。


 いったんはフランスから亡命したシュヴルーズ公爵夫人だが、それでも打倒ブルボン王家、打倒リシュリューを諦めず、亡命先の国からフランスに戻るたびに国家転覆の陰謀を企てた。しかし、国王を守る銃士隊やリシュリューにことごとく阻止され、最終的にイングランドにまで亡命することを余儀なくされていたのだった。


(邪魔者のリシュリューがようやく死んでくれた。あの老いぼれがくたばった今しかない。今なら、国王を守るのは銃士隊だけ……。この絶好の機会を逃すわけにはいかないわ)


 ベンガンサ隊に護衛されながらフランスに向かう道中、シュヴルーズ公爵夫人はそう考えていた。


 パリで自分に思わぬ敵が立ちはだかることなど知るよしもなく……。

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