9 シュヴルーズ公爵夫人あらわる

 一方、シャルルたち銃士に打ち負かされたイグナシオとベンガンサ隊は、スペイン領ネーデルラントのブリュッセルに帰還していた。



 この当時、ネーデルラントの諸州はスペイン帝国ハプスブルク家の支配下にあった。そのうちの北部の州がスペインに反旗を翻してネーデルラント連邦共和国(オランダ)を建国し、現在のベルギー国にあたる南部の州がスペイン領ネーデルラントと呼ばれていた。


 スペイン帝国は、西のスペイン本国と東のスペイン領ネーデルラントの二方面からフランス侵入の機会を虎視眈々こしたんたんと狙っていたのである。




「……それで、おめおめと逃げ帰って来たというわけだな? モットヴィル伯爵を殺され、シャルロットまで奪われて……。この愚か者め」


 夜明け前の薄闇に包まれた寝所。

 ベッドには裸で眠っている女。

 肌着だけを着た四十代後半くらいの男は、ベッドの端に腰掛け、自分の足元にひざまずいているイグナシオを睨んでいた。淡々としていながらも怒気をはらんだその声には、威圧感に満ちた凄みがある。


「申し訳ありません、アスマル伯……」


 アスマル伯フランシスコ・デ・メロ。

 スペイン王フェリペ四世の弟フェルナンド亡き後、その後任としてフランドル方面(ネーデルラント南部。現在のベルギーからフランス北部にかけての地方)の総督となった歴戦の将軍である。


 フランシスコは、総督に就任するやいなや、フランス領内に侵攻してオンヌクールの戦いでフランス軍を撃破した。昨年の一六四二年五月のことだ。この時期、スペインの宰相オリバーレスは、フランスのサン=マールら反リシュリュー派の貴族たちと、


 ――反リシュリュー派がフランス国内でクーデターを起こしたら、スペイン軍が援軍を送り、打倒リシュリューの手助けをする。その代わり、クーデターの成功後はスペインと和平を結んで、フランスが戦争で占領した土地を放棄するべし。


 という密約を交わしていたのである。


 フランシスコは、スペイン本国の宰相オリバーレスと頻繁に連絡を取り合い、ルイ十三世の宮廷でクーデターが起きるのを待ち、パリに攻めこむ準備を着々と整えていた。


 しかし、サン=マールとスペインが交わした誓約書の写しをリシュリューが手に入れてしまい、クーデター計画は露見。サン=マールら反リシュリュー派の貴族たちは処刑されてしまったのである。フランシスコは、パリを攻撃する絶好の機会を失ってしまった。皮肉なことに、リシュリューは、サン=マールたちを斬首したわずか三か月後に死んだ。


(宮廷内でクーデターを起こさせるのが無理なら、宮廷の外で起きている農民の反乱を利用してやろう)


 そう考えたフランシスコは、ノルマンディー地方の有力貴族モットヴィル伯爵を調略し、ノルマンディー地方の民衆の反乱を激化させるようにモットヴィル伯爵に働きかけたのである。その見返りとして、養女のシャルロットをモットヴィル伯爵に嫁がせたのだ。


 シャルロットの母リゼットは、フランス国王の侍従じじゅうであったベルトーという貴族の娘で、生母はスペイン貴族の出身だった。


 リゼットはアンヌ王妃の侍女として宮廷に入り、すぐに王妃の最も信頼する侍女となった。スペイン王室ハプスブルク家の姫様として大切に育てられ、フランス国王ルイ十三世に嫌々嫁いだアンヌ王妃は、故郷スペインを恋しく思い、スペイン人の血が半分混ざっているリゼットのことを気に入ったのである。スペインからアンヌ王妃に付き従って来た侍女たちはルイ十三世によってことごとく宮廷から追放され、スペインにゆかりのある侍女といえばリゼットだけだったのだ。


 しかし、そんなリゼットも、バッキンガム公爵がフランスで起こしたアンヌ王妃との不倫騒動に関わってしまい、宮廷を追放されてしまった。

 居場所を失ったリゼットを哀れに思ったバッキンガム公爵は、リゼットをイギリスのロンドンに住まわせて面倒を見ていたのである。それがいつの間にか愛人関係に陥り、シャルロットが生まれた。

 だが、シャルロットが誕生した同日の一六二八年八月二十三日、バッキンガム公爵はポーツマスで暗殺され、リゼットはまた居場所を失った。


 その後、リゼットは娘のシャルロットを連れてパリに密かに舞い戻ったが、前に書いた通り、リシュリューに捕まりそうになり、スペイン領に亡命した。アンヌ王妃は、フランドル総督であった弟の枢機卿王子フェルナンドにリゼット母子を保護してくれるように頼み、姉を敬愛していたフェルナンドはリゼットとシャルロットを手厚く迎えてくれたのである。


 だが、フェルナンドは三十二歳の若さで急死してしまい、リゼット母子は頼れる保護者を失ってしまったのだ。リゼットは、娘を守るため、新しくフランドル総督となったフランシスコ・デ・メロに近づき、彼の妻になった。


 変転極まりない人生だったが、これでようやく落ち着いて娘と暮らせるとリゼットはホッとしたことだろう。しかし、彼女はフランシスコの妻となった翌年に病にかかり、あっさりと死んでしまったのである。


(あいつは、とことん運のない不幸な女だった。残された娘のシャルロットは、わしがリゼットの代わりに大事に育ててやろう)


 フランシスコにも、そう考えた時期がわずかにあったが、情の薄いこの男はリゼットが亡くなって三、四か月も経つと新しい妻が欲しくなった。そんな時期に大貴族の娘との縁談話が舞いこみ、前妻の連れ子のシャルロットを邪魔だと考えるようになっていったのである。


(モットヴィル伯爵は、若い娘ばかり妻にして次々と怪死させている変態らしい。美しいシャルロットをくれてやったら、喜ぶだろう。調略のエサにちょうどいい)


 そう企んだフランシスコは、イグナシオのベンガンサ隊に護衛させてシャルロットをモットヴィル伯爵の元に送り届けたのだ。


 上手くいったら、モットヴィル伯爵の扇動で決起した農民軍がパリを襲い、混乱するパリをフランシスコの軍が占拠できたはずだった。それなのに……。


「この失態、どう責任を取るつもりだ」


 フランシスコは、イグナシオの頭を蹴った。


「くっ……。申し訳……ありません……」


 イグナシオはひたすら謝り、苦しげにうめくことしかできない。任務に失敗しただけでなく、主君の養女を奪われ、部下も多く死なせてしまった。弁解の余地などなかった。


「どうか処罰を……。この首を斬ってください」


 復讐を誓ったシャルル・ダルタニャンに一方的にやられ、剣士としての誇りはズタズタだった。イグナシオは、右目から涙をぽたり、ぽたりとこぼしながらそう懇願した。


「馬鹿な男ねぇ。それがあなたの責任の取り方? ……自ら死を望むなんて、それはただ逃げているだけよ」


 ベッドで眠っていると思われた裸の女が、豊かな乳房を揺らしながら上半身を起こし、イグナシオを蠱惑的こわくてきな目で見つめながら気だるげに笑った。


 ムッとなったイグナシオは女を睨もうとして彼女に視線を向けたが、その染みひとつない白く艶やかな裸体にドキリとして、慌てて顔を背けた。


 三十半ばのイグナシオは、女など何人も抱いている。女の裸を見て欲情はするが、思春期の子供のように恥ずかしがるようなうぶさはとうの昔に失っている。そのはずなのに、この女の美しい裸を薄闇の中で見たイグナシオは、気後れして耳まで真っ赤になっていたのだ。もう少し時間が経って朝日が昇れば、直視できないかも知れない。


(シュヴルーズ公爵夫人……。フランスのアンヌ王妃よりも一つ年上で、今年で四十三歳のはずだ。化け物かと疑いたくなるほど、いまだに若々しい美貌と肉体だ……)


 シュヴルーズ公爵夫人は、自分から顔を背けているイグナシオを見つめながらクスッと笑うと、生まれたままの姿でベッドから降りて窓辺の椅子に座り、うーんと背伸びをしながら足を組んだ。


 フランシスコは、ぎょろりとした目つきで、シュヴルーズ公爵夫人の艶めかしい所作のひとつひとつを鑑賞している。この男ほど女に対して老獪ろうかいになると、シュヴルーズ公爵夫人の裸体を一種の芸術として楽しめる余裕ができるようだ。


「やられたまま死んで、悔しくないの?」


 責めているというよりは幼い子どもに語りかけているような優しい口調でシュヴルーズ公爵夫人はそう言った。イグナシオは、シュヴルーズ公爵夫人に背中を見せながら、「悔しいに決まっています……」と声を震わせながら答える。


「だったら、生きなきゃ。死んだら、誰にも仕返しできなくなるわよ? それって、あなたの誇りを傷つけた敵から逃げることになるとは思わない?」


「……たしかに、その通りです」


 イグナシオはハッとなって顔を上げる。そして、右目を細めてシュヴルーズ公爵夫人をまぶしそうに見つめた。清らかな彼女の裸体が輝いているのかと一瞬錯覚したが、夜が明けてきたらしい。太陽の光が寝室の闇を払い、シュヴルーズ公爵夫人の美しい肢体を露わにしていく。


 不思議なことに、イグナシオは欲情しなかった。その汚れを知らない少女のようなみずみずしい肉体に犯し難い聖性を感じていたのである。


(こんな猪武者ですら魅了してしまうとは、本当に恐ろしい女だ。俺も油断をすると、この女のことを聖女だと勘違いしてしまう時がある。……愛人として付き合うのはいいが、結婚したいとは思わんな。夫婦になったら、人生の全てをしぼり取られてしまう)


 フランシスコは、恍惚とした表情になっているイグナシオを見て、フンと鼻で笑った。シュヴルーズ公爵夫人のとりこになって破滅した男がどれだけいることか……。


「ねえ、フランシスコ。彼にもう一度機会を与えてあげてくれないかしら?」


「機会? 儂はイグナシオの首をはねるなどとは最初から言っておらん。この男にはまだ使い道があるからな」


 そう言いながらフランシスコはイグナシオの背を軽く足でつついた。利用できる物は最後の最後まで利用し続ける。途中で捨てるなどというもったいないことはしない。それがこのフランドル総督のやり方である。


「だったら、話は早いわ。ベンガンサ隊を私の護衛につけてちょうだい。パリには、フランス国王の犬たち……近衛銃士隊が目を光らせていて、私一人がパリに潜入してもすぐに捕まってしまうと思うの。ベンガンサ隊のような屈強な剣士たちの護衛が必要だわ」


「なるほど、たしかにそうだな。いいだろう、イグナシオのベンガンサ隊は君が好きに使え。そして、パリに潜入した君は……」


「分かっているわ。リシュリュー亡き後、権力者不在となった宮廷を掻き回して、政変を起こす。あわよくば、ルイ十三世を暗殺する」


 聖女のごとき温かな微笑みをたたえていたシュヴルーズ公爵夫人の表情が一変し、おぞましい悪意のこもった氷の微笑となった。その凶悪な笑顔を見たイグナシオは夢から現実に引き戻され、ぞくりと背筋が凍るのを感じた。


「君なら必ず成功すると信じているぞ、シュヴルーズ公爵夫人。儂は軍を率い、混乱中のパリを襲おう」


 フランシスコも、にたりと笑った。しかし、実のところ、彼は心中焦っていたのである。


(……先日、スペイン本国からオリバーレス殿が宰相を解任されたという報せがあった。後任はオリバーレス殿の甥のルイス・メンデス・デ・アロだという話だが……。あんな毒にも薬にもならぬ平凡な男に、フランス軍と戦う器量などあるものか。オリバーレス殿が職をおわれた今、儂がフランスを倒すしかない。そうしなければ……)


 長年に渡って国家を支えてきたオリバーレスをスペイン王フェリペ四世はあっさりと解任してしまった。いくらフランスとの戦争で失策が続いたとはいえ、長年にわたって国家の大黒柱となってきたオリバーレスに対するフェリペ四世の行いは忘恩甚だしい。自分も新たな一手を打てずにフランスとの睨み合いを続けていたら、昨年のオンヌクールでの戦勝など忘れられて、フランドル総督を辞めさせられるかも知れない。


「急がねばならん。シュヴルーズ公爵夫人、早速だが明日にでもブリュッセルを出立してはくれないか」


「明日? 嫌よ。今日中に出発するわ。時間がもったいない」


 フランシスコは、シュヴルーズ公爵夫人の言葉に「せっかちな君らしいな」と笑いながらうなずくと、イグナシオにこう命令した。


「シュヴルーズ公爵夫人の言葉は儂の言葉だと思い、どんな命令でも従うように。……そして、お前にもうひとつ任務を与える」


「はっ、何なりと」


「銃士たちがシャルロットを保護したということは、あの娘は今、パリにいるかも知れない。捜し出し、儂の元に連れて帰れ。シャルロットは美しい娘だ。政略結婚のこまとしてまだ利用できる」


「承知いたしました」


 パリに潜入する――それはつまり、シャルル・ダルタニャンに報復をする機会を得たということだ。今度こそは必ず奴の息の根を止めてやると復讐心の炎を胸に燃えたぎらせ、イグナシオは左目を覆う眼帯に手をあてた。感情の高ぶりが頂点に達すると、イグナシオの眼球を失った左目は激しくうずく。復讐しろ、復讐しろ、復讐しろと光を奪われた左目が訴えてくるのだ。


 シュヴルーズ公爵夫人は、そんなイグナシオをウフフと微笑みながら見つめている。彼女は、こういう胸に激情を秘めた男が好きなのである。


「そういえば、そのシャルロットって、もしかしてリゼットの娘?」


「ああ、そうだ。昨年死んだ我が妻の連れ子だ」


「そう。リゼットはかわいそうだったわね……。でも、彼女の娘と会えるのは今から楽しみだわ。母親と同じように、私の味方になってくれたらいいのだけれど」


 シュヴルーズ公爵夫人は、ブリュッセルの都市の寒々とした朝の風景を窓から眺め、そう呟いた。


(我が心の友アンヌ。今度こそは、あなたを苦しめているブルボン王家を滅ぼしてあげるわ。そうすれば、あなたはフランス王妃という地位を捨てて、スペインに帰れる)

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