8 王と銃士

「……シャルル。お前はもう少しここにいて、背中をさすっていてはくれないか? お前に背中を撫でられると、ずいぶんと楽になるのだ」


 少し落ち着いたルイ十三世がそう頼むと、シャルルは「はい、陛下」とうなずき、あまり強くならないように気遣いながら王の華奢きゃしゃな背中をさすった。


(昔は、もっとたくましいお体であったのに……)


 狩りを好むルイ十三世は、若い頃はそれなりに引き締まった肉体をしていたのだが、たびたび病魔に侵され、昨年の初めには一時危篤状態になるほどの大病を患ってしまい、今ではすっかりせ細っている。


 フランス軍の元帥げんすいになることを夢見て十五歳で田舎からパリに上京したシャルルは、長兄のポール・ダルタニャンが所属していた近衛銃士隊に入り、三年の見習い期間を経て正式な銃士となった。そして、憧れだった青色のカザック外套がいとうを身にまとい、国内の大貴族の反乱やスペイン帝国との戦争など、各地を転戦する国王軍に銃士隊の一員として従軍するようになったのである。


 王を守るのが銃士の使命。ゆえに、銃士隊は、戦場で常に国王のそばにあった。


 敵軍の騎馬隊がフランス軍の陣形を突き崩して王の本陣に肉薄すれば、一心不乱にマスケット銃を撃って王を守った。

 スペイン軍がフランス領内の奥深くに侵入してパリに危機が迫った時には、王と銃士隊が軍の先頭に立って戦ってスペイン軍をフランスから追い返した。


 そして、戦に勝利すれば、血と泥にまみれた王と銃士たちは歓喜の声を上げて抱き合った。


 喜びも、悲しみも。勝利の栄光と敗北の悔しさも……王が見るもの、感じるものの全てをシャルルたち銃士は一緒に経験し、共感してきたのである。


 中でもシャルルはルイ十三世に可愛がられた。国王は遠征が長引いて体調が崩れると、シャルルを寝所に呼んで自分の背中をさすってくれとよく頼んだ。


 母のマリー・ド・メディシスや弟のオルレアン公ガストンとの骨肉の争い

 アンヌ王妃とのすれ違い

 有力貴族たちの裏切りや反乱

 ……などといった醜い内輪の争いに苦しめられてきたルイ十三世は、私欲で動く人間を蛇蝎だかつのごとく嫌い、無私無欲で純粋な心を持った人間を愛するようになった。


 だから、何の見返りも求めず、ただ慈悲の心だけで貧民救済の事業を行い続けるヴァンサン神父のことを敬っているのだ。

 無欲とは言い難いが、ブルボン王家とフランスの繁栄を第一に考えて辣腕らつわんを振るった宰相リシュリューのことも、「王であるちんよりもでかい顔をして憎たらしい奴め」と嫌いながらも、政治家としては一番信頼していた。


 それと同じように、生真面目なほど裏表のない忠勤ぶりを発揮し、何かあれば国王の元に真っ先に駆けつけるシャルルのことをルイ十三世は「我がそばにシャルルがいなければ落ち着かぬ」と言うほど頼りに思っていたのである。


 そして、スペイン軍との戦いで数々の戦功をあげたシャルルにスウェプト・ヒルト・レイピアを授けたのだ。

 それは、イタリアの腕利きの刀鍛冶がルイ十三世の注文に応じて作ったもので、かつて銃士隊長トレヴィルも褒美として所望したことがあった名剣である。


 シャルルは、ルイ十三世に近侍する中で、彼の精神的孤独や頻繁に病気にかかって苦しみながらも国王の激務に耐える責任感の強さを知り、


(心も体も決して万全な王様ではないが、この世の誰よりも真摯しんしな人だ)


 と、心の底から敬服するようになっていた。


 自分は、このお方を守る剣になる。そう心に決めたのである。


 そして、ひたむきに任務をこなし、正式な銃士となってから十年の歳月が流れた。二十八歳になったシャルルは、いまやルイ十三世が本音を語れる数少ない存在になっていたのだった。


 ルイ十三世は、いずれはシャルルに銃士隊を任せたいと考えていた。








 主君が自分に銃士隊の指揮権を渡そうと考えているとは想像もしていないシャルルは、病弱なルイ十三世の体が日に日に衰えていることだけを心配していた。バッキンガム公爵のことを自分が思い出させてしまったせいで、体調が悪化したのではと気に病んでいたのだ。

 ラ・ロシェルの包囲戦があった頃、まだ幼少だったシャルルは故郷にいたが、バッキンガム公爵とアンヌ王妃のよからぬ噂にルイ十三世が心を痛めていたという話は兄のポールから何度か聞いていたのである。


「陛下。……シャルロットの件、無理を聞いていただき、誠にありがとうございました。陛下にとっては、その……」


「その話はもうよい。朕は、もう王妃に何の感情も抱いてはいない。バッキンガム公爵に対する嫉妬や憎しみも、今は薄らいだ。結局、あの男もシュヴルーズ公爵夫人の陰謀に踊らされて死んだ哀れな犠牲者なのだ。

 ……シャルルよ。あの子はお前がパリに連れて来たのだから、責任を持って、シャルロットがシュヴルーズ公爵夫人の陰謀の道具にならないように見守るのだぞ。あの女狐めぎつねめ、シャルロットがリゼットの娘だと知ったら、必ず近づいてくるはずだ」


「……シャルロットにも『シュヴルーズ公爵夫人には気をつけろ』と忠告をなさっていましたね。なぜですか? 幾度となく国家転覆の計画を立てては失敗したあの女も、六年前にスペインに亡命してしまいました。今はイングランドに流れつき、ロンドンでひっそりと暮らしているそうです。もはや、あの女はそれほどの脅威では……」


「朕がイングランドに潜伏させている密偵の報告によると、リシュリューの死を知ったシュヴルーズ公爵夫人がイングランドを出国したそうだ」


 苦々しい表情でそう言い、ルイ十三世は、げほっ、げほっと咳いた。シャルルは「まさか、そんな……」と驚愕する。すでにこのフランスに入国しているのですか、とたずねるその声は若干震えていた。


 シュヴルーズ公爵夫人。

 フランス王妃アンヌ・ドートリッシュの親友でありながら、ルイ十三世とリシュリューを激しく憎んでブルボン王家の破滅を狙う、フランス最大の陰謀家。

 何度追放されてもフランスに舞い戻り、彼女がフランス国内に現れるたびに大きな政変や戦争が起きるのである。


「彼女がフランスに現れた」


 と聞けば、シャルルのような勇気に満ちあふれた銃士でさえ全身に緊張が走り、ひたいに嫌な汗がじっとりと浮き出てしまうのだ。


「フランス国内に入ったという情報はまだない……。恐らく、スペイン領からフランスに入国する機会をうかがっているのだろう。あの女は、スペインに亡命していた頃、フランシスコ・デ・メロと愛人関係にあったという噂だ。今頃、シュヴルーズ公爵夫人とフランシスコは、フランスを倒すための計画を立てているかも知れない」


「フランドル方面のスペイン軍は、昨年に続き、フランスの領内に侵入する機会をうかがっているはずです。そのスペイン軍の陰にあの女がいるとしたら……」


「間違いなく、厄介なことになる。大きな戦争が起きることは必至だ」


 ルイ十三世は、背中をずっとさすってくれていたシャルルを手でもういいと制すると、机上に広げたヨーロッパ各国の勢力図を見つめながらこう言った。


「フランスには、もうリシュリューがいない。朕はあの傲岸な枢機卿のことが大嫌いだったが、彼のたぐいまれな政治手腕と戦略眼にこの国が救われてきたことは確かだ。今、フランスに必要なのは、リシュリューに代わる国家の頭脳である。……朕は、スペインとの戦争の作戦をあの男に立てさせようと思う」


「あの男というのは……?」


 シャルルが緊張した面持ちでそう問うと、ルイ十三世は、ぎしっ……と椅子に深くもたれかかり、天井をにらんで答えた。


「ジュール・マザラン」


 イタリア生まれのマザラン枢機卿――宰相リシュリューが死に際し、「我が後継者にこの男を」とルイ十三世に遺言した人物である。


 そして、シャルル・ダルタニャンの後半の人生の鍵を握ることになる男だった。

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