7 国王ルイ十三世

 シャルルとシャルロット、イザック、アンリは王の執務室の扉の前に立った。


(国王陛下は、バッキンガム公爵の娘である私をどう扱うだろう?)


 だんだん不安になってきたシャルロットは、心臓の鼓動が激しくなるのを止められなかった。


「陛下。シャルル・ダルタニャン、帰還いたしました」


 シャルルが扉に向かってそう言うと、部屋の中から「入るがよい」という返事が聞こえてきた。


「シャルロット。少しの間、ここで待っていてくれ」


 シャルルはシャルロットにそう言い残し、扉を開けて執務室の中に入って行った。イザック、アンリもその後に続く。扉が開かれた時、ふわりと甘い匂いが部屋から漂ってきて、


(何かしら? 何だか、美味しそうな匂い……)


 と、シャルロットは思った。




 シャルロットを残して執務室に入ったシャルルたちは、ルイ十三世にうやうやしくあいさつをすると、モットヴィル伯爵暗殺の任務が成功したことを告げた。そして、あのモットヴィルの老怪物がスペイン軍の将軍フランシスコ・デ・メロと気脈を通じていたことや、フランシスコがフランドル方面のスペイン軍とノルマンディー地方の農民反乱軍によるパリ挟撃を計画していたことなども事細かく報告した。


 一方、廊下で待っているシャルロットは、気が気ではない。シャルルは自分のことをどのように説明し、国王を説き伏せてくれるのだろうか。そのことをずっと考えていた。


「バッキンガム公爵の娘など打ち首にしてしまえ!」


 ルイ十三世がそんなことを言い出したら……などと、不吉な想像をしてしまい、ここから逃げ出したい誘惑に何度も駆られていた。


(よ……弱気になったら駄目よ、シャルロット! せっかく自らの足で自分の人生を歩けるようになったのに、ここで逃げてどうするのよ。シャルルさんを信じなきゃ)


 シャルルは、「この娘のことが、放っておけないのです」と真剣な表情で言って、シャルロットを守ると宣言してくれた。フランスと敵対したバッキンガム公爵の娘をかばうような真似をしたら、ルイ十三世は激怒するかも知れないというのに。シャルルは出会って間もないシャルロットにとても優しくしてくれる。彼を信じなくて、誰を信じるというのだ。


 シャルロットは、さっきまでシャルルの大きな手に握られていた右手をそっと撫でながら、そう考えた。……まだ、シャルルの手の温もりが残っているような気がする。



 ガタッ、バーン!



 突然、目の前の扉が開き、ぼうっとしていたシャルロットは「きゃっ!」と小さな悲鳴を上げてしまった。ルイ十三世に「扉を開けるように」と命令されたイザックが、うっかりいつもの癖で、でかいお尻を突き出して乱暴に扉を開けてしまったのである。


「イザックの馬鹿! 陛下の前で行儀が悪いですよ!」


「あっ、しまった……。申し訳ありません、陛下」


 イザックが巨体を折り曲げて頭を下げると、「よい、よい。元気な男だな、イザックは」という笑い声が室内から聞こえてきた。


 この少々滑舌の悪い声の主は――。


「娘よ、入って来るがよい。拝謁を許す」


 フランス国王ルイ十三世だ。シャルロットは、さっきまで考えていた内容など頭から全て吹っ飛び、「は、はい……!」と夢中で返事をした。のどがカラカラで、声がかすれてしまっている。もつれそうな足を右、左、右……とぎこちなく動かし、前へと進んだ。


 王の執務室の中は、緊張のあまり気絶してしまいそうなシャルロットの心情とは相反し、鼻がおかしくなりそうなほどの甘ったるい匂いが充満していた。


(さっきも甘い匂いがしているなと思ったけれど……。これはジャムの匂いかかしら?)


 執務室というので書類や本が山積みになった部屋を想像していたのだが、机や本棚には、びんされたジャムが所狭しと並んでいた。


「驚いたか? ちんの趣味はジャム作りなのだよ」


 ジャムに囲まれて椅子に腰かけている面長の男が、少し照れながら言った。


 神経質そうなくぼんだ目は、憂いの光を帯びているように見える。あごは細く長く尖っていて、女性的な繊細さがあった。全体的に男らしい力強さというものが感じられない風貌ふうぼうである。

 ただ、やたらと出っ張ったひたいだけは唯一男らしく見えた。これは、ガスコーニュ地方の生まれであった父アンリ四世の遺伝だろう。ガスコーニュ人には、こういった突き出た額を持つ人間が多いのである。


「……お初にお目にかかります、陛下。私は……シャルロットと申します」


 アンヌ王妃の元侍女リゼットの娘

 バッキンガム公爵の私生児

 フランシスコ・デ・メロの養女

 いくらでも名乗る肩書はあったが、シャルロットはあえて「シャルロット」とだけ名乗った。


 ただ、そんな名乗り方はちょっと異常である。

 貴族というものは、先祖から脈々と続く血統を大切にし、親から受け継いだ爵位を誇りに思い、国王に拝謁する栄に浴した時には胸を張って自分の肩書を名乗るものなのだ。


 シャルロットの経歴についてシャルルからおおかた聞いていたルイ十三世は、気難しそうに顎をさすりながら「ふむ……」と言い、シャルロットにこうたずねた。


「娘よ。朕の前で、両親の名を口に出すことをはばかったのかな?」


 シャルロットの父親は、ルイ十三世に逆らって蜂起したユグノー(フランスのプロテスタント)たちが立て籠もるラ・ロシェルに救援軍を送ろうとした、イングランドの重臣バッキンガム公爵だ。また、母親のリゼットは、ルイ十三世によって宮廷から追放されてしまった罪人でる。

 だから、両親の名前を出せば国王の怒りを買うと思い、シャルロットは親の名前を口にしなかったのだろうかとルイ十三世は考えたのだ。


 ルイ十三世という国王は、国に仇なす者には苛烈な処罰を与える決断力と非情さを持つ一方で、シャルロットのような何の力も持たないか弱い存在の娘に対しては、


(朕は、いたいけな少女に、親の名を語ることも憚る悲しい気遣いをさせてしまったのであろうか)


 と、罪悪感を抱き、ひどく気に病んでしまうような繊細で純粋な心を持つという複雑な精神構造の人間だった。


 ルイ十三世が自己嫌悪に陥りつつ憂鬱そうな目でシャルロットを見つめていると、シャルロットは頭を振り、「いいえ、違います」と答えた。


「このパリには、自分の新しい人生を見つけるために来たのです。ままならない運命に振り回されて生きてきた過去の自分を捨てて、誰の物でもないシャルロットになりたいと願い、私は今ここにいます。だから、肩書をつけずに、ただ『シャルロット』と名乗るのが一番ふさわしいと思ったのです」


 シャルロットの言葉は、ルイ十三世の心にいささか響くものがあったらしい。王は目を見開き、「なるほど……」とうなずいた。


「誰の物でもないシャルロット……か。君は、なかなかたくましい娘のようだな。だが、何者にも支配されずに生きるというのは、相当難しいことだぞ。王である朕でさえ、リシュリューという男の奴隷であったのだからな……」


 ルイ十三世は自嘲じちょうぎみに笑い、小さくため息をつくと、手元にあった瓶詰のジャムを「これを君にやろう」と言ってそばにいたシャルルに手渡した。シャルルは、その瓶をシャルロットに持たせる。


木苺きいちごのジャムだ。王妃つきの侍女の仕事は忙しい。食事をゆっくりしている時間がなかったら、それをパンにでも塗って食べなさい」


「え……? あの……私……。ええと……?」


「はっきりと言わねば分からぬか? 朕は、君がパリにとどまり、王妃に仕えることを許可する」


「あ……ありがとうございます!」


 まさかシャルルがもう話をつけていてくれたとは夢にも想像していなかったシャルロットは、拍子抜けして一気に緊張が崩れ、涙がボロボロと両目からこぼれ落ちた。


 シャルルは微笑み、「シャルロットは運が良かったのだ。話がすんなりと上手くいったのは、たまたまヴァンサン神父が陛下のおそばにいてくれたおかげだ」と言った。


「え? ヴァンサン神父……?」


 シャルルにそう言われて初めて、シャルロットは、室内にさっきからずっといた一人の神父の存在に気づいた。


 その神父――黒の僧衣を身にまとった好々爺然とした老僧は、柔らかな日差しが差しこむ窓辺を背にして立ち、愛嬌のある笑顔でシャルロットをニコニコと見つめていた。


 シャルロットは、その老僧の顔に見覚えがあった。


「久しぶりですね、シャルロットさん」


「あなたは……。あっ、愛徳姉妹会あいとくしまいかいの……!」


 思い出した。

 シャルロットの母リゼットは、宮廷を追放された身でありながらアンヌ王妃に呼び戻されてパリに潜伏していた時、娘のシャルロットをアンヌ王妃のそばに置いてもらう一方で、自身は愛徳姉妹会という貧民救済の慈善活動をしている団体の中に紛れこんでいたのだ。そして、密かに王妃と連絡を取り合っていた。


 その愛徳姉妹会をルイーズ・ド・マリヤックという夫人と共に立ち上げた人物こそが、このヴァンサン神父だったのである。


 ヴァンサン神父とルイーズは、リゼットが追放処分を受けている身であることを隠していたため、何も知らないまま彼女を愛徳姉妹会の一員として迎え入れていた。


 しかし、潜伏がリシュリュー枢機卿に露見してリゼット母子が捕まりそうになると、愛徳姉妹会の人々にもその正体がばれてしまった。


 ヴァンサン神父は自分たちがあざむかれていたことを知っても、リゼットを責めるどころか、リゼット母子がパリから逃げる手助けをしてくれた。そういう経緯があったため、ヴァンサン神父はシャルロットにとって命の恩人と言っていい存在だったのである。


「私と会ったのはあなたが七歳の時だったのに、よく覚えてくれていましたね」


「ヴァンサン神父とルイーズさんが助けてくれなかったら、私たち親子はリシュリュー枢機卿に捕まっていました。そんな恩人を忘れるはずがありません。あの時は、本当にありがとうございました。……でも、なぜヴァンサン神父が国王陛下の宮殿に?」


 ヴァンサン神父は、足のまめを毎日潰しながらパリの街を歩き、貧困者たちに食料を与え、病人の看護をして、その僧衣はほこりまみれである。華やかな宮殿とはまったく縁がなさそうなヴァンサン神父が、どうして国王のそば近くにいるのだろうか?


「神父殿は、陛下の相談役として宮殿の出入りを許されているのだ。神父殿は今、パリに何千人といる、親に捨てられた赤ん坊や子どもを保護する慈善事業を行っていて、陛下はその活動を援助するために四千リーブルの年金を愛徳姉妹会にお与えになっている」


 シャルルがシャルロットにそう教えると、ルイ十三世が頷き、


「朕は、欲得なしに人々を救うヴァンサン神父の高潔な精神を尊敬している。王妃にも、ヴァンサン神父に教えを受けるようにとすすめているぐらいだ。そんな神父から、『母を失い、故郷と呼べる土地すらない哀れな少女に生きる場所を与えられるのは、陛下だけです。陛下のお心ひとつで、シャルロットという少女は死に、または生きることができるのです。どうか、少女にお慈悲を……』と懇願されてしまっては、朕も嫌だとは言えぬ。……それが、たとえバッキンガム公爵の娘であってもな」


 苦笑いしながらそう言って、フーッとため息をついた。トレヴィルが言っていた通り、やはり体調が思わしくないようだ。少し喋っただけで、ルイ十三世は疲れたように吐息をもらして眉をしかめている。そんな国王の様子をシャルルやアンリ、イザック、ヴァンサン神父は気にかけて、王がため息をつくたびに暗い顔をしていた。


「シャルロットよ、君にひとつだけ忠告がある」


「はい。何でしょうか、陛下……」


「宮廷には、人を利用して陰謀を巡らそうとするずる賢い人間がたくさんいる。君は、自分の母やトレヴィルの娘のように、宮廷の陰謀に巻きこまれないように注意しろ。特に気をつけなければいけないのは、シュヴルーズ公爵夫人……」


 そこまで言いかけたルイ十三世は急にゲホゲホとき込み出し、「シャルル。背中を……背中をさすってくれ」と苦しげに言った。


「はっ……。陛下……」


 シャルルは、国王の背中をさすりながら、イザックとアンリに目配せをした。これ以上の面会は王の体の負担になると考えたのである。


「では、我々はこれで失礼いたします。陛下、どうか今日はもうお休みくださいませ」


 アンリはそうあいさつをすると、シャルロットとイザックを連れて執務室から退出した。ヴァンサン神父も、ルイ十三世の容態を心配しながら「陛下、どうかご自愛を……」と言い、部屋から出て行った。

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