2 闇に浮かぶ銀十字

 モットヴィル伯爵が再び部屋に現れたのは、五、六分ほど経ってからである。用を足しに行くというのは嘘で、シャルロットが葡萄酒を飲んで、その毒が十分に効いてくる頃合いを待っていたのである。


「ちゃんと飲んだかい、シャルロット殿」


 錠を外して扉を開けたモットヴィル伯爵は、開口一番、そう言った。シャルロットはベッドに横向きに倒れてぐったりとしている。床には、空になった杯が転がっていた。


(反抗的な態度をとっていたわりには、あっさりと飲んだではないか。抵抗しても無駄だと諦めたのか、毒だと気づかないほど馬鹿なのか。

 ……まあ、そんなことはどちらでもいい。大切なのは、この子が、イングランド国王の寵臣であったバッキンガム公爵の血を引く娘だということだ。田舎貴族の娘ばかり抱いて飽きあきしていたが、スペインと取引したおかげで高貴な血筋の娘を我が物にすることができた。まさか、かつてイングランドの政治を牛耳ったバッキンガム公爵の娘が、スペインのフランドル総督フランシスコ・デ・メロの養女になっていたとは夢にも思わなかったが……)


 モットヴィル伯爵は、そんなことを考えながら、苦悶の表情を浮かべて倒れているシャルロットに近寄って行った。


 これまでの若い娘たちとの初夜よりも、モットヴィル伯爵の興奮は大きい。

 正式な妻ではない女から生まれた私生児とはいえ、自分よりも身分の尊い公爵の娘を今から汚すのだ。異常なまでに征服欲の強いモットヴィル伯爵にとって、たまらない快感だった。


 ぎしっ……とベッドが大きくきしむ。モットヴィル伯爵の巨体が、シャルロットのはかなくか細い体をおおった。


 虚ろな目をしたシャルロットは一言も発さず、唇を固く閉ざしている。その麗しい唇を無理やりこじ開けてやろうと考えたモットヴィル伯爵は、にたぁと不気味に笑いながらシャルロットに接吻せっぷんした。


 だが、その直後、モットヴィル伯爵は大きく目を見開き、狼狽ろうばいしたのである。しまった、やられたと自分の迂闊さに内心舌打ちし、慌ててシャルロットから離れようとした。


 さっきまでぐったりとしていたはずのシャルロットは急に元気になり、モットヴィル伯爵の首に手を回して力いっぱい抱きついていた。モットヴィル伯爵は、逃げられない。


 シャルロットは、口に含んでいた葡萄酒をモットヴィル伯爵の口の中に流しこんでいく。


「うっ……ぐ……くそっ!」


 モットヴィル伯爵は、ようやくシャルロットを振り払い、ベッドから転げ落ちた。そして、口に手を突っ込んで「うげぇ、うげぇ……」と必死になって吐いたが、かなりの量を飲んでしまったようで、手足がビリビリとしびれてきた。酒に混ぜていたのは痺れ薬だったのである。


 野獣のようなうなり声を上げて苦しむモットヴィル伯爵をベッドの上に立って見下ろしているシャルロットも、ペッ、ペッとつばを吐いていた。口に含んでいただけでも、指先が痺れてきているのである。こんな物をまともに飲んだら、当分の間は身動きができなくなるだろう。


「さよなら、モットヴィル伯爵! 私はあなたの玩具おもちゃになんかなりません!」


 ベッドから飛び降りたシャルロットはそう言い、燭台しょくだい蝋燭ろうそくを手に取ると、開け放たれた扉から逃げ出そうとした。


「待て! 誰か小娘を捕まえろ!」


 モットヴィル伯爵は、苦しみながらもそうわめく。毒が体に回り始めて大声は出せなくなっていたが、主人の部屋の近くにいた家来たちが異変に気づいた。


 廊下を走るシャルロットの後ろから五、六人の家来たちが追いかけて来る。捕まってしまう前にこの城館から逃げ出さないといけない。しかし、脱出しても、近辺はモットヴィル伯爵の領地だ。どうやってモットヴィル領から逃げたらいいのだろう。体の痺れがじわじわと強くなってきて、思考がまとまらない。


(……今はとにかく、必死に走らないと!)


 シャルロットは自分にそう叱咤して走り続けた。しかし、


「奥方様、お待ちください!」


 下の階へと降りる階段にたどり着く直前、一人の家来が追いつき、シャルロットの細腕をつかんだ。


「嫌!」


 シャルロットは、無我夢中になり、つかまれていないほうの右手を乱暴に振り回す。その手には、火がついた蝋燭が握られていた。


「あ、危ない!」


 家来は驚き、シャルロットの左腕を放して飛び退く。蝋燭はすぽっとシャルロットの手から落ち、廊下に敷かれていた絨毯じゅうたんの上に転がった。


 引火したその火は、意外な速さで広がっていく。家来たちは、城館が火事になったら大変だと騒ぎだし、シャルロットを追いかけるのも忘れて火を消すことに必死になった。


(ごめんなさい! 火事にならなければいいのだけれど!)


 シャルロットは心の中で謝り、階段を駆け下りた。足まで痺れてきている。時間が経ったら、まともに走れなくなるかも知れない。せめて城館から脱け出すまではもって欲しいとシャルロットは願った。……その直後、


「あっ!」


 階段の段数が残り少ないところで足をもつれさせてしまったシャルロットは、階段を転げ落ちた。


 体のあちこちが痛くて、思わずうめき声をあげたが、こんな所で倒れている場合ではないと考え、慌てて身を起こす。その時、こちらへとやって来る複数の女の声が聞こえた。三階の騒ぎに気づいた召使いの女たちだろう。


(どこでもいいから隠れることができる部屋は……)


 冷静に考えている暇はない。シャルロットは自分の直感に頼ることにして、一番近くにあった扉を押し開き、中に入った。


 そこは、大広間だった。だだっ広く、身を隠していられる場所などなさそうだ。


 どうしよう、どうしようとシャルロットは焦り、周囲を見回す。そして、


「窓……」


 ガラス窓に、目がとまった。


 一か八か二階から飛び降りてみようかと考え、シャルロットは窓に近づいてその外開きのガラス窓を開けてみた。


 少し離れた距離に、脱出にはおあつらえ向きの大きな木があった。あの木に飛び移ったら、安全に脱出できるかも知れない。


(でも、今の私にできるかしら? 手も足もだんだんと痺れてきている……)


 シャルロットは少し躊躇ちゅうちょした。しかし、神は彼女に迷っている時間など与えてはくれなかった。


「奥方様だ! 奥方様は大広間にいらっしゃったぞ! 奥方様、逃げないでください!」


 扉を開け放ったままにしていたのが失敗だった。思ったよりも早くに消火を終えた家来たちが大広間に入って来たのである。


「私は、あんなおじいさんの妻になんかなりません!」


 奥方様、奥方様と連呼されてカチンときたシャルロットはそう叫ぶと決心を固め、窓枠に足をかけて「えいっ!」と思いっきり飛んだ。


 だが、やはり足に力が入らなかった。飛距離が足りない。このままでは木に届かない。


(落ちる!)


 と思ったシャルロットは必死に腕を伸ばし、何とか木の枝につかまることができますようにと神に祈った。


「届いた! ……うわぁ!」


 シャルロットは木の枝にぶら下がることに成功した。

 しかし、その二、三秒後、毒による痺れのせいで握力が弱まっていたシャルロットは枝から手を放してしまい、落下したのである。落ちる途中、別の枝にお尻を打ち、腕をぶつけ、散々な状態でシャルロットは城館の外庭に倒れこんだ。奇跡的に骨折などはしていなかったが、激しく動いたせいで毒の回りがさらに早くなったようだ。シャルロットは自力で立ち上がることができず、大木に寄りかかりながら何とか体を半分まで起こした。


「その状態では、もう遠くまで逃げることはできまい。あきらめろ、シャルロット殿」


 知らぬ間に、シャルロットは十五、六人の男たちに囲まれていた。全員がそろいの黒マントを羽織っている。この屈強な男どもを率いているのは例の隻眼せきがんの男だった。


「イグナシオ……。あなた、まだこの城館にいたのですか?」


 シャルロットは今にも倒れてしまいそうなのを我慢して、イグナシオをにらみつけた。


「あなたをここまで護衛して来たのは、俺たちだ。送り届けた花嫁が夫と夫婦の契りを結んだのを確認するまでは帰るわけにはいかない。我が主君アスマル伯(フランシスコ・デ・メロ)にも、そうしろと命令されている」


 イグナシオの言葉には、人の心を凍らせてしまうような冷たさと凄みがある。シャルロットは「ぐっ……」とうなり、一瞬ひるんだ。しかし、すぐに勇気を取り戻して拒絶の意思をはっきりとさせた。


「私は、モットヴィル伯爵の妻にも、アスマル伯の駆け引きの道具にもなりません」


「あなたに、そんな自由はない」


 シャルロットの意思など知ったことか、ということだろう。イグナシオは突き放した口調でそう言うと、シャルロットの腕をつかんでぐいっと引っ張った。よろけたシャルロットは、イグナシオの前で膝をつく。


(せっかくあがいてみたのに……ここまでなの?)


 シャルロットは悔しかった。父であるバッキンガム公爵が暗殺された同じ日に生まれたシャルロットは、バッキンガム公爵の正妻にイギリスのロンドンから母子共々追い出され、フランスの首都パリ、スペイン領ネーデルラントと転々としてきた。


 パリではフランスに仇なしたバッキンガム公爵の娘であることがばれると宰相リシュリューに捕えられそうになって逃げ、ようやく落ち着くことができたと思ったスペイン領ネーデルラントも安住の地ではなく、母リゼットと結婚して親子を養ってくれていたフランシスコ・デ・メロはリゼットが病死するとシャルロットを簡単に見放して戦争の道具に使おうとしたのである。


 シャルロットは、自分が納得して選んだ人生を生きたい。このままモットヴィル伯爵の妻になり、あの老いた怪物に自分の人生を潰されてしまうなんて絶対に嫌だ。


(ここから……逃げたい! 私の足で、私の道を行きたい!)


 シャルロットは、強く、強く、そう思った。そんな時――。


「うぎゃぁぁぁ!」


 突如、城館の三階から、夜の静寂を切り裂く絶叫が聞こえてきたのである。


「何事だ!」


 イグナシオは驚き、空を見上げる。シャルロットは顔を上げる力もなくなっていてうなだれたままだった。それが不幸中の幸いだったと言うべきか、シャルロットは、魂を失ったモットヴィル伯爵の巨体が頭から落下して、グシャリという大きな音を立てて地面に叩きつけられる一部始終を見なくて済んだのである。


「も……モットヴィル伯爵!」


 冷血な剣士イグナシオも、これにはさすがに狼狽した。暗闇でよく見えないが、頭蓋骨ずがいこつが割れたモットヴィル伯爵の死体の周辺には脳みその一部が飛び散っているようだ。


 シャルロットも、イグナシオとその部下たちの騒ぎ声で、自分のすぐ後ろであの老人が息絶えているのだということを察した。


(いったい、何者が……)


 その場にいた誰もがそう考えた。その答えは、すぐに分かることになる。


「どうやら、イザックとアンリが上手くやったようだな」


 ざっ、ざっと草を踏む二人分の足音。「誰だ!」とイグナシオは怒鳴りながら振り返った。


 ちょうどその時、今まで夜空をおおっていた雲がはれていき、顔を出した満月が地上をゆっくりと照らし始めたのである。


 闇の向こうから浮かび上がったのは、銀色に輝く二つの十字架だった。夜露に濡れる草の上に倒れたシャルロットは、闇に浮かぶ銀十字を(綺麗だな……)と意識が混濁こんだくしつつあった頭でぼんやり思いながら見つめていた。


「貴様らが、噂に聞くフランシスコ・デ・メロの隠密部隊か」


「民衆を扇動するなどという姑息こそくな策を使わずに正々堂々と戦え、スペイン人」


 二つの十字架が、しゃべった。


 否、そうではない。口をきいたのは、十字架を胸に宿した二人の剣士であった。剣士たちは、鍔広つばひろの帽子をかぶり、澄んだ空のように鮮やかな青色のカザック外套がいとうを身にまとっている。カザック外套には大きな銀の十字架が刺繍されていた。


「あの服装は、近衛銃士隊このえじゅうしたい……! フランス国王を守る銃士がなぜこんな場所に⁉」


 イグナシオの部下たちは驚愕きょうがくし、次々に剣を抜く。イグナシオの驚きは、部下たちより何倍も大きかった。


「シャルル・ダルタニャン……。ようやく会えたぞ」


 イグナシオは、左目を覆う眼帯を手でおさえながら、ギリリと歯を噛みしめた。

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