1 私生児シャルロット

 厚い雲が、月を覆った。


 しかし、大地は赤々と燃え、真昼のように明るかった。


 その炎は、ノルマンディー地方の各地で蜂起した農民たちが都市の役所や役人の家々に放ったもので、彼らは口々に、


「リシュリューに死を! リシュリューに死を!」


 と、怨嗟えんさの声を上げながら放火していた。


 リシュリューとは、フランス国王ルイ十三世を上回る権力を持っていた宰相の名だ。枢機卿すうききょうの赤い僧衣を身にまといしその男は、スペイン帝国・ハプスブルク家との戦争に心血を注ぎ、増大する一方の軍事費を農民たちからしぼり取る税収でまかなったのである。


 その負担に耐えかねたノルマンディー地方の民衆は、アブランシュという都市で起きた裸足らそく党の乱を皮切りに暴発し、リシュリューに対する怒りの炎はノルマンディー一帯に広まった。


 リシュリューは軍隊をただちに派遣してアブランシュの反乱軍を討伐したが、裸足党の乱が鎮圧されて四年たった今でも小中規模の農民蜂起が続いていた。


 しかし、彼らノルマンディーの民たちは、まだ知らずにいたのである。その憎悪の対象であるリシュリューが、先月の一六四二年十二月四日に病死してしまっていることを。


「ふん、今夜もよく燃えておるわ」


 夜を焦がす炎をモットヴィル伯爵は城館の三階の自室から見下ろし、ほくそ笑んでいた。


 ノルマンディー地方の貴族たちから「モットヴィルの怪物」と呼ばれて恐れられているこの人物は、八十二歳の老人とは思えないほど脂ぎった肉体をしていて、顔や手足、胴体はぜい肉でぶくぶくである。そのくせ、目だけは研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、まるで獲物を狙う飢えた狼のようだった。


「あの老いた怪物の目にとまった美女は、二十歳まで生きられない」


 ノルマンディー地方ではそのような噂があり、実際にモットヴィル伯爵が四十数年の間に妻に迎えた三十人近い貧乏貴族の娘たちは次々と早死にし、彼女たちの没年は十代半ばか後半ばかりだった。


 娘たちの多くは、父親に多額の借金があり、金持ちのモットヴィル伯爵が借金を肩代わりすることを引きかえにこの怪物に嫁がされていたのである。


 そして、今夜、モットヴィル伯爵の館には新たな花嫁が連れて来られていた。


「我が領地モットヴィルにようこそ、シャルロット殿。君もここに立って見てみたらどうだ、闇夜に燃える美しい炎を。あの愚かな民たちは、わしの手のひらの上で踊らされているのだよ」


 窓辺に立つモットヴィル伯爵は、部屋の中央の椅子に腰かけている小柄な少女にそう言って微笑みかけ、彼女の艶のある茶色がかった黒髪、東洋の白磁のように白く透き通った肌を高まる興奮を抑えながらめ回すように見つめた。


「…………」


 シャルロットと呼ばれた少女は何も答えず、下唇をぎゅっと噛みながらモットヴィル伯爵をにらんでいる。その反抗的な態度が「自分がこんな所にいるのは不本意極まりない」という意思表示であることをモットヴィル伯爵はこれまでの経験で理解していた。


 この館に連れられて来た娘は、泣きわめいて親元に帰してくれと乞うか、頑なに拒絶して抵抗するか、だいたいこの二種類に分かれる。シャルロットは後者のようだ。


(気の弱そうな顔をしているが、中身は意外と芯の強い子なのかも知れない。気丈な娘をいたぶるのも一興だ。何日で儂に屈伏するだろうと考える楽しみがあるからな)


 非力な小娘に睨まれても恐くない。モットヴィル伯爵は余裕の笑みを崩さず、シャルロットの胸元で輝いている真珠の首飾りに手を伸ばして触れようとした。


「これは、君の父上――バッキンガム公爵の形見かね?」


 眉をしかめたシャルロットは、身をよじらせ、老いた怪物の丸々と太った指から逃げる。


「……あなたには関係のないことです。汚い手で触らないでください」


「ほう、やっと口を開いてくれたか。だが、いくら強がっても、そんな優しげな声では他人を恐れさせることも従わせることもできないぞ。大人しく儂の物となりなさい」


 そう言い、モットヴィル伯爵はシャルロットの絹のように柔らかい頬をそっと撫でた。


 ぞぞぞっと、シャルロットの背筋に寒気が走る。高齢にも関わらず健啖家けんたんかのモットヴィル伯爵は、毎晩、豚の丸焼きを食べている。その豚肉の脂が、シャルロットの頬に触れた指にべっとりとついていたため、非常に気持ち悪かった。


 たまらず、シャルロットは腰を浮かして逃げようとした。しかし、彼女の背後には左目に眼帯をした男がいて、シャルロットが逃げ出さないように見張っていたのである。


 隻眼せきがんの男は、無言でシャルロットの肩をつかみ、乱暴に椅子に座らせた。そして、いまだにシャルロットの華奢きゃしゃな体をいやらしい視線で舐め回しているモットヴィル伯爵に、こう言った。


「モットヴィル伯爵。約束通り、バッキンガム公爵の私生児しせいじを貴殿の元に届けた。貴殿も、我らとの約束を守ってもらいたい」


「分かっておる。貴様のあるじ、フランシスコ・デ・メロ殿に伝えておけ。三か月以内にノルマンディーの東部で大規模な暴動が起き、ガイヤールの古城を農民軍が占拠するであろう。そうすれば、フランドル方面から進撃した貴様らスペイン軍とノルマンディーの農民軍がパリを挟撃できる。……国王ルイ十三世を捕虜にすることも不可能ではない」


 モットヴィル伯爵は、シャルロットから視線を外さずにそう答えてニタリと笑った。


 フランス国内で多発していた農民の反乱には、宰相リシュリューが推し進めたフランス国王の絶対王政に不満を持つモットヴィル伯爵のような有力貴族たちが一枚噛んでいたのである。リシュリューは、フランスのブルボン王家に反抗的な有力貴族たちを容赦なく粛清し、後に来る太陽王ルイ十四世時代の王権の絶頂期の礎を築いて死んでいった。


 当然のことだが、貴族たちは王の権力に抑圧されることを嫌っている。モットヴィル伯爵もその内の一人である。方々で言いがかりに近い訴訟沙汰を起こして他人の財産や領地を奪い、大富豪となっていたモットヴィル伯爵は、農民の反乱軍に軍資金や武器を渡して後ろから操っていたのだ。


「リシュリューは死んだが、あの男が築いたフランスの絶対王政は崩れていない。儂たち大貴族には、強固な王権など邪魔なのだ。ルイ十三世の治世を終わらせるためならば、儂はスペインのハプスブルク家に手を貸す」


「その言葉を聞けて、安心した。ならば、全ては手はず通りに」


 隻眼の男はそう言うと、黒マントをひるがえして部屋から出て行った。


「さて、と……。ようやく邪魔者がいなくなったな」


 モットヴィル伯爵は、ふぅと小さく息を吐く。


「あの眼帯の男、イグナシオとか言ったか。よほどの数の修羅場をくぐり抜けて来たのだろう。異常なほどの殺気を漂わせておった。あんな血生臭い男がいつまでも部屋にいたら、美しい花嫁の顔を心落ち着いて眺めることもできぬわい」


 フンと鼻で笑うと、モットヴィル伯爵は机に置いてあった杯を手に取り、シャルロットに差し出した。杯には、葡萄酒ぶどうしゅが注がれている。


「ちと肉を食い過ぎて腹が痛くなった。儂は用を足してくるから、君はその間にこれを飲んで緊張をほぐしなさい。今日から我々は夫婦なのだ。仲良くやろう」


 モットヴィル伯爵は急に優しい声音になり、シャルロットの手を取って杯を持たせた。しかし、そんな気遣い、怪物と呼ばれるこの老人の良心から来ているはずがない。幼い頃から不幸な境遇にあって他人の悪意や害意を敏感に察する勘を持っているシャルロットには、すぐに分かった。


(昔、お母さんから聞いたことがある。モットヴィル伯爵という変態趣味の貴族は、自分の妻となった若い娘に毒を飲ませて、もがき苦しんでいる様を見て楽しむって……)


 昨年、三十五歳の若さで亡くなったシャルロットの母リゼットは、ノルマンディー地方に領地を持つ貴族の娘だった。だから、シャルロットは母から故郷で悪名高かったモットヴィル伯爵の噂を聞いていたのである。


(この葡萄酒には、きっと毒が入っているんだわ)


 ごくり、とシャルロットは唾を飲みこんだ。これを飲んでしまったら、シャルロットは体が動けなくなり、モットヴィル伯爵に何をされても抵抗できないだろう。


「儂が戻って来るまでに、必ずそれを飲んでおくのだよ」


 モットヴィル伯爵はそう言ってシャルロットの長い髪をねっとりとした手つきで撫でると、部屋を後にした。ガタン、と重い扉が閉まる音がする。


「…………」


 部屋に一人になったシャルロットは、葡萄酒の杯をしばらくの間じっと見つめてていたが、何とかして逃げられないだろうかと思考を巡らせながら、杯を机に置いた。


「扉は、モットヴィル伯爵が錠をかけてしまっていて開かない。窓は……ここは三階だから飛び降りるのは無理ね」


 広い部屋の中を行ったり来たりして脱出方法を探してみたものの、それは無駄な時間だった。完全に閉じこめられてしまっている。あのモットヴィルの怪物が、シャルロットが逃げられる状態で部屋に一人にするはずがないのだ。


(このままでは、私は死ぬまでモットヴィル伯爵の玩具だわ。そんなのは嫌!)


 シャルロットは、母リゼットが死ぬ直前に遺した言葉を思い出す。


 ――シャルロット。あなたは、母のように悪意を持った人間たちの陰謀に振り回されないで生きてちょうだい。神様から与えられた自分の人生は、誰の物でもない。あなたの物なのよ。自分が正しいと信じたことを行い、自分が心から尽くしたいと思う人のためだけに生きなさい。そうしないと、死ぬ時にきっと後悔するわ……。


「……お母さん。私は、こんな所にはいたくない。女を快楽の道具としか考えていないあんな怪物の妻になんかなりたくないよ。私はここを出て、パリに行く。そして、幼い頃に優しくしてくださった、あのお方にもう一度お仕えするんだ」


 そう決意したシャルロットは、毒杯を震える両手で持ち、ぐいっと杯を仰ぐのだった。

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