第43話 道徳・想像と創造、方法の放棄
中学での道徳の授業ほどつまらないものはない。私はいつも耳を大きく
今日の課題は、辻褄の範囲内での想像力と道徳的判断力、その逸脱、破壊についてらしい。
教師はそれを「想像と創造、方法の放棄」と言った。いかに自分勝手な想像が新たな創造を生んでしまうか。理性的で秩序ある社会を混乱させてしまうかについて話すようだ。勝手に想像を
しかし私には関係がない。耳を大きく塞ぎ続けた。
「
先生が私に聞く。
「耳を塞ぐのは自由です。聞きたくないものは耳を塞いで聞かなくていい。見たくないものは目を閉じて見なければいい。それ以上想像を
そう言って先生は話しを続けた。
「最近、この辺りで区画整理の話しが出ています。老朽化した住宅を壊し、空いた土地を他の用途に用いる。とても分かりやすいお話ですね。中学三年生の皆さんなら問題なく理解出来ると思います。しかしここで想像を巡らしてしまうことがある。空いた土地をどうするべきかなどについてです。またごく最近、近くの公園で事件が起きました。それについて想像を巡らす。いくらでも想像はできます。しかしその想像が道徳的であるかどうかは、辻褄によります。辻褄の範囲内で辻褄の方法にのっとっているかどうかがとても重要です。
何度も繰り返して言ってきましたが、辻褄から外れてしまうことは、社会から外れてしまうことにもなります。それは想像になります。それは創造でもあります。新たに社会を創造することは恐ろしいことです。社会は人工物であり、法律も制度も権利も人が建前上、合意の上に造り上げた社会的仮設です。いわば調整装置で玩具に過ぎません。しかしその元になる人間は決して人工物ではない。この矛楯を調整するのが辻褄でもあります。これは方法です。辻褄からの逸脱、想像の暴走は、方法の放棄に基づいていると同時に、更なる方法の放棄へと繋がってしまいます。
この地域で起きている区画整理についても公園での出来事に関しても、事件が起こる前に既に起こっていると考えてみて下さい。決着は付いていると。そう考えれば辻褄は合いますね。想像の入り込む余地は
母がいままさに心配していることだ。母は色々と思いを巡らし、どんどんと自己を閉じている。その問題に当てはまるし、私自身の想像とも繋がる。そう思ったが私は素知らぬ顔で耳を塞ぎ続けた。
(つづく)
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