第32話 身体の桎梏と殻の呪縛

 心の声から逃げるようにアパートを飛び出したはいいが、行くところがない。昼間の閑散とした住宅街をとにかく目的もなく歩いた。


 歩けば歩くほど私の心がはみ出してゆくのを感じた。アパートを離れたからといって心から逃げられるものではない。他でもない私の心だ。私が行くところには必ずついてくる。

 しかしはみ出し始めた心はどんどんと私から抜けてゆく。捕まえ取り戻そうとしても、私の手も意識も、心は簡単にすり抜けて四方八方に飛んでゆくのだ。

 歩きながら徐々に体が軽くなってゆくのを感じた。心が抜けた分、軽くなっているようだった。次第に私から心がすっかり抜けてしまったような感覚をおぼえた。

 体だけになった私はまた歩いた。殻になったまま歩き続けた。


 道端に咲く花がプラスチックに見える。この辺りには様々な花や草が生えていたはずだ。しかしどれも同じ物に見える。花は美しいものだったか、いまはさだかには思い出せないし、そんなことどうでもよくなっていた。

 不快さも不安も不思議なことにいまは感じない。ただこの道を当てもなく歩いているだけであった。


 それでも空腹は感じるようだ。昨日の公園での異様な出来事以来、何も口にしていなかった。

 私は道端に生える花を一つもぎ取って口にした。一度、食べてしまうと無性にまたさらに食べたくなる。地面に生える花だけでなく雑草ももぎ取って食べた。根が付いているものは根までかぶりついた。次第に空腹が満たされてゆく。味は関係ない。ただ空腹が満たされることに「美味しさ」を感じていた。あらかたこの辺りに生える花々、雑草を食べ終わったが、まだ足りない。まだ食べたい。


 側溝そっこうにカラスが数羽集っていた。事故にでもあったのだろうか、何かの生き物の死体にたかっているようだ。私もごく自然に側溝に顔を突っ込み死体に喰らいついた。数羽のカラスと並び、カラスに取られぬよう、ときに手で払いながら夢中で死体に噛みついた。

 ひととおり食べ終わったが、まだ体は食べものを激しく要求しているようだった。


 私はカラスを手に掛けようとした。カラスも食への欲求から紛れもなく私を狙っているようだった。

 カラスを捕まえようとするが、上手くいかない。同時にカラスが今度は数倍の群れになり私に襲いかかってくる。カラスは狡猾こうかつで、動きが素早い。私はカラスの群れにたかられた。腕に捉まり、頭を突く。熟練し、ある種洗練された野性で私に襲いかかり食べようとしている。


 私はカラスを食べることを諦め、たかるカラスをつかみ、思い切り地面に投げつけて走り出した。

 心がはみ出し抜けてしまったぶん、体はからのように軽くなっており、普段より早く激しく走ることが出来た。すぐにカラスたちの姿は見えなくなった。


 自分の姿がどうなっているか、まったく気にはならなかった。地ベタをい、側溝に顔を突っ込んで泥だらけになってはいたが一切、気にならなかった。


 ただ切実にまた講習を受けたいと感じていた。最後の講習になるが、強烈に講師の、それがたとえ戯言たわごとだとしても、話しを聞きたいと私の野性は欲していた。




(つづく)


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