第33話 最後の講習

 辻褄の法廷で義務づけられた講習の最終日だった。私は開講時間より一時間も早く会場に到着した。まだ誰も来ていない教室でひとり、講師を待った。


 徐々に受講生たちが集ってくるにしたがい、私の期待と興奮は高まった。


「みなさん、お早うございます。ご機嫌いかがですか」

 講師の愛想と声は相変わらずかんさわるところがあったが、以前ほどは気にならない。今日のテーマが何かは知らないが、早く本題に入って欲しい。どんなものであれ「言葉」が欲しい。そればかり考えていた。どこかで辻褄を渇望しはじめていたのかも知れない。


「今日がみなさんの最後の講習になります。長いことお疲れさまでした。

 以前にも申しましたように、この講習の目的はみなさんの不自然な歪みを矯正きょうせいし、辻褄の範囲を知ってもらい、そこに戻ってもらうことです。辻褄の規準からいえば不自然というのは理性的でないことを意味します。これもすでに申し上げました。また野性は別世界の問題とも申し上げましたが、それはそうなのですが、「人間の野性」と名づけられる例外があります。今日はそのことについてのお話しとなります。

 つまり食欲、性欲などの欲求や欲望、感情や情念に関して、辻褄の範囲内で、ご案内したいと思います。本来、欲求や欲望と感情はまとめて取り上げるべきものではありませんが、この講習は概論的な比較的軽いものですので、時間の都合もあり一緒にお話しします。

 これらは辻褄、合理性では説明が非常に難しいものであることは、みなさんも経験として御存知でしょう。これに流されると当然、辻褄から離れていってしまう。ときに法律や制度など、せっかくでっち上げた社会をも越えてしまう。壊してしまうものです。いわゆる倫理や道徳と正面から衝突するものでもあります。しかしこの欲求や欲望、感情、情念などは一方で大切なものでもあると、この辻褄の世界では、辻褄を合わせています。


 先ず感情などは、その「思い」だけで突っ走れる。そこに論理や合理性、辻褄が入り込む隙がない。それらを拒否することがその本質でもあります。その意味では、感情や情念などとよばれるものは邪魔であり難題でもあり、ときに悪でもある。非理性的、つまりは不自然なものです。辻褄の法廷でも裁けません。

 例えば、恋愛を例にとって申し上げれば、恋愛はご承知のように「あなたひとりだけ」で他を排除します。この不可解な闇を疑うものはまれでしょう。この規準となるものが、顔立ちや姿、性格が好ましい、あるいは嫌だ、キモチワルイという好みと不快感です。それ以外は未だに認められていません。年をとって老けているからみすぼらしいなどとも感じますね。これが具体的な場面で適用されますと、「あなただけ」「それ以外は不適合」となる分けです。この直接的な感覚や感情には辻褄も合理性もありませんし、倫理、道徳は欠片も介入しません。言うなれば、恋愛というものは、好みと不快に左右された感覚的で直情ちょくじょう的な選択と排除以外のなにものでもないことになります。これがこの世に存在するあらゆる差別のみなもとです。ですからひるがえっていえばその対象が親兄弟であっても犬やネコであってもいいことになりますし、実際それで構わないのです。そう捉えなければ、辻褄の世界での辻褄が合わなくなってしまう。だからこの世界では、これを認めている分けです。そうすれば辻褄の合わないことも、社会の仕組みとしての辻褄に合うからそうしています。犯罪などが許されているのも結局はこういうことです。辻褄の合わないものでも社会全体として辻褄を合わせるという分けです。

 ただこれは、別世界である野性とは便宜的に区別されています。人の心と体の両方が関わらなければならない唯一のものだからです。その意味で「人間の野性」と呼ばれるものです。道徳的にも悪であるに違いありません。しかしこれを排除してしまうと辻褄が一貫しなくなり、社会が混乱し世界が成立しなくなってしまいます。

 このように辻褄を第一規準としてこの社会も人間もなければならない分けです。


 これでみなさんの講習は終了となります。みなさんはまだ逸脱が軽い方々ですので、すぐに辻褄の範囲内に戻れるでしょう。それではみなさん頑張って下さい」




(つづく)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る