第70話「ジン、引退する」
大陸暦1100年1月6日。
毎年恒例の新年の祝賀会も無事に終わった。
今年は1100年という100年に一度の区切りの年であり、例年より祝賀会の規模が大きかった。そのこともあるが、60歳を過ぎてから少し無理をするとすぐに身体の調子が悪くなり、昨日は急遽休ませてもらった。
今日も万全とはいえない状況で、妻のマリーは「サイモン君とマシュー君がいるんですから、二人に任せて休んではどうですか」と言ってきたが、さすがに2日も休むわけにはいかない。
午前10時頃、久しぶりに店に行くと、マシューがサイモンや他の弟子たちから祝福されていた。
「何があったんだ?」と聞くと、
「遂にやったんですよ! マシューのレベルが8に上がったんです!」
普段は冷静なサイモンが興奮気味だが、俺も思わず、「本当か!」と叫んでマシューに駆け寄っていた。
「はい! 今朝久しぶりにパーソナルカードを見たら、レベル8になっていたんです! これも師匠やサイモンさんに教えていただいたお陰です。ありがとうございました」
そう言って大きく頭を下げた。
マシューは現在23歳。この歳でレベル8は信じられないくらい早い。うちの弟子でも一番早くレベル8になったのはフランクだが、彼でも28歳の時だ。
現在店を任せているサイモンも29歳でレベル8になっているから、5歳以上若くレベルを上げたことになる。
「マシューの努力が実ったんだ。おめでとう!」と言って涙ぐむ彼の肩をポンポンと叩く。
横にいるサイモンに「次はサイモンがレベル9になる番だな」と言うと、
「まだまだですよ。というか、そもそもレベル9になれないんじゃないかって思っているんですから」
「そんなことはないだろう」というものの、サイモンがいうことも分からないではない。
レベル9は俺がこの世界に来るまで伝説のレベルと言われ、美食の都と呼ばれているブルートンにすら一人もいなかった。
今では元宮廷料理長のレナルド・サッカレー氏がレベル9になっているため、伝説という話ではなくなった。しかし、サッカレー氏がレベルを9に上げてから四半世紀近く経っているが、後に続くものがいない。
そのため、レベル9になるには単に腕を上げるだけでは駄目なのではないかという話まで出ており、不安になっているのだ。
「これでマシューも独り立ちできるな」
「いえ、まだまだです。もっと師匠にいろいろ教えていただきたいです」
「そうか」と答えるが、実際マシューを手放すのは難しいと思っている。
マシューがうちで修業し始めたのは8年前で、彼の前から修業している見習いがいたが、今のところレベル7になった者はいない。
レベル6になった者も最近の和食ブームで独立する者が多く、店にいるのはレベル5以下と板場に立たせられない者ばかりで、ここでマシューが抜けると、俺とサイモンで回さなければならなくなる。
レベル7になるまでうちの店で修業しないのは、ある程度店を出せるレベルになったところで俺が独立を勧めるからだが、彼らが口を揃えて言うことがあった。
「サイモンさんやマシューと肩を並べられるとは思えないんです」
確かにこの二人の才能は俺から見ても目を見張るものがある。天賦の才に恵まれているマシューはもちろん、サイモンもトーレス王宮の宮廷料理長以上の才能がある。実際、サッカレー氏はサイモンの才能に感心し、自らの後継者にしたいほどだと言ったことがあった。
その二人がいる限り、この店では上に上がれないと思ってしまうのだそうだ。
「マシューに板場を任せることにする」と宣言する。
「師匠はどうされるんですか?」とサイモンが聞いてきた。
「店には顔を出すつもりだが、これを機に引退しようと思っている」
若いマシューのレベルが上がったことで踏ん切りがついた。
「やはり身体の調子がお悪いのですか……」と皆に心配される。
「いや、治癒師に見てもらったが特に悪いところはないそうだ」
その答えに皆が安堵するが、「それならどうしてなのでしょうか?」とサイモンが皆の疑問を代表する形で聞いてくる。
「酒造りとサッカレーさんの料理本作りの手伝いをしようかと思っている。他にもやりたいこともあるしな」
酒造りは以前から手伝っているが、最近新しい酒米がたくさん届くようになり、王立ブルートン醸造所の責任者ホレス・ティレット氏も方向性が見いだせないと零していた。
サッカレー氏の料理本だが、昨年出版された“和食大全”に刺激を受け、トーレス料理の本の執筆を始めた。
俺のタブレットの中にフレンチやイタリアンのレシピもあり、それも参考にしたいということで俺も手伝っている。
他にも東方諸国に新たな食材を探しにもいきたいと思っている。チャーリーのオーデッツ商会が探してきてくれるが、それでもまだ足りないものは多い。
それらも店の仕事に劣らず楽しい。更に店と違って時間に融通が利くことと立ち仕事でないことから、身体も楽だ。
「というわけで、この店の料理長はサイモンにやってもらう」
「俺が料理長ですか!」とサイモンが驚きの声を上げ、「キタヤマの看板を背負うなんて俺には無理です」と情けない声で言ってきた。
「お前以外に誰がやれるんだ? 何なら店の名前を“割烹サイモン”に変えて、店主になってくれてもいいんだぞ」
「そんなのもっと無理ですよ!」
「お前の腕なら充分だと思うから、この店を任せたいと思ったんだ。俺のために引き受けてくれないか」
そう言って頭を下げると、「頭を上げてください!」とサイモンが焦る。
「これは俺だけのためじゃない。お前のためでもあるんだ」
「俺のためですか?」とサイモンは困惑の表情を浮かべる。
「そうだ。8年前に俺がマシアに行った時、店を任せただろ。あの時、どうだった? 何か思うところがあったんじゃないか」
俺の問いにサイモンは遠くを見るような感じで昔を思い出している。
「あの時は不安でしたね。料理を作るだけなら何とかなったんですが、師匠の味をきちんと守っているのか、お客さんはちゃんと満足しているのかって不安でした。正直、“和食屋キタヤマ”の看板がこれほど重いとは思いませんでしたね」
「それなんだ」と俺が言うと、サイモンは何のことか分からず首を傾げている。
「この店の看板というか、俺の評判というのかは正直よく分からん。だが、お前はそれを意識しすぎていると思うんだ……」
俺の言葉をサイモンだけでなく、マシューたちも真剣に聞いている。
「……俺には経験はないが、名のある店を継ぐっていうのは確かに大変なことなんだろう。しかし、それに引きずられてはいけないと思うんだ。お前が作りたい料理を作り、やりたい店をやる。そうしてこそ、初めて一人前になったということじゃないかと思うんだ。俺自身、日本で店を出した時、無茶苦茶苦労した。だが、そのお陰で成長できたとも思っている。だから、お前もこの店を継いで、もう一回り大きくなってほしいんだ」
「そこまで俺のことを……」
俺の言葉にサイモンは涙を浮かべて聞いている。
「……分かりました。全身全霊をもって、この店、和食屋キタヤマの料理長を引き受けさせていただきます」
その宣言の後、マシューを始め、弟子たちから拍手が起きた。
親しい者にしか話していなかったが、この話は思いの外早く、広まった。
その結果、国王陛下からも呼び出されている。
「料理人を辞めると聞いたが、体調が思わしくないのか」
「いえ、体調は年相応だと思っております」
「では、理由は何なのだろうか」
「この先、私を受け入れてくれた、この国に恩返しをしたいと考えております。酒造りやサッカレー元料理長の執筆の手伝い、新たな食材探しも考えております。それだけのことをするには、今くらいの体力がないと難しいですから」
「そういうことであれば、致し方無い。新たな料理長もよい腕と聞くが、可能であれば、そなたの料理を時々食べさせてもらいたい」
「承りました。私も料理人を完全にやめるつもりはございませんし、お呼びいただけるのであれば、喜んでまいります」
こうして和食屋キタヤマの板場に立つことをやめた。
長年板場が仕事場だったため、最初のうちは寂しいという思いもあった。しかし、サッカレーさんのレシピ本の作成の手伝いを本格的にするようになり、同じように引退した者同士話をするうちに吹っ切れていった。
「私も息子に店を任せた当初は寂しかったものです。ただ、今までできなかったことがやれるようになって、これはこれで楽しいものだと思い直しましたね」
サッカレー氏の言う通り、俺も徐々に楽しくなっていった。
午前中にサッカレー氏の息子がやっている店に行ってレシピ本作りを手伝い、午後に一度店に顔を出してから醸造所に行って日本酒造りをする。
この他にもオーデッツ商会から新たな食材が入ったと連絡を受けると、すぐに行ってどんな食材か確認するなど、割と自由気ままな感じでやっていた。
サッカレー氏のレシピ本作りだが、この仕事も息子のケンがリーダーとして関わっている。
2度目ということでケンもやり方が分かったのか、戸惑うようなことはほとんど起きず、半年ほどで完成した。
「定量化というのは思った以上に大変ですな。2、3ヶ月もあれば完成すると思ったのですが」
俺も始める前は同じように短期間で終わると思っていた。
和食の場合、地元の素材にどう合わせるかという課題があったが、トーレス料理は当然地元の食材を使っており、食材を探すという手間がない。
また、サッカレー氏は自分のレシピをメモとして残しており、それを参考にすれば簡単だろうと思っていたのだ。
しかし始めてみると、そんなに簡単な話ではなかった。今まで勘でやっていたものを計量器で量ることになり、それが正しいのか確認する必要があるからだ。
確認のためには料理を一つ一つ作る必要があり、その際、分量の微調整を行うことも多く、時間が掛かった。また、今までと勝手が違うため、サッカレー氏ほどの料理人でも味付けに失敗し、何度かやり直している。
「私は楽しめましたよ。サッカレーさんの技術をほとんど見せていただけましたから」
完成したレシピ本は“トーレス王国宮廷料理レシピ集”というシンプルな名前のもので、和食大全と同様にイラストが多く、非常に美しい本となった。
俺の本と同じようにサッカレー氏の名を冠してもいいのではと冗談で言ったら、
「ならば、共著という形でキタヤマ殿の名も入れさせていただきますよ」と返されてしまった。
「このレシピはサッカレーさんのものですし、私自身、手伝い程度しかしていませんから、共著というのは勘弁してください」
実際、俺がやったのはタブレットで写真を撮ったこととできた料理の味を見させてもらったくらいだ。
「手伝い程度というのは謙遜のし過ぎですよ。いろいろと知恵もいただき、新たなレシピもできましたから」
「知恵というほどのことはないと思いますが」
「盛り付け一つとっても私には目から鱗でしたね」
この世界のトーレス料理は盛り付けにあまり工夫がなかった。サッカレー氏はその中でも美しく盛り付けることを心掛けているようだったが、色合いのバランスがあまり良くなかった。その点を指摘した程度で、特に何かした記憶がない。
そんな話をしたが、一応、協力者のところに名前は入っているものの、共著の話は無くなり、安堵している。
日本酒造りの方も順調だ。
ブルートン醸造所はできてから23年になる。その間に王家から潤沢な資金が投入され、設備規模は10倍以上になっている。また、杜氏のホレス・ティレットの指導の下、トーレス王国出身の蔵人も一人前になり、活気がある。
蔵人の多くが独立し、ブルートンだけでなく、北のリストンや冒険者の町グリーフにも醸造所ができている。
日本酒は昨年の和食ブームの前から割と人気があった。
飲みやすさと料理との相性の良さから、ビールやワインに次ぐ食中酒としてフランクの居酒屋チェーン店ポットエイトだけでなく、パブにも置かれるようになった。
需要が増えた理由の一つにドワーフが好んで飲むようになったことがある。
種族的に強い酒を好むが、食中酒に強い酒がなく、度数15度を超える日本酒を好んで飲むようになったのだ。強い酒と言えばウイスキーがあるが、さすがに料理には合わせにくいので、ドワーフたちもそれまではワインやビールを水のように飲んでいた。
ドワーフの飲む量は
そのお陰で日本酒の生産が追い付かないほどで、そこに和食ブームがやってきたため、醸造所は当初てんてこ舞いだった。
それでも量を増やすためにアルコール添加したような安易な安酒は作られず、一定以上の品質を保てたのは蔵人たちの心意気のお陰だ。
もっとも、品質が落ちればドワーフたちが黙っていないので、安酒を作れなかったということもある。
そんな中、俺が手伝ったのは最新の酒米“キタヤマニシキ”を使った酒造りだ。
キタヤマニシキは日本で言うところの愛山に近く、繊細な香りと深いコクが特徴だ。そのため、純米大吟醸や純米吟醸にするのだが、作り方を間違えると特徴を生かしきれず、ベテラン杜氏のホレスも悩んでいたほどだ。
俺は酒造りのプロではないが、日本でいろいろと酒を飲んでいたことから、簡単なアドバイスをしている。それは香り重視の酒を造ってみてはどうかということだ。
そのアドバイスに対し、ホレスは「香り重視ですか。この米ではもったいない気がしますが」と乗り気ではなかった。
「香りを引き出した後で、旨みをどう出すかを考えた方がいいのではないかと思っただけです」
「香りと旨みのバランスを取るのにどちらからアプローチするかということですか……なるほど」
いろいろとチャレンジし、面白い酒がいくつかできている。来年辺りには商品化できるだろう。
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