第45話「ジン、酒に名を付ける」

 大陸暦1077年9月10日。

 醸造家ホレス・ティレットが店に来てから半年ほどが過ぎた。

 その間、酒造りの準備が着々と行われている。


 まず醸造所を作る場所の選定から始まった。

 大消費地であり、交通の要衝でもある王都ブルートンに近い場所で、日本酒に適した水が豊富にあることが条件だ。

 その条件に一番合った場所が、ブルートンの西に2キロほどにあるバイデンという廃村だ。


 バイデンは6年ほど前の水害で家屋と畑が水没した。

 この土地は元々水はけが悪く、小麦はおろか根菜類の生産にもあまり適していなかった。そのため、豆類や葉野菜を作って王都に売っていたそうだ。


 主食用の麦が取れないことと収入が安定しなかったことから、復興に力を入れるより、別の村に移住した方が手っ取り早いということで廃村になったらしい。


「水はけはあまりよくないですが、湧水が豊富にあるそうです。元住民に聞くと、飲みやすくて年中冷たいそうです」


 調査を行った産業振興局の情報をダスティンが説明してくれた。


 俺も一度見に行ったが、山と言うほどではないがやや高い丘があり、深い森になっていた。その麓辺りに泉があり、飲んでみると雑味を感じない軟水だった。

 同行したホレスも味を確認し、太鼓判を押している。


「この水はいいですね。トーレスの水は割と雑味を感じるので、これなら十分にサケに使えます」


 トーレス王国も水自体は豊富だが、石灰岩が多いためか、硬度が高い水が多い。

 硬水でもスッキリとした辛口の日本酒になるから問題はないのだが、鉄分などを含んでいると雑味になってしまうので、注意が必要だ。


 その点、バイデンの水は日本の水に比べれば硬度は高いが、十分に日本酒に適した水と言えるだろう。

 ただ、正確な硬度を測るすべはないので、俺の感覚での話だが。


 ホレスと俺の意見が一致したため、バイデン地区に酒蔵を建設することが決まった。

 既に醸造に必要な機材は発注済みで、4月から建設が始まった。

 建物自体は7月に完成し、スールジア魔導王国から届いた魔導具やマシア共和国から届いたタンク類を設置していった。


 僅か半年で本格的で最新の設備が整った。

 設備と共に酒造りに携わる人たちも集まっている。

 マシア共和国から招聘した蔵人が主体となるが、トーレスからマシアに修行に行った若い醸造家も戻っていた。


 責任者のホレスが30代前半であることから分かるように、全体的に20代半ばの若者が多い。更に女性の姿もちらほらと見られ、華やいだ感じがするほどだ。


 そして、今日開所式が行われる。

 この式典にはヘンリー国王本人が主賓として出席する。そのことにダスティン以外の全員が驚いていた。もちろん俺も含まれる。


「陛下が直々にお越しになるとは思っていませんでしたよ」


 俺がそう言うと、ダスティンはニコリと笑い、


「陛下は常々、この計画を気にかけておられます。王国の命運を左右するほどのプロジェクトになるとお考えなのです」


 酒蔵を作るだけで王国の命運を左右するというのはいささか言い過ぎな気もするが、ここで成功すれば、蔵を一気に増やす計画だ。作った酒はトーレス王国内だけでなく、ハイランド連合王国やアレミア帝国に輸出することも考えているらしい。

 現在の輸出品の主力であるワインとブランデーに次ぐものとして、期待しているのだそうだ。


 国王の挨拶でもそのことがひしひしと伝わってきた。


「……この計画には我が国の未来が掛かっているといっても過言ではない! ぜひとも成功させ、新たな酒と料理を世に送り出してほしい!……」


 挨拶の後、国王は蔵人一人一人に声を掛けていく。

 その行動にホレス以下の蔵人たちは皆感激していた。特に王国出身者は遠目にすら見たことがない雲の上の存在である国王から直接声を掛けられたことで感激のあまり号泣する者すらいたほどだ。


 この酒蔵は“王立ブルートン醸造所”と名付けられた。

 式典が終わった後、最終的な調整が行われ、10月から試験的な醸造が始まる。本格的な酒造りは11月からで、酒ができるのは年明けになる予定だ。


 10月に入り、試験醸造が始まった。

 店があるため、毎日来るわけにはいかないが、3日に一度くらいは顔を出すようにしている。

 僅か2キロメートルと近く、道も整備されたことから、30分ほどで来ることができるためで、ランチが終わった2時頃に店を出発しても1時間以上滞在できる。


 最初はオーソドックスな純米酒を醸造する。

 精米歩合は7割で、酵母はマシア共和国で最も使われているものだ。ホレスがいたヴェンノヴィア醸造で言えば、ハディンリバーが一番近い。


「水はどうですか?」ともろみ作りをしているホレスに聞くと、


「思った以上にいい水ですね。これならオールド・ノウチのような薫り高い酒を造ってもいいかもしれません」


 オールド・ノウチはヴェンノヴィア醸造の最上位ブランドで、杜氏のハリス・ロートンが手掛けた銘酒だ。その中でも4年前に俺が名付けた酒米、ノウチニシキを使ったものはすっきりしているが、米の香りが優しく、日本でも銘酒として十分に通用する酒だ。


 若い蔵人たちも生き生きとして働いている。

 マシア共和国の蔵はベテランが多く上下関係が厳しいが、新しい蔵ということで自由な雰囲気で酒が造れるためだ。また、この蔵が成功すれば、次々と新たな蔵が作られることが決まっており、その責任者に抜擢してもらおうとやる気に満ちているのだ。


 試験醸造にトラブルはなく、11月に入ったところで、本格的な酒造りが始まった。

 マシアから届いた米を使い、精米、洗米、蒸米、麹造りなどの工程を経て、仕込みが始まった。


 このプロジェクトの責任者であるダスティンは毎日顔を出しているようで、徐々に酒になっていく姿に感動していた。


「ワインやビールより複雑なのですね。話では聞いていましたが、これほど多くの工程があるとは思っていませんでした。しかし、楽しいものですな」


「そうですね。私も蔵の見学にはよく行ったのですが、すべての工程をきちんと見たことはなかったので、これほど大変だとは正直思っていませんでした。蔵人たちの努力には頭が下がる思いしかありませんよ」


「同感です。成功した暁には盛大に祝杯を挙げたいものですね」


 国王と内務卿のランジー伯爵も1度見学に来ており、同じように感動して帰っていった。

 しかし、国王が開所の式典で演説しただけでなく、見学に来たことで、他の貴族たちからの見学希望が殺到した。


 ほとんどの貴族はランジー伯から、「今は成功するかどうかの大事な時期であるから遠慮してほしい」と伝えられて断念したようだが、フォーテスキュー侯爵だけは諦めなかった。


「我がフォーテスキュー家に隠さねばならんことなのかな。王国の資金を投入したのであれば、私にも見る権利はあると思うのだが」


 国王すら遠慮する大貴族であり、また言っていることは正論であるため、ランジー伯も断り切れなかったようだ。

 その対応をダスティンがすることになったのだが、随行員が50名ほどとあまりの多さに対応に苦慮していた。


「ほとほと困っています……」とダスティンが零していたので、


「雑菌が混じると酒の品質に関わるから、少人数でしか入れないと正直に言うしかないですね。それでも無理強いするなら、酒がダメになったら責任を取ってもらうと陛下に脅していただくしかないでしょう」


 国王ですら護衛の騎士2名とダスティンだけしか一緒に入っていない。これは最初にホレスや俺がワインやビールに比べ、日本酒は管理が難しいときちんと説明しているからだ。


 結局、ダスティンやランジー伯ではらちが明かず、国王から「余ですら僅か3人しか連れていかぬのに、侯爵はそれでもその人数で入るというのか」と言ってもらい、侯爵も渋々諦めたと教えてもらった。


 そんなことがあったが、酒造りは順調で12月に入り、もろみを絞る上槽じょうそうという工程に入る日がやってきた。


 この日にも国王は来ていた。


「この日をどれほど待ち望んだことか」と言うほど、期待に満ちた目で圧搾機を見つめている。


 圧搾機は撥ね木式と呼ばれるもので、酒の元になるもろみを入れた酒袋をふねに並べ、てこの原理を使った“撥ね木”で圧縮して酒を搾っていく。


 ホレスの指示でゆっくりと圧力が加えられていくと、槽口ふなくちから僅かに琥珀色をした透明な液体が流れ出てくる。


「おお!」と国王が感嘆の声を上げるが、他の者は誰一人口を開かず、作業を見入っていた。


 ホレスが槽口から酒を取り、状態を確かめる。

 小さく頷くと、大ぶりのワイングラスにそれを入れ、国王の下にやってきた。


「王立ブルートン醸造所最初のサケでございます」と言って、恭しく差し出す。


 後ろにいた鑑定士が鑑定を行い、問題ないことを確認した後、国王がグラスに口を付けた。


「こ、これは……」と一言だけ言い、すぐにグラスに集中する。


 その間に俺たちにもグラスが運ばれてきた。

 受け取ったグラスを見ると、薄にごりのように僅かに白濁しており、炭酸の泡も見ることができる。

 グラスを傾けると、爽やかな日本酒の香りとふくよかな米の香りが同時に鼻をくすぐる。


 口を付けると、搾りたて特有の微炭酸の酸味を舌先に感じ、更に酒の甘い香りが口に広がる。


「これは美味い……これで純米なら純米吟醸や純米大吟醸ならどれほどの味になることか……」


 思わずそう言ってしまうほど美味い酒だった。


「いかがですか」とホレスが俺に聞いてきた。


 国王の感想を先に聞くべきだと思ったが、まだ愛でるように飲んでいるため、先に俺の感想を聞きに来たようだ。


「いい酒ですね。この生酒のままでも美味いですが、生詰なまづめで熟成させたものも飲んでみたいですね」


 生詰は瓶詰め時に一度だけ火入れを行う酒のことだ。

 火入れは60から65度のお湯で30分間加熱するパスチャライズ法を使い、酒の発酵を止める工程のことで、通常は瓶詰め時と瓶詰め後の2回行われる。


 ちなみに“生酒”はその名の通り、火入れを一度も行わないフレッシュな酒で、“生貯蔵酒”は火入れを行わずにそのまま貯蔵し、出荷時に火入れを行う酒だ。


「私も同じことを思いました。もちろん、最初は2回火入れにするつもりですが、試験的に生詰はやってみるつもりです」


 俺たちの話を聞いていたダスティンが「生酒は出さないのか?」とホレスに聞いた。


「ええ」と頷いた後、


「水やボトルの殺菌がどの程度きちんとしているのか確認中ですので、今回は生酒も生貯蔵酒も見送るつもりです」


 火入れの目的は酵母を死滅させて発酵を止めることが主だが、味に変化をもたらす雑菌を死滅させる目的もある。特に乳酸菌は火落ひおち菌と呼ばれ、日本酒にとっては大敵だ。


「もったいないですね」とダスティンは俺に向かって言ってくるが、こればかりは醸造家の判断なので俺にどうこうできる話ではない。


「これだけきちんと管理しているんですから、すぐに生酒も出してもらえるようになりますよ」


「そうですね。楽しみに待つことにします」


 そんな話をしていると、酒に夢中になっていた国王が俺に話しかけてきた。


「この酒に名を付けねばならん。キタヤマ殿、よい名はないか」


「わ、私が付けるのですか!」と驚くが、俺以外の誰も驚いていない。


 随行していたランジー伯も「我々にはサケの名を付ける流儀が分からぬのですよ」と言ってきた。


「うむ。マシアの酒の名は独特であり、それはニホンの流儀をそのまま用いていると考えておる。ならば、我が国も本場ニホンと同じように名を付けるべきではないかと思うのだ。そこで一番ニホンのサケに詳しいキタヤマ殿に付けてもらうのが一番であろうと考えたのだ」


 言っていることは分からないでもないが、別に普通に土地の名を付けてもいいような気がする。


「ブルートンではいけませんか?」と提案してみたが、国王もランジー伯もあまり納得していない。


「……では、ブルートンホマレではいかがでしょうか?」


「ホマレと言うのはどのような意味があるのかな?」


「名誉とか、誇りという意味で、日本では酒の名によく使われています」


 最初は“ブルートン正宗”にしようかと思ったが、“正宗”は“正統な”という意味なので、それよりも今の国王の心情に近い、“誉”にしてみた。


「……ブルートンホマレ……ブルートンの誇り……うむ。まさに余の今の気持ちを表しておる。ティレットよ。この酒の名を“ブルートンホマレ”とするが、それでよいか」


 国王に突然振られたホレスは驚くが、すぐに満面の笑みで「もちろんでございます!」と答える。


「では、この酒の名はブルートンホマレとする! 皆の者! その名に相応しい酒を造り続けてくれ!」


 国王の言葉にその場にいた蔵人たちが一斉に片膝を突き、「はは!」と言って頭を下げた。


 勢いで名を付けてしまったが、俺としてはこれでよかったのかと思わないでもない。

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