第44話「ジン、新たな一歩を踏み出す」

 ヘンリー国王に寿司を出してから半年ほど経った、大陸暦1076年5月。

 海賊問題などがあった昨年、一昨年と異なり、今年は店の経営も順調だ。

 弟子たちが頑張ってくれるおかげで、家族との時間も取れ、妻のマリー、娘のケイトとも楽しい時間を過ごすことができている。


 そして今日、妻のマリーから嬉しい知らせを聞かされた。


「できたみたいです……赤ちゃんが……」と上目遣いで恥ずかしそうに話す。


 その言葉に一瞬頭が真っ白になるが、すぐに彼女を抱き締め、「ありがとう!」と叫んでいた。


「で、いつ生まれるんだ!」


「産婆さんに聞いたら、12月くらいだそうです」


 俺たちの会話に首を傾げているケイトを抱き上げ、


「ケイトもお姉ちゃんになるんだぞ。よかったな」


「お姉ちゃん?」と更に首を傾げる。5歳になったばかりの子供には理解できなかったようだ。


「赤ちゃんが生まれるんだよ」


「赤ちゃん! ねぇ、いつ生まれるの! 早く見たい!」とはしゃいでいる。


 ダスティン・ノードリーたちに報告すると、皆喜んでくれた。


 子供が生まれると、いよいよこの店では手狭になるが、今のところいい物件がなく、移転の話はストップしたままだ。

 そのことを事務方のトップであるフィル・ソーンダイクにいうと、


「それなら家だけでも借りてはどうですか? ここにはジェイクたちが住んでいますから、完全に店が無人になることもないですし、今の収入なら結構な豪邸に住んでも全然問題ないですよ」


 フィルは経理担当であり、更に元役人であるため、彼が言うなら問題ないのだろう。

 しかし、俺のような小市民には豪邸は似合わない。そのことを言うと、


「ジンさんは自分の価値を未だに理解していませんね」と呆れられる。


 フィルだけでなく、一番弟子のジェイクまで呆れた表情で、


「国王陛下に料理を出すような料理人なんですよ。サッカレー料理長のように貴族街に屋敷を構えても全然おかしくないです」


 この国、トーレス王国は美食の国と言われ、料理人の地位は高い。

 宮廷料理長であるレナルド・サッカレーを始め、歴代の料理長は貴族街と呼ばれる高級住宅地に屋敷と言えるほどの豪邸を用意されている。


「そうは言ってもなぁ」


「なら、貴族街に近い商業地区に家を借りましょう。そのうち2軒目の店もその辺りに出すことになるでしょうから便利ですし、マリーさんも実家が近い方がいいでしょうから」


「そうだな。チャーリーにいいところがないか探してもらおうか」


「ダスティンさんにお願いした方が早いですよ」とチャーリーが言うが、


「産業振興局長にそんなお願いはできないよ」と苦笑する。


「構いませんよ。ジンさんの家を探すのなら、内務卿閣下も仕事として認めてくれるでしょうから」


 最後の方は冗談のようだが、国王の信任篤い高級官僚のダスティンに頼むことではない気がする。


 断ろうとしたが、チャーリーとフィルも加わり、どの不動産屋と交渉するかという話を始めており、断るに断れなくなった。


 3日後、ダスティンとチャーリーがいい家があったと報告に来た。

 場所はブルートンの中心にある時計塔から見て南に200メートルほどと貴族街と商業地区の境辺りだ。今の店から西に300メートルほどと近く、マリーの実家からも5分もあれば行ける。


 昼の営業を終えた後、ジェイクたちに店を任せ、マリーとケイトを連れて物件を見に行った。


 門が付いた3階建ての一軒家で、貴族の豪邸とまではいかないものの、老舗の商人の屋敷と言っていいほど立派だった。

 中を見ると、ホールと言っていいほど大きなリビングがあり、部屋も10部屋もあった。結構広い裏庭もあり、周りもうるさすぎず、環境としては非常にいい。


「4人家族にはデカ過ぎないかな」というと、


「家賃は月に1500ソル。このクラスの物件なら格安ですよ」


 1500ソルは日本円で言えば15万円ほどだ。日本にいる頃なら15万円もする家を借りるのかと考えたかもしれないが、今の収入から考えれば全く問題はない。

 それよりも安すぎることの方が気になる。町の中心に近く、治安のいい貴族街のすぐ横という好立地にしては異常なほど安い。


「ランジー伯爵閣下の所有されている屋敷なんです。元々は領地から来る家臣の宿舎として使っておられたそうですが、官庁街から少し離れているのでほとんど使っていなかったそうです。ジンさんになら、ただでもいいとおっしゃっておられたのですが、それだと遠慮されるからと月1500でということになりました」


 内務卿のランジー伯所有だから格安というのは納得できるが、これだけ大きな家がいるのかという疑問が消えない。


「広すぎるなら、たくさん子供を作ったらいいんですよ。マリーもまだ若いんですから」


 チャーリーにからかわれる。


 マリーの意見も聞き、この屋敷を借りることに決めた。それに合わせて、メイドを雇うことなどを決める。


 住み心地はよく、マリーもケイトも気に入ってくれた。ただ、部屋が余っているのがもったいないと思っている。

 そのことをダスティンに話すと、


「そのうち、国内外からジンさんを訪ねてくる客が増えるんですから、客室はあった方がいいですよ」


「客ですか?」


「料理人が教えを請いに来るでしょうし、サケ造りでいろいろな人が会いに来ると思います」


 既に日本酒造りでは何人もの人と会っており、ダスティンの言うことは間違っていない。


 引っ越しを終えて半年ほど経った12月。

 寒さが増す中、マリーが産気づいた。

 俺にとっては1人目の子供ということで落ち着かないが、マリーの方が余裕があり、「大丈夫ですから」と逆に宥められてしまう。


 12月10日の深夜。

 男の子が生まれた。マリーも赤ん坊も元気でそのことが一番うれしかった。


 名前は悩んだ末に“ケン”と名付けた。

 漢字で書けば“健”で、健やかに育ってほしいという意味を込めたのだが、日本人の名前であり、この国でも特に違和感がないというのも理由だ。


 それから我が家は今まで以上に明るく賑やかになった。


 子供が生まれてから1ヶ月後。

 今年も年末年始の国王主催のパーティの手伝いを行い、ようやく落ち着いた頃、宮廷料理長のサッカレーが家を訪れた。

 つい一週間ほど前にも王宮で会っているため、何があったのだろうと不思議に思った。


 家に入るなり、俺の手を取り、頭を下げた。


「私もようやくレベル9になりました。キタヤマ殿のご指導のお陰です!」


「料理スキルがレベル9! おめでとうございます!」


 それまでレベル8で停滞していたサッカレーだが、ようやくレベルが上がったのだ。

 これで歴代料理長の中で唯一のレベル9ということになる。


「ですが、まだまだ精進します。ようやく料理とは何かが分かり始めてきたところですから」


 サッカレー料理長は今年52歳になる。料理人としては円熟味が増す年齢であり、このままいけばレベル10に到達する可能性もある。


「では、次はレベル10ですね。サッカレーさんなら成し遂げそうな気がします」


 俺の言葉にサッカレーは苦笑を浮かべた。


「私よりもキタヤマ殿の方が先でしょう。少なくとも4年以上前からレベル9なのですから」


 俺自身、スキルレベルにあまりこだわりがなく、半ば忘れている。


「そうですね。ですが、私は日本から来た時から腕は上がっていませんし、知識もあまり増えていませんから」


 日本にいる時なら、自分より腕のいい料理人の店に、勉強のために食べに行くことはよくあった。

 しかし、この世界に来てから参考になる料理人は少なく、食材の知識は増えたものの、料理のレパートリーはほとんど増えていない。

 こんな状況ではレベル、つまり腕は上がらないだろう。


「そうですかな? 私は近々上がるのではないかと密かに思っているのですよ」


「そう言っていただけるのはありがたいですが、自分では無理だろうなと思っていますよ」


「私のような者が言うのもなんですが、率直に言って、初めて会った時より腕を上げられていると思います。特に弟子を取られてから、いろいろと工夫されていると感じています」


 確かにジェイクが来てから、和食とは何かということを教えるためにいろいろと考えている。しかし、それが腕を上げることにつながっているとは思えない。


 サッカレーが帰った後、そのことをじっくりと考えてみた。


(日本にいる時は修行中に後輩に教えることはあっても、自分の店を持ってからは誰にも教えていなかったな。人にものを教えるというのは自分の理解を深めることにつながると聞いたことがある。サッカレーさんが言いたかったのはそう言うことかもしれないな……)


 それからそのことを意識して教えるようになった。


 それから2ヶ月ほどが経ち、3月になった。

 ダスティンが1人の男を連れて店にやってきた。

 その男は俺より5歳くらい下の30代前半くらいで、背は低いが太い眉とがっしりとした顎で存在感がある。


「こちらはホレス・ティレット氏です。ヴェンノヴィア醸造のロートン社長の紹介で、ブルートンに醸造所を作るために来てくれた方です」


「ホレス・ティレットです。社長からお噂は伺っています」


 そう言って頭を下げる。


「ジン・キタヤマです」とあいさつした後、ダスティンに向かって、


「マシアに行ってから4年くらいですか……ついに本格的に酒造りが始まるんですね」


 試験的な醸造は既に始めているが、良質な酒米を安定的に供給できるようになったのはつい最近のことだ。今から醸造所を建設して、来シーズンの酒造りに挑戦するのだろう。


「顔合わせを兼ねて、ジンさんの料理を味わってもらおうと思いましてね」


 そう言って意味ありげな視線を送ってきた。責任者の品定めをしろということなのだろう。


「では、お任せでいいですか?」と一応確認する。


「よろしくお願いします。できれば、うちのサケに合うものがあればうれしいのですが」


「もちろん用意しますよ。ロートン社長からはいつも美味い酒を送っていただいていますので」


 相手も俺の品定めをするつもりのようだ。


 と言っても俺がやることはいつも通り、美味い料理を出すことだけだ。

 突き出しの青菜のお浸しを出し、ハディンリバーの純米酒を出す。この純米酒も新しい酵母を使ったもので、しっかりした米の旨味に華やかな香りがある。


「野菜に新しいハディンリバーの純米ですか……」


 少し意外だったようだ。


「何か気になりますか?」


「いえ、この酒は華やかなので、あっさりしたものだと料理が負けるのではないかと」


 意外にはっきりとものを言う男のようだ。


「一般的にそうなりますね。ですが、一度召し上がってみてください。割と合うと思いますよ」


 ホレスは器用に箸を使い、青菜を摘まむと口に入れる。


「……これは美味い! 社長がおっしゃっていた通りだ!」


 それまでの緊張した面持ちから僅かに笑みが零れていた。

 そして、酒の入った猪口を口に付ける。


「こ、これは! なるほど……」


 どうやら俺の狙いに気づいたようだ。


「確かにこれは合います。醤油の塩加減と柑橘の爽やかさがハディンリバーの香りに実によく合う。さすがは社長が教えを請いたいとおっしゃった方です」


 ホレスの言う通り、濃い目の出汁に薄口醤油を少し多めに入れ、柑橘の皮を刻んで入れてある。しょっぱいというほどではないが、いつもより濃い目にしている分、味の濃い日本酒に絶妙に合うのだ。


 その後、刺身、焼き物、揚げ物などを一通り出し、それに酒を合わせていった。

 最後の料理を食べたところで、ホレスが謝罪の言葉と共に自分の考えを話し始めた。


「試すような真似をして申し訳ございません。正直、社長がキタヤマさんのことを褒めちぎっていたので、どんな方なのか知りたかったのです……」


 社長であり杜氏でもあるハリス・ロートンはナオヒロ・ノウチの教えを受けた蔵人として、マシア共和国では尊敬の対象だ。

 ホレスも尊敬している1人で、弟子入りした後、俺の話を聞かされ、どんな人物なのか気になっていたそうだ。


 特にヴェンノヴィア醸造の最上級の酒である“オールド・ノウチ”の改良に手を貸したことが気になっていたという。


「ノウチ翁のような蔵人だったのなら分かるのですが、話を聞くと料理人ということでしたので、サケに関してどれほどの知識を持っているのか試してやろうと思ったんです。社長が言っていた通り、素晴らしい腕と知識をお持ちだと感服いたしました」


 そこまで言われると照れてしまう。


「そこまでのことはないですよ。私は酒造りに関しては素人ですから」


「サケは飲まれてこそ生きてくるものです。客にサケを提供する料理人が一番そのことを分かっていると今日初めて実感しました。これからもご指導よろしくお願いします」


 そこでダスティンが話に加わってきた。


「ジンさんにも醸造所の立ち上げでアドバイスをお願いしたいと思っているんです。特にトーレスでは初めてのサケ造りですから、流れ人の知識を是非とも生かしていただきたいと思っています」


「協力しますが、あまり期待しないでください。ロートン社長が推薦したホレスさんの方がよほど信頼できるのですからね」


「もちろんです。ただ、ジンさんが確認し、問題ないとおっしゃってくれた方が上は納得しますから」


 プロジェクトを統括する内務卿や予算を管理する財務卿、更には国王に説明する際に俺が確認してOKを出した方がやりやすいということなのだろう。


「そう言うことでしたら、いくらでも使ってください。私も酒造りには興味がありますので」


 その後、詳しい話を聞いた。

 予算総額は1億ソル、日本円で100億円を超えるらしく、トーレス王国の年間予算の5パーセントほどになるそうだ。もちろん、単年度でこれだけの予算を使うわけではないが、王国の並々ならぬやる気に驚きを隠せない。


「陛下はサケをワイン、ブランデーに次ぐ輸出商品にしたいとお考えです。ブルートンで成功すれば、すぐに他でも展開できるよう、既に適地を探しているんです」


 そんな国家プロジェクトに俺の意見が採用されていいのかと思わないでもないが、美味い日本酒を作るということなら協力は惜しまないつもりだ。


 それからホレスはたびたび俺の店を訪れ、日本酒談議に花を咲かせるようになった。

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