第42話「ジン、寿司を握る:前篇」
海賊騒動が収まり、チャーリーのオーデッツ商会は息を吹き返すことができた。
「うちは完全に被害者ですからいいんですが、マッコール商会は結構大変そうです。何といっても前商会長が海賊と手を組んでいたんですから……」
現在の商会は全く関与していないとはいえ、世間はそう思わない。船を奪われた海運会社や殺された船員の家族から損害賠償を請求されるだろう。
大きな商会とはいえ、処刑されたモーリスが持っていた資産はほとんどなくなっており、倒産することは確実らしい。
「惜しいな。特にハンフリーさんの経験と人脈は」
「私も同じ思いです。一応、うちに来ないかと誘ったのですが、商会を立て直すとおっしゃって断ってきました」
俺にできることはない。
結局、騒動が終息した4ヶ月後の10月、マッコール商会は倒産した。
倒産後にハンフリー・アスキスに会ったが、“再建に向けてやれることをやっていくしかありません”と言ってやる気を見せており、近いうちに新たな商会が立ち上がるはずだ。
うちの店も影響は大きかった。
海賊騒動の間は仕入れが不安定だったためで、特に影響が大きかったのはマシア共和国産の野菜が入手できなかったことだ。
出汁や調味料は大量に消費するものでもないため、在庫で何とかなったが、日本の野菜に近いマシア共和国産のものがないのは結構痛かった。
代替措置として、地元の野菜を使ったのだが、青ジソや大根、里芋などは近いものがなく、作れなくなった料理も多かった。
しかし、悪いことばかりではなかった。
代替できる食材を探すため、入手しやすいトーレス王国内や隣のハイランド連合王国の野菜をいろいろと試すことになり、それらについて知ることができたことだ。
技法もいろいろと試したため、一緒に研究したジェイクとフランクの腕がグングン上がっている。
ジェイクの料理スキルレベルは6に上がり、そこらの店の料理人を超えた。
ジェイクは弟子入りしてから2年半ほど経っており、そろそろ独立してもいい頃だと思っている。
そのことを彼に告げたが、
「師匠の下で修業させてください。もっと腕を上げたいんです」
「もう教えることはほとんどないと思うんだが?」
「いえ、俺はフランクと違って物覚えが悪いんです。だから、覚えることがいっぱいすぎて覚えきれないほどなんです」
正直なところ、今の境遇に満足できているのか疑問を持っていた。
「そうは言っても、給料は安いし、自分で好きなことをやりたいとは思わないのか?」
「その気持ちはあります。ですが、今の腕で独立しても師匠のようにお客さんを満足させられる自信がないんです。ここに居させてください」
そう言って頭を下げてくる。
その姿を見ると、説得は無理だと諦めるしかなかった。
「そうか……お前がそれでいいなら、無理に独立する必要はないが、腕はもう十分だと思うがな」
フランクについてだが、レベルは5のままだが、ジェイクと遜色がないほどの腕になっている。そろそろ6に上がってもおかしくない。
腕は十分に一人前だが、まだ19歳になったばかりで、人生経験が足りない。そのため、もう少しうちで面倒を見てからと考えている。
2人の腕が上がったことから、店を移転しようかと考え始めている。今の店は俺が1人でやるつもりで小さなところを選んでいるため、いつも満席で断ることがあるほどだ。そのため、もう少し大きなところに行ってもいいのではと思っている。
ただ、この店には愛着があり、踏ん切りが付かないでいた。
10月も半ばを過ぎた頃、3人目の弟子を取ることになった。
名前はサイモン・ハウエルといい、王都警備隊の元兵士の18歳の男だ。兵士と言っても兵舎の厨房を任されていたらしく、小柄であまり兵士らしくない。
弟子入りのきっかけはジェイクやフランクと同じで、俺の料理を食べて感動したからだそうだ。
真面目な性格のようだが、基礎が全くなっていないため、包丁の使い方から教えている。
これで弟子が3人となった。厨房はそれほど狭くないが、大の男が4人もいると結構圧迫感がある。
ただ、当面の間、サイモンはホールスタッフとして働いてもらう予定だ。ジェイクやフランクと違い、飲食店で働いた経験がなく、飲食業を一から覚える必要があるためだ。
店は順調で従業員も増えたことから、新たなメニューを加えることにした。
そのメニューは寿司だ。
俺自身、寿司屋で修業したのは3年程度と短いが、江戸前の一流店で修業したため、基礎は叩き込まれている。もちろん、江戸前の超一流の職人のような芸術的な握りは作れないが、地方都市の寿司屋よりは美味い寿司が握れると自負していた。
これまで何度か寿司を出そうと考えたことがあった。一部、鰻の寿司など変化球は出したことはあるが、本格的な握り寿司は出していない。
その理由だが、この国に生魚を食べる文化がなく、忌避感が強いためだ。
なぜ忌避感があるのか正直分からない。
日本でも昔は生魚食べられるところは限られていた。漁港近くでなければ、新鮮な魚が手に入らなかったためだ。
この他にも食中毒や寄生虫のリスクも魚を生で食べられなかった理由だ。高知で鰹のたたきができたのも、食中毒が頻発し、殿様が生食を禁じたため、表面を焼くことで“焼魚”と言い訳するようになったという説があるほどだ。
しかし、この世界では
食中毒や寄生虫についても、“鑑定”というスキルを使えば、危険かどうかを的確に判断できる。
つまり、地球で生魚を食べなかった理由のほとんどがこの世界では存在しない。
逆に生肉は意外に食べられている。この国には少ないが、隣のハイランドには牛肉を叩いて作る“タルタルステーキ”に近い料理があるらしい。
こう考えると、生魚を食べない理由が分からないのだが、一つだけ理由じゃないかと思っていることがある。
それは生の魚に合う調味料、醤油がなかったからではないかということだ。
実際、醤油があるマシア共和国やマーリア連邦では生魚が食べられている。それも和食の刺身に限りなく近い形で、醤油とワサビで食べているのだ。
俺がこの国に来てから4年近くになる。
醤油も結構普及し、地元の料理人が使い始めているし、一般家庭にも少しずつだが普及し始めていた。
今なら刺身も受け入れてもらえるのではないかと思うが、その前にそれより受け入れやすい寿司を出そうと考えたのだ。
シャリと一緒に食べる寿司は刺身より生臭みを抑えられる。特に日本酒があれば、旨みに変わるから、うちの店の客なら受け入れてくれるのではないかと思っている。
このことをジェイクたちに話すと、全員が賛成した。
「師匠のスシなら絶対に受け入れられます。初めて食った時の感動は今でも覚えていますから」
ジェイクの言葉にフランクとサイモンが大きく頷いた。
マリーにも聞いてみたが、
「私も賛成です。お寿司だけずっと食べていたいくらい美味しいんですもの」
ダスティンやフィル、チャーリーは最初から賛成しているので意見は聞いていないが、以前から絶対に成功すると断言していた。
11月に入り脂が乗ってきた魚を使った寿司を常連客に出してみた。
ネタは生魚がマグロとヒラメ、他にボタンエビに似たエビを茹でた。この他にサーモンの卵、すなわちイクラに、茹でた蛸と玉子焼きなどを使っている。
この国の人が受け入れやすそうな穴子は近くにはいないらしく、手に入らなかった。
「生だからちょっと警戒したけど、こんなに美味いとは思わなかったよ」
「コメと一緒に食うっていうのも斬新だね。この酸味のあるコメと醤油の香り、ワサビの辛みが実によく合っている」
「このイクラというのは美味いな。見た目で少しためらったが、醤油とコメにとても合う」
という感じで、おおむね好評だった。
イクラはほとんど食べられておらず、生の魚の卵と聞き、最初は皆、驚いていた。
外国人にあまり好まれない海苔も鉄火巻として出したが、苦手という者はいなかった。これは普段から茶漬けなどで、もみ海苔を使っているためだろう。
ちなみに海苔はちゃんとした焼き海苔を使っているので、消化の問題はない。
営業が終わった後、従業員一同で話し合ったが、寿司をメニューに入れることに全員が賛成した。
1ヶ月ほど経った頃、ダスティンから連絡が入った。
「国王陛下が寿司を召し上がりたいとおっしゃっておられるそうですよ。ランジー伯爵閣下から至急ジンさんと調整するように命じられました……」
国王の耳に入ったようで、王宮で寿司を握らなければならないようだ。
国王には2ヶ月に1回くらいの頻度で料理を作っているが、前回から2ヶ月ほど経っているので、それに合わせたのだろう。
「了解しました。準備がありますが、明後日以降ならいつでも大丈夫です」
「では、明後日の夕方にお願いします。陛下は今すぐにでもお召し上がりになりたいという感じだったそうなので」
2日後、ジェイクとサイモンを連れて王宮に行く。
ジェイクは既に何回も来ているから緊張していないが、サイモンは初めて入る王宮にガチガチに緊張していた。
「そんなに緊張していたら仕事ができないぞ。いつも通りでいいんだからな」と言って軽く肩を叩く。
「こんなところに入ってもいいんですか……」
「俺も最初は緊張したが、厨房で準備を手伝うだけだし、ここに来るまでに準備はほとんど終わっているから、緊張する必要はないぞ」
兄弟子のジェイクが気を遣うが、今日に限っては彼も国王の前に行く必要がある。
「言い忘れていたが、今日はお前も陛下の前に来てもらうぞ」
「ええ!」とジェイクが驚く。
「寿司は陛下の前で握ることになる。ネタのほとんどは最初に出しておくが、次のネタを出してもらったり、シャリを替えてもらったりするから、ジェイクにはそれもやってもらう」
寿司を握っているため、手が離せないので、次のネタやシャリの準備をさせるつもりなのだ。
「そういうことは早く言ってくださいよ」と情けない声でジェイクが零す。
「すまん、すまん。だが、俺の言う通りに出すだけの簡単な仕事なんだ」
サイモンに続き、ジェイクまでガチガチに緊張してしまった。
「陛下たちが気になって緊張するなら、俺の手だけを見ていろ」
「分かりました」
ランジー伯に挨拶した後、厨房に向かう。
サッカレー料理長と宮廷料理人たちが列を作って待っていた。
「今日はスシを作られるとか。後ほど、お時間があれば味見をさせていただきたいのですが」
「構いませんよ。というより、そのつもりで来ましたから」
「それはありがたい。今回は陛下の前で作られると聞きました。私も後ろで拝見させていただきたいと思っております」
相変わらず向上心が強い。
国王が食事を摂るホールに向かう。
既に寿司を握る作業台が設置されており、ジェイクと共にまな板や包丁などを並べていく。
この作業台だが、シンクがあり、造水の魔導具が設置されているため、手や包丁を軽くなら洗うことができる。ただし、排水先がないので貯めておく必要があり、本格的に水を使うことはできない。
準備を終えたところで、国王ヘンリーと王妃、王太子ジェームズと妃の4人がテーブルに着く。ただし、いつもなら対面に座るところを横並びになってもらい、その前に作業台が置いてあった。
「スシは目の前で作ったものを食すと聞いておる。テンプラのように見て楽しむことも考えておるのかな」
国王は天ぷらが好きでこれまでも何度も作っている。最初に音や香りを楽しんでほしいと説明したから、そのことを覚えていたようだ。
「楽しめるかは分かりませんが、動きがある料理ですので、面白いかもしれません」
そう言った後、ジェイクを紹介する。
「一番弟子のジェイク・スティールです。今回は助手として連れてきました」
「じぇ、ジェイク・スティールと、も、申します! 陛下!」と緊張しながら名乗り、大きく頭を下げた。
「うむ。キタヤマ殿の一番弟子であれば、将来が楽しみだな」
「あ、ありがとうございます! 今後も師匠の下で精進してまいります!」
「うむ。期待しておるぞ」
国王に言葉を掛けられたジェイクは感動のあまり涙を流さんばかりに喜んでいた。
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