第31話「閑話:マリー・ベイカー」
私がジンさんの店で働くようになって十日が過ぎた。
この間休むことなく働いている。
ジンさんからは五日に一日は休むようにと言われているけど、いつまでも実家に頼っているわけにはいかないから働かなくてはならない。
私の一日の働く時間は大体6時間。お昼は十一時から二時、夜が五時から八時で、時給は15ソル(日本円で1500円)だから、日給は90ソルになる。
私のような何の取柄もない女がもらう給料としては破格で、他の店ならこの半分でも雇ってもらえない。
チャーリーさんの紹介と言うことと、幼い娘を抱えていることから、ジンさんが配慮してくれたのだ。
そのことで心苦しく思い、正直に伝えたら、
「こっちの方が心苦しいよ。これだけ働かせてこの給料だから」と言って申し訳なさそうにしている。
「そんなことはありません! 娘に会いに行く時間まで作ってもらっているんですから」
そこでジンさんに出会うまでのことを思い出していた。
昨年の十一月、私は事故で夫ビリーを亡くした。
仕入れのために北のハイランド連合王国との国境近くに行った時、運悪く滅多に出ない、はぐれの魔物に襲われたらしい。
その後、何が何だか分からないうちに夫の葬儀を済ませ、一緒にやっていた酒屋を閉めた。気が付いたら、10万ソル(日本円で1千万円)という借金が残されていた。
借金は店を処分し、親戚から借りることで何とかなったけど、まだ二歳になっていない娘のケイトと共に住む場所を失った。
何とか実家に転げ込んだが、ここには兄夫妻がいるから長くは居られない。自分で生活できるように早く仕事を見つけないといけないと焦った。
そして親戚の紹介で雑貨店に働きに出た。
朝八時から夕方六時まで働き詰めでも一日60ソルにしかならず、娘に会う時間もほとんどなかった。幼い娘は実家でいつもぐずっていたと教えられている。
それだけではなく、その店の主人は私の身体を狙っていた。さりげなく身体を触るだけじゃなく、奥さんが見ていないところで抱き着いてきたこともあった。半月くらい働いたところで、奥さんがその現場を見つけたので、辞めざるを得なかった。
でも、その時はホッとした。
あのままだったら強引に関係を求められ、流されてしまったかもしれないから。
そんな時、チャーリーさんが私に会いに来た。
チャーリーさんは私が子供の頃からの知り合いで、ビリーと私にとって、歳の離れた兄のような存在だ。
「近くに来たから様子を見に来たんだが、おばさんから聞いたけど、あの店を辞めたんだって?」
「はい。いろいろとあって……」
詳しくは話さなかったけど、チャーリーさんには何があったのか分かったみたい。
「そうか……なあ、いい働き口があるんだが、話を聞いてみる気はあるかい?」
雑貨店を辞めてから半月以上経つが、次の働き口がなかなか見つからず、困っていたので「お願いします」とすぐに頭を下げた。
「料理屋で給仕をやってみないか? その店の店主は俺が世話になった人で、とてもいい人なんだ……」
チャーリーさんは目を輝かせてその店の店主、ジン・キタヤマさんのことを話し始めた。
「……絶対に儲かる店だから、時給も上げてもらえる。ここからすぐ近くだし、ケイトに会いに来るのも楽だと思う」
「そのキタヤマさんという方はどこの方なんですか? 私は会ったことがないと思うんですけど?」と何気なく聞いてみた。
それまでの説明では、少し前まで行っていたマシアやマーリアの話はいっぱいしてくれたが、どこの出身でいつからの知り合いか分からなかったから。
「ちょっと訳ありなんだ……でも悪い人じゃない。これは俺が保証するよ」
口篭ったことに少し不安を感じたが、チャーリーさんが言うなら一度会ってみようと思った。
その店はレストランやパブとは違い、独特の雰囲気があった。
「不思議な店ですね」とチャーリーさんに聞くと、
「ジンさんの故郷の料理を出す店なんだ」
そんな話をしていると、思ったより小柄で変わった服を着た男性が現れた。チャーリーさんと同い年と聞いていたけど、少し若い感じがする。
「ジン・キタヤマです」とはっきりとした声で自己紹介されたので、私も慌てて名前を言った。
自己紹介が終わったところで、チャーリーさんが私のことを説明してくれた。ジンさんは真剣な表情で話を聞いた後、娘のことを気にしてくれた。
「こちらとしては助かりますが、お子さんはまだ二歳なんでしょう? 父親がいなくなって寂しい思いをしているのに、更に母親まで不在がちだとかわいそうです」
初めてあった人にそこまで気を使ってもらえるとは思わず、驚いてしまった。
その後、いろいろな条件を話し合ったけど、私に配慮してくれていることがよく分かった。
「……酔った客には私が料理や酒を出します。普段いい人でも酔うと手を出そうとする人は結構いますから」
私が大丈夫だと言っても笑うだけで取り合ってもらえない。
「お子さんとのことがありますから、休みは五日に一日くらい取ってください。お金のことが不安でしたら、昼と夜のどちらかだけ出勤してもらうだけでも構いません」
そんなに休んだら意味がないと思い、「他にも人を雇われるのですか?」と聞いた。
「最初だけですぐに暇になると思いますから」
「駄目ですよ、ジンさん。絶対に客は減りませんから」とチャーリーさんが口を挟む。
「そうかな? 珍しさを感じなくなったら客が来なくなるんじゃないかと不安なんだが」
「マリー、ジンさんはこう言っているけど、そんなことないから当分休みはないと覚悟しておいてくれよ」
「それじゃ、かわいそうだろう」とジンさんが窘めるが、チャーリーさんにしては珍しく真剣な表情で反論する。
「私としてはどうやって客を絞るか真面目に考えないといけないと思っているんです。それにさっきの条件ならマリーには十分に配慮していると思います。そうだな、マリー?」
「は、はい。こんなにいい条件でいいのかって思っているくらいですから」
「そうか……なら、無理をしない範囲でお願いするよ」
それから一度実家に戻る。その際、チャーリーさんが道すがらジンさんの話をしてくれた。
「あの店は絶対に繁盛する。ここだけの話なんだが、ジンさんは国王陛下が絶賛されるほどの腕の料理人なんだ。だから、マリーには悪いが、ここ一ヶ月くらいは少し無理をしてでも手伝ってあげてほしいんだ」
国王陛下という言葉に驚いたが、最近チャーリーさんのオーデッツ商会が御用商人になったと聞いたのでそうなのだろうと納得する。
「分かりました。でも、私にできるんでしょうか? そんな凄い方の手伝いが」
「大丈夫だよ。旅行中に手伝っているが、俺でもできたんだ。それにジンさんは難しいことは言わないからその点だけは安心していい」
それから家に戻り、ケイトに少し早い晩御飯を食べさせてから店に戻った。
まだ開店まで20分くらいあるのに既に5人くらい並んでいる。
店に入ると、チャーリーさんが既に待っていた。
ジンさんも厨房から顔を出し、「早いね。もう少し後でもよかったのに」と言ってくれた。
「初日ですから、早く仕事を覚えないといけませんので」
「そうか。なら、伝票の書き方を覚えてもらおうか」
そう言って紙の束を取り出し、説明を始めた。
「ここに注文された料理の名前と個数を書いて……料理を出したら、横棒を引いて消して……分からなければ、俺かチャーリーに聞いてくれたらいい。それから注文は確実に復唱してほしい。俺がそれに応えなかったら伝票を渡しながら念を押して……」
5分ほどで注文の取り方の説明を受け、次にお酒の種類と出し方を教えてもらう。
「ボトルに名前と番号が書いてあるから、それを見てくれたらいい。出し方はその紙に書いてあるから……」
ボトルには名前と番号が大きく書いた紙が貼ってあった。更にどのグラスを使ったらいいのかも棚にある番号を見ればいいようになっている。
これなら何とかなると安心した。
それで少し安心していたのだけど、店が開店したら分からないことだらけだった。
聞いたことがない料理が多く、チャーリーさんに聞いたり、お客さんにメニューを指さしてもらったりして、何とか間違えないようにするのが精一杯だった。
午後八時になったところで、ジンさんが「今日はこれでいいから、上がって」と言ってきた。
まだお客さんがたくさんいて、チャーリーさんが店内を早足で歩き回っている。
「もう少し大丈夫ですが」というと、
「こっちは大丈夫だから」と言った後、
「お腹が空いただろうから、家に帰ったらこれでも食べて。適当に詰めたものだから美味しいかどうかは保証できないけど」
そう言ってお弁当まで渡してくれた。
申し訳ないと思うが、ここにいても更に邪魔をするだけだと思い、頭を下げて家に帰った。
家に帰ると、ケイトが起きて待っていた。
「ママ! お帰り!」とたどたどしい声で迎えてくれるが、その声を聴くと帰ってきてよかったと思った。
「それ、なあに?」と聞いてきたので、
「お弁当よ。一緒に食べましょう」
そう言って箱を開ける。
中は四つに仕切ってあり、いろいろな料理が入っていた。
魚を焼いたものや鶏を揚げたもの、他にも野菜の煮物や見たことがない穀物もある。
そのどれもが信じられないくらい美味しかった。
「これ美味しいね!」と娘もご機嫌だが、それ以上に私も幸せを感じていた。
そこでチャーリーさんが言っていたことを思い出す。確かにこれだけの料理なら絶対に繁盛すると。
それから数日は目が回るような忙しさだった。
二日間は王宮の役人の奥さんが手伝いに来てくれたが、四日目からは私とジンさんだけで、お昼には水を飲む時間がないほど動き回り、夜もひっきりなしに注文される料理やお酒を出すので精一杯だった。
それでもお昼は午後二時、夜は午後八時には帰され、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「もう少しお手伝いさせてください」と懇願するが、首を縦に振ってはくれない。
チャーリーさんに相談しても駄目そうな感じだった。
「ジンさんは頑固だからな。ダスティンさんに聞いたんだが、国王陛下にすら意見したっていう話だから」
十日を過ぎた頃にようやく落ち着いたが、それでも忙しさは変わらない。
今日もランチは早く終わり、一緒に片づけを行っていた。
「申し訳ないね。時給を上げようかと思っているんだが、身体を壊さないか、そっちの方が心配だよ」
「それは私のセリフです」と言ってしまった。雇い主に言っていい言葉ではないと後悔する。
それでも本当に心配だった。だから、後悔の念を無視して言葉を続けた。
「ジンさんの、あなたの身体の方が心配です。仕込みから後片付けまでお一人でやっていますし、お店の掃除も私がするところなんてほとんどありません。洗濯もご自分でやっているようですし、いつ休んでいるのかって不安になるんです」
「まあ、このくらいは仕方がないと思っているよ。今が一番大事な時だから。ここで常連客を掴んでおけば、このあと楽になるからね」
「それで身体を壊してしまったら元も子もないと思います。私ももう少し長く働いても問題ありません。ですから……」
そこでジンさんは頭を掻き、
「そうだな。明日を休みにするか。来てくれたお客さんには悪いが、確かに働き過ぎだ」
「それがいいと思います。家事でしたら私がしに来ますから」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、独身の娘さんにやってもらうわけにはいかないよ」
「分かりました。ですが、本当にゆっくり休んでくださいね。お願いします」
そう言って頭を下げると、「分かったよ」と言ってくれた。
その日の夜も大忙しだったが、いつも通り午後八時に帰宅する。
翌日は休みだが、実家の母や娘には言っていない。いつも通り、十一時に出勤するためだ。
店に行くと、表には臨時休業という張り紙があったが、店の中ではいつも通り仕込みをしていた。
「今日は休みだと言ったはずだが?」
「それは私のセリフです」と言って、思わず噴き出してしまった。
不思議そうな顔でこちらを見るので、
「昨日も同じことを言ったなと思っただけです。では、家の掃除をさせてもらいますね」
「おい、男の部屋に勝手に上がっちゃいけないよ」と慌てる。
それに構わず二階に上がる。
部屋は予想通りきれいで、洗濯物も残っていない。
「朝から働いていたんですね」というと、
「何となく君が来そうな気がしたからな。みっともないところは見せたくなかったんだ」
そう言って目を逸らす。
「分かりました。では、夜は私がご飯を持ってきます。ですから、明日の仕込みが終わったら必ず休んでくださいね」
そう言って家に戻っていく。
母が「今日は早いね」と言ってきたので、今日が休みであること、ジンさんが身体を壊さないか心配だということを話す。
「そういうこと」と言って母は笑うが、
「今日はゆっくり二人で食事をしなさい。お酒はいいワインがあったはずでしょ」
去年閉めた店から持ち出したものが何本かあり、そのことを言っているのだ。
「そうね。そうするわ。ケイトのことをよろしく」
それから久しぶりに夕食を作った。
出来はいまいちだけど、我慢してもらうしかない。
ワインと一緒に料理を持って、ジンさんのいる店に向かった。
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