木枯らし1号に乗って
木枯らし1号に乗って
五十嵐寒太郎(イガラシカンタロウ)
列車の窓の外に見える景色が、まるで自分から遠くに逃げていくみたいに通り過ぎていく。窓の無効で歩いている人たちのことなんて見えていないみたいに、この列車は執着駅に向かって無心に走っていく。こんなに勢いよく走っているのに、本当に何も落とさずに、この列車は目的地にたどり着くのだろうか。窓の外に落としてきたたくさんの冬や、みるみる見えなくなっていく過去に落としてきたたくさんの後悔を、この列車の乗客たちはどうやって拾いに帰るのだろうか。帰りの列車の切符を持っている人ばかりではないはずだ。この列車においていかれた人たちは、どんな気分でこの列車を見送るのだろうか。どれだけ
走ってもこの列車に追いつけなかったとして、追いかけた人々は何を思うのだろう。
風は季節を落として去っていく。残された人たちは、落とした季節を拾い集めながら生きていく。けっしてこんなふうに、どこまでも遠くに走っていくことはできない。何かを落としてしまうような気がするから。絶対に後ろを振り返って、何も落としていないか確認しているから。この木枯らしのように、何もかも吹き飛ばすようなスピードで、全力で目的地まで走ることができたならば、どんなにいいだろうか。
窓側の座席で、社葬を凝視しながら、五十嵐寒太郎はそう思った。幸い自分の隣に乗客はいない。この列車は基本的に閑散としている。めったなことがなければ、隣に乗客が坐ってくることもない。それにこの列車は、チケットを持っている乗客によって行き先が決まっているから、途中から客が乗ってくることはほぼない。そんな静かな車内だからこそ、寒太郎はそんな感慨にふけっていた。なぜなら、自分はいままで、たくさん何かを落としてしまったような気がしていたからだ。
この列車は早すぎて、この列車と同じように、人生というものは早すぎて…いままでたくさんのものを落としてしまったのだろう。だからこんなにも苦しい生活をしているのだ。この列車から降りて、全部落としたものを拾い直せればとも思うけれど、そんなことをしても、満足の行くものは落ちていないだろう。きっとどれだけ拾おうとしても、もうどこに何を落としたのかは覚えていない。自分が落としたものではなくても、落とされたものや、自然に落ちたものもある。人生というのは、社葬に見える人の存在も忘れさせるほどの早さで過ぎ去るのだから、ものを落として当然なのだ。
もうすぐ自分の向かうべき場所にたどり着く。毎年冬になると、この街で働くことにしている。父が亡くなってこれで3回目の冬になる。病気がちの母と、小山内二人の兄弟を残して、家族のために出稼ぎをすると決めたのは、寒太郎だった。母は反対した。幼い兄弟たちは、兄と離れることを悲しんだ。しかし、寒太郎はわかっていた。今この家を支えられるのは、自分しかいないということを…。
毎年冬になって、木枯らし1号に乗ってこの街に降り立つのも、慣れたものになっていた。1年目は、列車の中の冷たい風や、慣れない街での冬は、とても孤独で、何度もやめようかとも思った。しかし、出稼ぎから帰って、街のお土産話を聞きながら笑う兄弟たちや、稼いだお金を見て喜ぶ母の顔を思い浮かべれば、温かい気持ちになってまた働きに出ることができた。
冬は寒くてつらい季節だ。しかし、寒太郎にとって、冬は大切な資金源なのである。
「兄ちゃん。これ、電車の中で食べて。雹魔(ヒョウマ)と二人で頑張って握り飯作ったんだ。形は不格好だけど、うちら頑張ったんだよ。」
「形が不格好なのは姉ちゃんのせいだからな。」
「あんたがふざけながら握るからじゃろ?」
「違うもん。姉ちゃんの教え方が悪いんじゃ。」
「こらこら二人とも。兄ちゃんが出かける前に、喧嘩なんかするなや…。」
「あ、ごめん、兄ちゃん…。」
「とにかく、これ、電車の中で食べて…。元気でね、兄ちゃん。」
別れ際に交わした兄弟たちの会話を、電車を降りる間際になって思い出した。二人は喧嘩をよくした。寒太郎が家に帰った瞬間から喧嘩をすることもあった。どちらが先に兄に抱きつくかで喧嘩をするほどなのである。しかし、寒太郎は、二人が喧嘩をするのは、元気な証だと思っている。だからいやな気持ちはそんなにしなかった。いつもの二人がいつものように寒太郎を送り出してくれることが、何よりうれしかったのである。とくに今回は、喧嘩しながらも二人で頑張っておにぎりまで作ってくれたのだ。こんなにも優しい兄弟たちがいて、自分はとても幸せだと思う。少しうるさいけれど、かわいくていつも元気な兄弟たちが、端正込めて作ったおにぎりを、かばんの中から出してみる。食べようと思っていたのに、考え事をしていたらもうすぐ電車を降りなければならなくなってしまった。
おにぎりの形は不格好などではなかった。多少は、コンビニやスーパーのものよりは崩れているけれど、それはかばんにしまっていたからかもしれないし、手作りのおにぎりは機械で作ったわけではないのだから、当たり前のような気もする。これが二人の愛の形なのだと信じていた。
しかし、おにぎりを食べようとしたとき、よくないことを思い出してしまう自分もいた。
「街に出稼ぎに行くといっても、初戦は音楽などという小賢しい道楽にふける理由付けにすぎないのだろう。おまえは修業をサボった弱い人間だ。家が貧乏になったのも、おまえの父親が死んだのも、おまえの父が弱く、何もできないからだ。そういう息子がこのざまであろう。せいぜい街で楽しい冬を過ごしてくればいい。修業の厳しさから逃げているようなおまえが、街で生きられるとは到底思えないがな…!」
これも、木枯らし1号になる前にいわれた言葉だった。一つ年下の幼なじみ、山瀬疾風は、
寒太郎とは違って、裕福な家庭に育っていた。お金や家庭環境が原因で、寒太郎が入門を拒否された道場で、山瀬は夏以外は修業に励んでいる。いつも立派な身なりをしている。自分の身分をひけらかすように、寒太郎をからかうようなことが多かった。
寒太郎はそれに対して、仕返しをしようとは思わなかった。自分が勝てない相手だとわかっていたし、他人のやったことをやりかえせば、その他人と同じような質の人間になってしまう。
彼は、修業があるからめったに街に出ることはない。だから初戦はうらやましがっているだけなのだ。それに、街に出るのは、けっして道楽にふけるためではなく、自分の命をかけた出稼ぎをしているだけなのだ。そのためには、自分の音楽の技術を使うしかないのだ。趣味とか遊びとか、そういう低俗な理由ではない。家族を守るための手段なのだ。
そんな家庭の事情を、いくら山瀬に説明しようと、彼はけっして理解しないだろう。彼と自分は住む世界が違う。同じ北国で育ってきただけで、生まれた瞬間から、山瀬と寒太郎では、走り出した線路が違うのだ。
だから彼は言い返さなかった。人は、怒りが心を満たすと、何も話す気をなくしてしまうものなのだ。それほどに、寒太郎は傷ついた。心の中がえぐりとられるような気分になった。自分の仕事や人生、家族を否定している彼のことを許せなかった。小山内ころから、仲がいい関係にはなれないと思っていた。けれど、ここまで自分のことを傷つける存在だと思ってはいなかった。
思い出したくはなかった。しかし、彼の言葉はずっと、寒太郎の後ろに立っている。隣に客は坐っていないのに、山瀬のいやらしい笑い顔がそこにいるような気がするのだ。
預けていたスーツケースをもらう代わりに、このはみたいに薄い切符を、不愛想な係員に渡して、まるで木枯らしによって散らされる木の葉みたいに、木枯らしから降りた。そういえば、木枯らしというのは、いろいろなものを落とす修正があるらしい。人生の後悔とか、薄い木の葉とか、思い出したくない記憶とか…。
降りた瞬間、さっきまで車体があるように見えた列車は、強い木枯らしの中に消えていった。車体はあっさり形を消してしまったのだ。そう、寒太郎はここではっきりと気づかされる。自分は本当に、気象予報しがニュースでよく言っている「木枯らし1号」に乗ってきたのだ。
列車が街を離れる瞬間、ものすごく強い風が吹いた。この風のせいで、何枚の木の葉が落ちただろうか。何粒の涙が落ちただろうか。何人の人と後悔がまき散らされただろうか。自分はこの風の中に、いくつの過去を消せるだろうか。寒太郎は、消えていった過去の数を数えるように、空に浮かぶ雲の数を数えた。そんなものを数えたところで、何が一つ、何が二つなどと断定することができないとわかっているからこそ、彼はその数を数えたのだ。
冷たい風が心地よかった。この街はもう少し温かいかと思っていたが、今年の冬は寒太郎にとってちょうどよい、平年より気温の低い冬のようだ。それだけでも、寒太郎はうれしかった。山瀬の言葉など忘れて、今は自分のやるべきことに集中したほうがいい。冬独特の済んだ青空は、寒太郎のことを全身で許してくれているみたいだった。
毎年冬になると、この街に済む知り合い、幸光みぞれという女性の家で下宿をしていた。みぞれは何歳ぐらいの女性なのか、寒太郎は検討がつかなかったが、街で放浪としていた寒太郎のことを、ある日その温かい手で拾ってくれたのである。聞けば、寒太郎と同じ雪国の山の出身で、みぞれの母のことも知っていると言う。母親よりもずっと若い顔立ちをしているから、母親の同窓生とか幼なじみとかではなさそうである。だが何にせよ、みぞれは快く、寒太郎の泊まる場所を分け与えてくれたのだ。
下宿代は、家事や、まだ小さいというみぞれの息子の世話をすれば無料にしてくれるという、ひじょうに太っ腹な女性である。家事も、騒ぎ盛りの息子の世話も
けっしてたやすくはないけれど、下宿代が無料になるならと、寒太郎は必死で頑張った。寒太郎の取り柄は、とにかく必死に働いて、きちんと役目を果たすことなのだ。
「ごめんください!みぞれさんはいらっしゃいますか?」
その日も、思いスーツケースを詰めたい冬の街の下で引きずりながら、ようやくたどり着いたみぞれの家の玄関で、寒太郎はそう叫んだ。しかし、中から応答する声はまったくない。もしかしたら、よりにもよって外出してしまっているのだろうか。みぞれがどんな職業をしているのか、寒太郎は彼女に尋ねたことはなかったが、いつも忙しそうに朝早くに外出しているのは知っていた。だからこそ、小山内息子の世話をしているのだ。母親がほとんど家にいないので、息子はない手騒ぐことが多かった。そのたびに、絵本を読んだり、外で鬼ごっこをしたり、お貸しを買ったりと、体がいくつあっても足りないほど働かなければならなかった。そして空いた時間で自分の本業をするのである。
不幸中の幸いは、その息子が、寒太郎の本業をいつも楽しみにしてくれていることだ。母親であるみぞれが止めても、彼の仕事がみたいと騒ぐほどなのである。だから、息子がごねて大声で泣くときは、案外仕事の練習をするチャンスでもあるのだ。
それにしてもみぞれは現れない。本当に外出してしまっているのだろうか。
「ごめんください!」
すると、玄関の無効で、泣いている男の子の声が聞こえた。
「ママ!誰か来たよ。きっと怖い人だよ。」
明らかにみぞれの息子の声だ。つまり、この家に誰もいないなんていうことはないらしい。それに、今の息子の話からすると、どうやら母親も中にいるようだ。それならなぜ応答してくれないのだろか。
「ほれ、冬樹(フユキ)、静かにして!やっと冬がきたんだよ、うちにも。」
みぞれの優しい声が聞こえた瞬間、寒太郎は肩の力が抜けて
スーツケースや仕事の道具を落としそうになった。
「待ちくたびれたよ、かんちゃん!今年は来るのが遅かったんだね。」
「すみません。なかなかチケットが取れなかったんです…。」
寒太郎は、いつも冬のどのぐらいの時期にここに来ていたか考えていた。木枯らしが吹くタイミングによって、街に出られる日も変わってくるからだ。でも確かに、今年はこがらしがかなり遅延していたようだ。チケットの発券に時間がかかった理由もそれだろう。だが、それだけではなく、寒太郎の母の病状も芳しくなかったのである。具合の悪い母の看病をしていたら、発券手続きの締め切りが近いことを忘れて、危うくこの冬は街に出れなくなるところだったのである。
「幸美さん、減機械?」
「はい…。なんとか。」
「そうかい。じゃあこの冬も頑張ってね。精いっぱい働いて
いい風吹かせてきなさい。」
みぞれは、寒太郎にとって、街の母親である。といっても、彼がみぞれと会話をするのは、これからは簡単なあいさつぐらいになってしまうのだが。
とにかく、みぞれに勇気づけられて、寒太郎はますます働くことに性を出そうと思うようになった。
街に来て初めてのよる、テレビをつけると、木枯らし1号がこの街に吹いたというニュースが流れていた。テレビに映された街中の映像では、人々が冬物のコートを着こんで、手をつないで歩いたり、温かい飲み物を手にしたりしていた。冬が来たことを実感した人たちは、笑顔だったり震えていたり悲しそうだったりする。この街の中に、突然自分が仕事で飛び込んで、本当に大丈夫なのだろうか。突然不安が寒太郎の前に襲いかかってくる。不安は山瀬の顔の形になって、気持ち悪い笑い顔を浮かべている。するとどこか遠くで小さく誰かがささやいているような気が下。
「うちにも冬が来たんだよ!楽しい季節が始まるよ!」
みぞれの声が体中に響き渡る。まるで、音のない追い風みたいに、寒太郎の体の中にパワーがみなぎってくる。
自分がこの仕事をしなければ、街の人たちは冬を実感できないのだ。それぐらいの気概でこの現実を生き抜けば、きっと幸せなことが起きるはずだ。少しわがままでえらそうでうぬぼれているように見えるぐらいがちょうどいいのだ。
冬の街を歩いていたら、突然、高い北風の音を聞いたことはあるだろうか。とても寒くて、震えあがるような風なのに、なんだか人の心の中にある不安や悲しみや切なさが込み挙げてきて、それを包んでくれるような風の音を聞いたことはあるだろうか。詰めたい風の音を聞くからこそ、温かいものや温かい人の存在を意識させられることはあるのだろうか。
もし冬に木枯らしが吹かなかったら、冬はただの寒いだけの季節になる。もし冬に木枯らしが吹いたならば、とても寒くて苦しい季節になるけれど、その分人の温かさや、悲しく苦しい現実との向き合い方を考えることができる。だからこの街には、この国には、この季節には、木枯らしが必要なのであって、寒太郎が必要なのだ。必要とされない人間など、この世にはいない。自分が自分を必要とすれば
、もうそれだけで丸儲けなのだから。
寒太郎は、かばんからギターと小さな笛を取り出した。こいつが、寒太郎の仕事の道具になる。あとは自分の体だけだ。
冬の夕暮れの街は、みんななんだか生き急いでいるような歩き方をする。きっと早く家に帰りたいけれど、何か心の中にひっかかるものがあるからだろう。寒くて乾いたこの季節にうんざりしているのだろう。
自分がどれだけ頑張ってもうまくいかない現実にいらいらしているのだろう。それでも温かいものを求め、人をあいし、家に帰って今日も頑張ったと思えるのは、そんな季節があるからだと、今街を歩いている人の中で、どのぐらいの人が気づいているのだろう。
大きく息を吸い込んで、笛に音を吹き込んでいく。てはなぜか化時間でいない。ギターのうえで指が自然と音に合わせて踊りだす。
「北風小僧の寒太郎。今年も街までやってきた。ヒュルーン、ヒュルーン、ヒュルルンルンルンルン!寒うござんす、ヒュルルルルルン。」
寒太郎は、小さいころ母親が冬によく歌っていた歌を奏で始める。この街に来たら、必ずこの局を最初に演奏すると決めているのだ。この局は、冬の寒さがいやで泣いている寒太郎のことを、まだ元気だった母があやすために歌ってくれた歌だった。寒くて寒くてつらいのは、温かいものがそこにあるからだと、寒太郎はそのときに知ったのだ。
街を歩いていた人々は、突然噴き出した強い風に、あわてて上着のチャックを強く占めたり、手袋を強くはめ直したり、足取りを早めたり、隣にいる誰かの手を握ったりして耐えている。もちろんみんな寒そうに震えあがっている。けれど、寒太郎が演奏する前に比べて、人々の表情は明らかに変わった。人々の表情の中に、かすかな魂が再生したのである。機械的に家に帰ろうと急いだり、現実を何も考えずに乗り越えようとしたり、詰めたい風を不器用にけちらしていたときよりもずっと、何かに影響されているようだった。
寒太郎が気づくと、周りにたくさんの人たちが集まっていた。みんなただ立ちどまって、寒太郎の演奏を聞いていた。もちろん歩き続ける人もいたけれど
街は冬を受け入れた化のように、寒太郎の奏でる笛の根を、冬の到来を告げる北風として受け入れようとしているのだ。
「すばらしいですよ!君はプロのミュージシャンなのかね?」
「あなたの演奏がすばらしくて泣いてしまったわ。もっと聞いていたい。」
「お兄ちゃん、かっこいい!」
みんな違った反応をするけれど、多くの人間がお金を払ってくれた。10円でも100円でも1000円でも、それぞれ自分の出せる範囲でお金を払ってくれたのだ。しかも、半分以上の人は、自然と財布をかばんの中から出していたのである。
「やっとぼくたちの街にも冬が来たんだね、寒菜。」
「そうだね。」
見覚えのある少年が、見知らぬ少女とそんな会話を交わしている。彼らも財布を出し始めた。
「五十嵐くん、久しぶり。」
「雪男くんじゃないか!しばらくぶりだね。」
彼は、寒太郎と同郷の出身だった。小さいころは山でよく遊んでいた。しかし、最近は病弱な体が言うことを聞かず、冬以外も山で修業をしなくなった。冬はなんとか学校に来れる金があるので、体に鞭打って街の学校に通っているのだ。自分よりは少し裕福だけれど、雪男だけが寒太郎の親友だった。
それにしても、この冬の雪男はいつもより元気そうである。
「五十嵐くん。紹介するよ。ぼくにはとうとう大切な人ができたんだ。名前は…。」
「笹本寒菜です。雪男くんがいつもお世話になってます…。」
少女は頬を赤くして、府株価とお辞儀をした。別に性をしたつもりもされたつもりもないけれど、誰かに頭を下げられた経験など、寒太郎はほとんどなかった。
「そんな。ぼくごときの人間に頭を下げないでください。ぼくはただの出稼ぎに来ている貧乏な人間なのに…。」
寒太郎は、自分でプライドを高く持とうと思うくせに、人にほめられるのは苦手だった。苦手というより、ほめられた経験がないからこそ、どうすればいいのかわからなくなるのである。
「出稼ぎ?めっちゃかっこいいじゃないですか。わたし、そういう人尊敬します。」
少女の輝く笑顔がきれいすぎて、寒太郎は見とれてしまった。しかしこれは雪男の大切な人なのだ。勝手に横取りするわけにはいく枚。
「か、寒菜…。君はそういう人が好きなのか?」
「ち、違うよ、雪男くん。誤解しないで。こういう人にあこがれるってだけで、雪男くんが嫌いとかそういうんじゃないから…。」
楽しそうに話す二人のうすをみて、大切な人をつくるとは、こういうことをいうのだと、寒太郎は初めて理解した。
「二人とも、しあわせそうだね。」
そう言葉をかけてよかったのかわからないが、寒太郎はつぶやいていた。
「まあね。寒太郎、クリスマスもライブをやるかい?」
「もちろんだよ。」
「それなら、また二人で聞きに来るから、とびきりの演奏を期待してるよ!」
幸せな二人を祝福する冬の北風を吹かせないで、この仕事をしていると言えるだろうか。寒太郎は気持ちを引き締めて、これからの仕事に専念しようと決めた。
彼が仕事を頑張れば頑張るほど、ますます彼の路上ライブの腕は上がっていった。彼が奏でる笛の根も、指を滑るギターも、風をうならせる声も、どんどん詰めたい風の勢いを増していった。そのおかげで、街は冬の色合いをより一層濃くして、人々は震えあがっている。にもかかわらず、人々の顔は生き生きとして、その詰めたい冬の中でも、笑いながら歩いていくのである。
クリスマスのライブは大成功だった。いつもよりもたくさんの人がやってきて、たくさん設けることができた。毎年そうだけれど、彼は街の有名人になりつつあった。彼がライブをするときだけは、風が強くなり、心の中の悲しみを散らすことができるのである。
「五十嵐くん。よかったらきょう、君の家にお邪魔してもいいかな?」
ライブが終わった後、雪男にそう言われ、五十嵐は少し困った。自分が住んでいる下宿のことを、あまり誰かに知られたくはなかったからだ。それでたくさん人が押しかけられたら、みぞれに迷惑がかかってしまう。
しかし、雪男にはその寒太郎の懸念がわかっていたようだ。
「大丈夫。君の家のことはほかの誰にも言わないから。」
寒太郎は、雪男のことを信用して、家に案内することにした。彼女の大切な少女、笹本寒菜は、先に帰ったらしい。
「五十嵐くん。案外拾い部屋に住んでるんだね。」
普通の人間からして、これは拾い部屋の部類に入るのかはわからないが、寒太郎のふるさとの家は、この入れよりもずっと狭い。ずっと狭いのに、全然防寒対策はできていない。すき間風はいつも入ってくるし、クリスマスプレゼントを机にいっぱい広げようとしたら、机からはみ出して床に転がって、気づいたらそのせいで家中大変なことになるぐらいの狭さなのである。
こんな拾い部屋をくれたのも、全部みぞれの優しさのおかげなのである。だからこそ、雪男がサプライ図で買ってきてくれた手袋とフライ度チキンが、きちんと机のうえに収まっている。
「ぼくは君の家に遊びにいったことはないけれど、きっとふるさとの家はさぞ狭いんだろうね。」
「うん。この街にいる間だけ、こんなに拾い部屋を使えるなんて、幸せすぎるよ。幸せすぎて罰が当たるぐらいだ。」
雪男はそれを聞くと、少し怒ったような顔で笑った。
「そんなことで罰なんか当たるもんか。幸せは、受け入れることが大切なんだよ。」
雪男の言葉に、寒太郎はすっかり救われたような気持ちになった。雪男は雪から生まれた男のくせに、どうしてこんなにも温かい言葉をかけてくれるのだろうか。きっと、大切な人を見つけたからこそ、彼は温かさを得ることができたのだ。
寒太郎は、そんな雪男が買ってきてくれた温かいフライ度チキンをほおばる。こんなチキンをクリスマスに食べられるなんて、予想もしていなかった。こんなに幸せなクリスマスは久しぶりである。小さかったころは、まだ両親も元気で、よくクリスマスプレゼントを大きな袋にいて手渡してくれた。しかし、そんな日々も今となっては遠い過去に、まるで風に飛ばされたように消えてしまったのだ。
最近のクリスマスは、申し訳なさ程度に自分のお金で買った小さなクリスマスケーキを、みぞれをみぞれの息子が根静まったあとに食べる程度のことしか、できなかったのである。今年もそうする予定だった。しかし今ここには、温かい友人と温かいチキンがあるのだ。
チキンを食べている彼の横では、雪男が机のうえにおかれた小さな切符をみていた。
「あ、これか。君はいつもこの切符を持って、この街に来ているんだね。幼なじみでありながら、君がどうやってここに来ているのかまったく知らなかったよ。」
言われてみれば、寒太郎は、自分がどうやってこの街に来て何をしているのか、あまり他人には話していなかったのだ。普通の人はめったに取れない『木枯らし1号』の切符を自分が手に入れていることは、天候性の人間には、とくに知られたくなかった。その入手経路を聞かれてしまっては困るからだ。しかし、雪男はその特急県が発売される場所を知っているから、知られてもそんなに問題はない。
「ぼくもこの列車には乗ったことはないんだけど。ほかの『木枯らし』とは何か違うの買い?」
「いや…。そんなたいして変わらないよ。ただ…少しスピードが早いだけなんだ。」
「そうかそうか…。」
切符には、『11月30日。特急木枯らし1号特急県・乗車券。1号車1のA。取り消し・払い戻しは不可。譲渡不可。』とかかれている。それだけこの切符は特別なのだ。
雪男は、きっ部のそばにおいてある赤い本に気づいた。そんなに分厚くない本のようだ。
「この本、みてもいいかい?」
寒太郎はそう聞かれたので、チキンを食べながら小さくうなずいた。その本のことも、寒太郎はほかの人間には話していなかったのだ。
その本のタイトルは、『冬の風時刻表』というもので、木枯らしがいつどのぐらい吹いて、どの街にやってくるのかが細かくかかれていた。これも、寒太郎たちの郷里に売ってあるものを除けば、出回っているものはとても少ない。
「木枯らしというのはこんなにいろいろなところに走っているんだね。」
「この時刻表は毎年変わるから、毎年違うのを買わなければいけないんだ。」
「君はこれの中で、いつ帰るんだ。」
雪男は時刻表をじっくり眺めながら、寒太郎に尋ねた。確かに、こんなに細かくかかれている時刻表の中で、いつ帰るのかを推測するのは難しい。
「最後から2番目のページに書いてある、これだよ。」
寒太郎は桜のマークが付いているページを指さした。そこには、『春1番1号。3月27日。9号車3番B。取り消し・払い戻し不可。譲渡不可。』と書かれている。
「春1番なんかに乗ったら、温かすぎるんじゃないか?」
「そうだけど、こいつが一番早く、ふるさとにつれて言ってくれるから。」
寒太郎は、改めて時刻表をパラパらめくりながら、風というのは季節を区切る魔法のようなものだと思った。しかし、そんな区切られた季節を告げる風は、いったいなぜ、どこから吹いてくるのか、風を操る寒太郎ですら、その目的や源は知らないのだ。どれだけ風が季節を告げたところで、人は季節の境目を忘れていく。
寒太郎にとって、時刻表はカレンダーのような存在であり、なくなれば予定が管理できなくなって、いつ帰ればいいかもわからなくなる。そして、何よりも重要なのは、この切符がなくなれば、永遠にふるさとに帰れなくなる。そしてもっと怖いのは、商売道具であるギターと笛がなくなることだ。これがなくなれば、寒太郎は食い口を失って、この街にいられなくなってしまう。つまり、この三つどれがなくなっても困るのである。だからそれを誰かに盗まれたりしないために、寒太郎は誰にも自分の家やこの街に来る方法について話さなかったのである。せっかく木枯らしに乗って、働くために街までやってきたのに、街で仕事に失敗したり、街から帰れなくなってしまっては、本末転倒である。
雪男が帰ったあと、寒太郎は少しだけむな騒ぎがした。もしかしたら、雪男は誰かにこの話を言いふらしたりはしていないだろうか。誰かがこの家に入ってきて、大切な宝物を盗んだりしないだろうか。この冬も温かい気持ちをいろいろな人に届けて、温かい気持ちでふるさとに帰ることができるだろうか。もちろんそんなふうに友人を疑いたくはない。しかし、どうも心の中に、追い出そうとすればするほど詰めたい風が入るってくるのである。
「がちゃん!」
寒太郎の部屋で恐ろしい轟音がしたのは、雪男が寒太郎の家を訪れてから1カ月と少し経った日の夜だ。寒太郎が、眠っている間に、青白い顔をした人相の悪い男が、彼の部屋にしのびこんで、彼の部屋をみるも無残な姿にしてしまった。といっても、彼の布団や机はなんの問題もないのだ。問題なのは…。
物音で彼がとび起きたときには、もうその男の姿はなかった。ついでにいえば、彼の部屋は彼が眠る前とだいぶ様子が変わっていたのだ。
机のうえにおかれていたはずの、木枯らしの切符が入ったパスケースも、ギターケースも、笛も、そして、時刻表も、すっかり姿を消してしまったのだ。まるで…自分の未来が、遠くに飛ばされていったような気分だった。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。自分にとって大切なものが、ほとんどすべて消えてしまった。もう何もすることができない。外に出たところで、商売道具がないのだから、働くことすらできない。逃げて帰ろうとしたところで、帰ることもできない。あのパスケースに入った切符は、木枯らし1号と春1番の切符2枚で一つである。二つともなければ帰ることはできないのだ。つまり寒太郎はこの時点で、動くことすらできないほどになってしまったのである。
「
「ぼくのせいなんだ。」
携帯から漏れる雪男の声はずっと震えていた。よほど寒いところにいるのだろう。それはそうである。雪男がいるのは、罪というとても寒い牢獄の中なのだから。友人に犯す罪ほど、恐ろしい罪はない。
「昨日、道端でばったり山瀬と吹雪に出会ったんだ。」
その名前が出た瞬間、寒太郎の電話を持つ手が震えた。彼も今とても寒いところにいるのだ。自分の体以外はほぼ何も持っていない、空っぽで北風が暴れるように吹いている寒い場所に、今寒太郎は立っている。自分の中に何もないというのは、とても寒い状態なのである。
「そいつらは、なぜかぼくが君の家に行ったことを知っていた。それで、君の家がどこにあって、いったいどんなものがそこにあったのか全部教えろっていうんだ。もしそうじゃなかったら…僕の体に熱湯をかけるって脅された。熱湯なんてかけられたら、僕の場合やけどじゃ済まない。独をもラれる能登同じだ。もうどうすればいいかもはっきりわからないまま…そのまま彼らにすべてを打ち明けていたんだ。打ち明けている間はほぼ意識がなかった。まるで雪だるまみたいに、心のない話し方をしていたから…。」
今の彼の口調も、何も色のない冷たい音だった。きっとそうでもしないと、自分の中にある感情が、何かを傷つけてしまうから。何も傷つけなくていいようにするならば、何の感情もない音の連続を放っていたほうがましなのである。それは
寒太郎にもよくわかった。
寒太郎は、自分の中にある感情をどのように整理するか悩んだ。自分を裏切った友人を攻めることはできる。実際、その事実を認識したとき、もう誰のことも信頼できないという恐怖に襲われていた。けれど、もし雪男が自分を守ってくれたとしたら、彼は何も言わずに信でしまうことになる。きっと、もし雪男が死んでも、憎むべき同郷の怪物たちは、何らかの方法でこの家を襲うだろう。つまり、寒太郎は、大切な友人を殺さなくて済んだということにもなる。
しかし、完全に雪男を許すこともはばかられる。いったいどのようにして、これから前に進めばよいのだろう。
「本当にごめんよ…。ぼくが君の家に行ったからだよね…。そんなことをしなければ、あいつらは、あいつらは…。」
感情の雪の中で、震えながらしゃくりあげる雪男の声を聞きながら、寒太郎は言葉を探す。どんな言葉を、自分のために、彼のために、今この冷たい現実に放り投げようか。どんな音を、僕たちの中に刻み込めばよいのだろうか。
「それ以上謝らないでくれ。」
寒太郎は、自分の声が低く響いたのを感じた。少し強い言い方になりすぎてしまったかもしれないと反省した。そして、そんな言葉しか自分の中から見つけ出すことができなかったことにも、音のない落胆が押し寄せた。
「残されたこの季節、ぼくは精いっぱい頑張ってみる。だから君も…頑張ってほしい。負けたくないだろ?あいつらに。」
「うん…。」
雪男のたしかな声を聞いて、寒太郎は安心した。えらそうな言い方になっていないか気を使いながら言葉を選んだつもりだったのだ。もしその言葉の刃で、せっかく自分を救おうとしてくれるかもしれない仲間を傷つけてしまってはいけないからだ。自分は誰かのことを傷つけるために生まれたつもりはない。ただ冷たい冬の中にあるたしかな温かさや希望を伝えたい。ただそれだけなのに、どうして知らないうちに誰かを傷つけてしまうのだろう。傷つけるぐらいなら傷つけられたほうがましなのに。
「ぼくは…北風小僧の寒太郎を助けるよ。君がこの街に美しい北風の音を吹かせる限り、ぼくは君を守る。手を取り合って生きる。それが冬という季節の生き方だから。」
雪男の言葉は、dのことも信頼できないかもしれないと思っていた寒太郎の心の中に、少し地位かな日をともしてくれた。
「お兄さん。増えとギターはどうしたの?」
「きょうはライブをやられないんですか?いつも楽しみにしていたのだけど…。」
「お兄ちゃんの演奏、また記聞きたいよ。」
いつもライブをする路上には、今日もたくさんの人たちが集まってきてくれている。彼らは何を待つでもなく、何もない冬の空を見上げている。まるで、風がやんだ世界で、突然止まった時間の原因を探るみたいに、何をするでもなく、無秩序に並んだ人たちは、その風が吹くのを待っていた。
自分にはそんな風を吹かせる能力は、もう持っていない。なぜなら、風を吹かせるための道具もない。これからどうなるかわからないという不安のせいで、未来に対する希望がない以上、誰かを温めることができるのか不安である。初戦風を吹かせられる能力を道具に頼ってきただけで、寒太郎は、この体一つでは何もできないのだ。そう教え込まれてきた。
「どうせてめえはただの北風小僧だ。風を吹かせることなんて、風笛がなきゃできないようなやつは、とっとと山で野垂れ死ぬんだな。」
山での修業中、山瀬や兄弟子の吹雪にそういわれ、いじめられていたことを思い出した。寒太郎は、ほかの仲間たちよりもずっと体が小さく、幸也風を思うように操ることが、ほかの仲間槍苦手な列島性だったのだ。だから、自分は本当に何もできないんだと思い込んでいた。思い込むようにすれば楽だったのだ。
だから今日も、悲しげに風が吹くのを待っている人たちをみて、何もできずに道に突っ立っている。これではただの、普通の人間だ。この世界から消えるべき、邪魔な存在になってしまっている。もしもっと大切な人が生きられるならば、今立っている場所をその人に譲り渡してもいいとさえ思う。
「五十嵐くん。」
ふいに、今朝雪男が言ったことを思い出した。
「君はできるよ。君の心がそう望むなら、君だけでどんなこともできるよ。ぼくには、それぐらいの言葉しかかけられない。」
自分の心が、自分は風を吹かせられると、自分は人々を感動させられると望むならば、たとえ道具がなくても、前に進むことができるという。そんなことはありえるのだろうか。自分は何もできないと言われ続けてきた寒太郎は、もちろんにわかには信じられなかった。けれどここで立っていてもしょうがない。悲しげな人々の顔ほどみたくないものはない。
「今日は、ぼくの体で演奏します。」
さっきまで、まるで感情のない人形のような顔をしていた人たちから、拍手が一世言いにわき起こった。みんな、冷たい風が吹くのを、実は心待ちにしている。こんなにも、誰かに必要とされている自分の喜びを感じたことはあっただろうか。
大きく息を吸い込んで、自分の心を音に込めた。
口笛なら吹ける。それが無理なら指笛でもいい。とりあえず、何らかの形で、体から笛の音を出せればよい。そう思って息を吸い込んだのだ。
気づけば、白い息が口から漏れていた。その息は、冷たい風の音になって、街中に、この世界中に響いた。笛の音では出ない、どことなく雑身の混ざった、体にしみわたる冷たい風だったのだ。
「北風小僧の寒太郎。」
聴衆は、寒太郎がライブの最初に奏でる局の歌詞を、すっかり覚えてくれていたあ。人々に冬という季節が浸透した証だろうか。
寒太郎の目の前に、透明のギターがあ現れた。そいつを指で弾くと、聞こえないはずなのに、いつも使っているギターより少しチューニングのずれた音が聞こえてきた。そいつをそっといじってみると、少しずつチューニングが合わせられるようになってきた。風は確かに、追い風に変わっている。
自分は何もできないと、寒太郎は思い続けてきた。しかしそれは、1歩を踏み出せない自分に対する甘えだということに気づいていなかった。自分の心だけで奏でる音のほうが、ずっと強く、ずっと美しく響いたように、寒太郎には思えたのだ。
そしてそれは寒太郎だけではなかった。笛やギターを使っていたときよりも、ずっとたくさんの人たちがライブを訪れるようになったのだ。そして
よりたくさんの人たちがお金を払ってくれるようになった。もちろん、客の数やお金の量だけで幸せになれるわけではない。しかし、そのお金や人の数に見合うほど、人々の心に、何か大きな変化が現れていた。
それから、その街には強い北風が吹き続けた。人々は、例年よりも1枚分厚いコートを着て、例年よりもたくさん風邪を引いて、例年よりもたくさん寒さに凍えそうになったけれど、例年よりも大切な人の温かさを知って、例年よりも自分を大切にしようと思うようになった。それはひとえに、ふるさとを離れ、大切なものを盗まれ、途方に暮れた孤独なミュージシャンの少年のおかげなのである。彼は、最後の最後まで大切なものをなくしたからこそ、彼はまた新たな大切なものを手に入れられたのだ。
『寒太郎へ。お元気ですか?あられも雹魔も元気です。わたしは相変わらず、布団の中でこの手紙を書いています。』
寒太郎のところに、ふるさとの母からの手紙が届いたのは、少しずつ街に春の足音が近づいてきた3月のある日だった。そのひも、寒太郎は一生懸命ライブをして、たくさんの人たちを喜ばせていた。今年は、彼のライブのせいもあってか、春がこの街にやってくるのも少し遅くなりそうだ。季節が許す限り、もう少しここで働こうと、寒太郎は思っていた。そして、お金がたまったら、きちんとした乗車券と特急県を買って、ちゃんと電車に乗って、なんとかしてふるさとに帰ろうと思っていた。要するに、自分が大切なものを盗まれた分、今はふるさとに帰ることができなかった。結局は、自分のことも守ることができないほど弱い人間だったことになるからだ。思うような成果が出せていないのに
ふるさとに帰ってほんとうによいのだろうか。それに、乗車券や特急県にお金を使ってしまったら、家に持って帰る分のお金や、お土産を買うお金がなくなってしまう。そういう意味でも、ふるさとに帰ることはできない。
要するに、寒太郎はふるさとに帰りたいという思いを封じ込めるように必死に働いた。帰りたいと思ってしまえば、自分の弱い部分や自分の見たくない現実が迫ってくるような気がしたのだ。別に本当に帰りたくないわけではなかったし、ふるさとのことを忘れたわけではない。本当にふるさとが好きで、ふるさとに帰りたいからこそ、寒太郎はふるさとを捨てたのだ。
しかし、そんなときに寒太郎は、ふるさとを思い出す手紙をもらったのだ。手紙には母が震えた手で書いた雪だるまの不格好な絵が書かれていた。そんな絵でも、寒太郎には美しい画家が書いたような絵に見えたのだ。ひいき目ではなく、寒太郎は母の書く絵が好きだった。
『一生懸命街で働いているのでしょうか。もし時間があるならお便りを1通でもください。もうすぐ4月ですね。きりがついたら帰ってきてください。あられも雹まも、あなたの帰りを待っています。たくさん街のお土産を持って帰ってきてください。あなたに元気で、おかえりって言えることを楽しみにしています。母より。』
母は、自分の家族の家庭環境のせいで、あまり学校に行くことができなかったという。そのため、丸井ひらがなが、まるで雪のうえに整列した子供みたいに並んでいる。そんなひらがなの集合体は、美しい形になって、寒太郎の目の前に現れた。
外では、大きな車の音や、大きな声で話しながら歩いている人たちの声、家から大きな声でないている犬の声、いつまでも明かりを絶やさない建物の姿が、この街の存在を主張する。そんなことをしなくても、ここが自分のふるさとと違って都会であることなんて、この街に来るようになってからわかっていた。
そんな街の喧騒が、家のすぐそばで騒いでいるのに、なぜか自分の目の前にだけ、雪に包まれて、真っ暗であまり音のしないふるさとの夜が広がっていた。音はしないけれど、雪が払底手不便だけれど、車がたくさん走れるような大きな道路はないけれど、それでも自分のふるさとには人は住んでいる。温かい場所を探して、お互いに身を寄せ合って、毎日を一生懸命に生きている。どんな街であっても、どんな季節であっても、人はそれぞれの生き方で、一生懸命に生きている。場所や季節を基準にして、人の生き方の善し悪しなんて決められない。
帰りたい。そう強く自分が意識していることがわかったのはそのときだった。街に出たからこそ見つけたふるさとの形や、街でいろいろなものをなくして、いろいろなことを知ったからこそ感じるふるさとのぬくもりが迫ってくる。この気持ちを、早くふるさとに持って言って、喧嘩しながら大人への階段をかけあがる弟や妹にも伝えたい。布団の中で、いつ終わるかもしれない人生にこれでもかと言うほどにしがみつく母に伝えたい。そしてもちろん、冬の街で家に帰ろうとする人たちにも…。
そのためにも、自分は早くふるさとに帰りたかった。今すぐ強い風邪に乗って、大切な人の住むふるさとに帰りたかった。それがもし簡単にできるのなら、今すぐにでも…。
手紙を読んで過度な干渉にふけってしまっているような気がした寒太郎は、あわてて自分の肩をたたいて、さっき買ったばかりのコンビニ弁当を食べた。そいつを食べれば食べるほど、母が不器用な手で作ってくれるハンバーグやオムライスの味を思い出す自分を憎らしく思った。
帰りたい…!そう思えば思うほど、まだ帰れないという思いが募った。帰りたいとおもうの自分のただの甘えであって、自分に素直になってしまったら現実を受け入れないことなんて簡単にできるような気がしていた。大切なものをたくさん盗まれた以上、この現実を受け入れて頑張らなければいけない。大切なものをなくさないような自分にならない限り、ふるさとには帰れない。
しかし、ひらがなの抜け殻に隠れた母の顔が思い浮かぶ。喧嘩をしながら雪合戦をして、まだ帰らない兄の姿を探す兄弟たちの姿が目に浮かぶ。まだやってこない春を待つ、どこか期待に満ちたふるさとの木々や花や鳥たちの様子が浮かぶ。彼らにあいたい。彼女たちに話したい。兄弟たちを抱きしめてあげたい。母にいろいろな話をしてあげたい。もっとふるさとを近くに感じていたい…。
さくらの開花宣言までもう少しという、だいぶ温かくなった日に、寒太郎はまたライブをしていた。さすがに目の前に春が来ているだけあって、客足はまばらになりつつあったが、それでもまだお金を払ってくれる人はいた。つまり、まだ寒い春の夕暮れだった。そのせいか
堅いさくらのつぼみはなかなか目をさまそうとしない。寒太郎の奏でる音楽を聞いて眠っているのだ。
透明のギターも、自分の体から飛び出した笛も、だいぶ扱いに慣れてきた。自分はいろいろなものを落としたけれど、それでも残ったものでなんとかやっている。これで十分頑張っていると言えるはずだ。しかしそれでも、自分は弱いのかもしれないという悪いささやき越えが心の中で暴れる。葛藤を周りの人に見せないように、寒太郎は必死で演奏をした。
ふいに、大事なメロディーよりも高い音のメロディーが口からこぼれてしまった。どこかすりきれ多ような笛の音が街に響く。聴衆は少し驚いたような顔をして寒太郎をみた。
なんだか甘い香りの風が吹いた。沈丁花のにおいだろうか、さくらのにおいだろうか、それとも杉花粉に乗ってやってきた誰かの香水のにおいだろうか。それはまさしく、春の風のにおいだった。
寒太郎の目の前に、1枚の小さな紙が舞い降りてきた。そいつは、何かの花びらでできてるみたいに薄かった。だから最初、花びらが散っただけなのか元寒太郎は勘違いして演奏を止めないつもりだった。けれどそれは、ただの花びらではなかった。
『五十嵐寒太郎さま。4月十日、さくら前線1号、1号車3番A席、特別指定席県。取り消し・払い戻しは不可。譲渡不可。』
見たことのないチケットに、寒太郎は茫然としてしまった。
「どうしたんですか…?」
聴衆は、突然演奏を止めたミュージシャンを見つめた。彼らにはその花びらが見えていないようだった。演奏が止まったのと同時に、一瞬吹き荒れていた北風も、眠ったように止まってしまった。
「皆様に大切なお知らせがあります…。」
寒太郎は、手にした花びらをポケットにしまいこんで、ゆっくりと言葉を待ちに
放った。
「ぼくはもうすぐふるさとへ帰ります。いつもより遅い帰郷です。この街で、ぼくはあるとき、大切なものをなくしました。自分がいやになりました。未来に進む歩き方も、過去への帰り方も忘れてしまったことがありました。こんなぼくが、ふるさとから働きに来て、背中を伸ばして帰ることなんてできるのか、そんなことをしていい存在なのかわからなくて不安な日もありました。けれど…ぼくのふるさとに大好きな美しい景色があります。もうすぐ春に向かって溶けだす新鮮な雪解け水があります。いつも喧嘩しているかわいい兄弟がいます。病弱だけれどやさしい母がいます。大嫌いで一生かけても許せない友人がいます。ぼくには大好きなふるさとがあります。それを改めて教えてくれたこの街に感謝して、ぼくはもうすぐ帰ります…。」
春の風のにおいを嗅ぐと、なぜだか涙が止まらなくなる。寒太郎は幼いころからそうだった。それは、大好きな冬が終わってしまって、これからはまた春のまぶしい日差しが自分の目を痛めつけることを思い出すからだろう。
でもそれは寒太郎だけではなかった。寒太郎の長いあい査察が終わった後、人々はハンカチや吹くやマフラーで涙を拭いていた。そこには確かに、甘い香りのする風が吹いていた。そしていまだに、口笛のすりきれた音が街に響いていた。
寒太郎は家に帰ってみて気づいた。自分はいままで、自国票の最後のページを開いたことがなかった。開いたことがなかったのか、そのページの存在に気づいていなかったのか、開くべきではないと思ってそのページの存在を記憶からけ北だけなのかは定かではない。けれど、いままでそのページをみたことはなかったのだ。
そのページにま確かに、満開のさくらのマークとともに、『さくら前線1号』と書かれていたのだ。
誰がこのチケットを手配してくれたのかなんて、寒太郎はどうでもよかった。このチケットを手にした以上、自分はふるさとに帰ることができる。帰らなければいけない。帰りたいという自分の気持ちを許してやらなければいけない。なにせこのチケットは、譲渡もできなければ払い戻しもできなければ取り消しもできない。それが木枯らしの人生だからだ。
ピンクの車体が北風小僧が一人だけつったっている小さなホームに現れた。そいつは甘い香りを纏って、楽しげにホームに入船してきた。社内には誰もいないように見える。寒太郎は、敗れそうなほどチケットを強く握りしめた。
ふと見ると、たくさんの人たちが空を見上げていた。立ちどまっている人もいるし、話しながら歩く人もいるし、走っている人もいし、つまずいている人もいるけれど、確かに自分のことを見つめていた。
そんな声がするわけがない。そんなふうにみんなが思っているわけがない。そんな存在になれてるはずがない。寒太郎はそう思うのだけれど、確かに手を降ってくれている人たちの姿が見えた。別れのあいさつをしてくれる人たちの姿があった。ハンカチを降ってないている子供たちの姿があった。
ピンクの車体は、たくさんの花びらを散らしながら、北風のふるさとへとすごいスピードで消えていった。甘い春の香りが、寒太郎の忘れ物みたいに、その待ちに残った。
雪がまだ残るホームに降り立った寒太郎のそばに、なきながらかけよってくる雪だるまみたいな笑顔とそれを制する細井腕の女性がそっと現れた。その瞬間、寒太郎のふるさとに、冬の終わりを告げる口笛が響いた。
「ただいま…!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます