積もる思い

積る思い

白畑雪男(ユキオ)

人はいつか死ぬ。まるで雪が溶けるように。それなのになぜ、人は大切な誰かを愛してしまうのだろう。なぜ人は、いつか別れが来ることを知っているのに、誰かの手を永遠に握っていられるような気持ちになるのだろう。出会わなければよかった…そう思う日がもし来るとして、人はその事実と向き合うことができるだろうか…。

白幡雪男は冬が好きだった。ゆきが降って、街は寒さの中で輝き続ける。新しくやってくる春に向かって、その寒さの中で、人々はお互いに温めあう。そんな冬の中で、雪男は幸せな日日をかみしめるのが好きだった。

あの年の冬まで、彼は冬を愛していた。でもあの冬を境に、彼は冬を感じられなくなった。自分のせいだということはわかっている。でも彼はあの年の冬、自分にとって大きな罪を犯した。

彼はあの年の冬、恋をしてしまったのだ。春になれば、そんな恋も、彼の命もはかなく消えてしまうとわかっていたのに…。

彼が、笹本寒菜(カンナ)に恋をしたのは、とてもささいなことからだった。

病弱で、ほぼ冬しか学校に登校することができない白幡雪男は、この冬も、登校できるようになったのは12月になってからだった。

めったに登校しない彼であるから友達がいるわけでもない。けれど、きちんと卒業して立派な人間になれるように、人一倍勉強し、こつこつ頑張ろうと決めていた。

そんな彼は登校初日から、友達と一緒に授業へ行くわけもないから、さっそく道に迷ってしまった。2時間目の体育を終えて、次の授業は化学であるということはわかっていた。今日は化学じっけんしつBという部屋で授業をやるらしいのだが、化学実験室Bという部屋がどうしても見つからない。理科の実験室が並んでいるところにはそんな部屋はなかった。こうなると、雪男は臆病になってあちこちを探し始めた。壁の裏や階段のわきに秘密の部屋があるのではないかと除いてみる。その部屋がみえたような気がして入ろうとしてはみるけれど、すぐにその扉はみえなくなる。そんな妄想を幾度か繰り返したとき、突然誰かの足音が近づいてきた。

また人生の一部を浪費してしまったと雪男は思った。こんなことをしていたら、気づいたら季節は変わっていって、雪男はここにはいられなくなる。そんなことを繰り返しているうちに、どんどん人生は短くなっていく。そんな姿を人さまに見せてしまうなんて一番恥ずかしい。雪男は、自分の白い顔が赤く染められていくのを感じた。

でもその赤面はもしかしたら恥ずかしさのせいではなかったかもしれない。

「あの…。どうしたんですか?」

笹本寒菜は、やさしげな目で雪男を見つめた。その瞳の美しさに、雪男は赤面してしまったのかもしれない。さっきまであんな白い顔をしながら、人生の無駄を考えていたというのに。

「あ…ごめんなさい。化学実験室Bに行きたいんですけど…どうも見つからなくて…。」

困った顔をしている雪男に、笹本はやさしく笑いかけた。

「ああ。実験室Bは、通路を挟んだ別当の2回です。あそこの実験室古いから、こことは別の建物にあるらしいですよ。」

「ああ、そうなんですか…。」

雪男は、そのときなんとなく思った。あんなふうに、誰にも道案内を頼まずに、学校の建物を放浪としていたときのほうが、人生の無駄なんだということだ。そんな時間があるのなら、もっとごの少女と話がしたかった…。

だが、そんなロマンチックなことを思ってはいけない。ここを去ることが悲しくなるような喜びにあふれるようなことを思ってはいけない。雪男に残された時間はほかの人より少ない。そんなときに、喜びに満ちた生活をみていたら、その時間がすべて終わるのがあっという間に着てしまう。雪男にはそれが耐えられなかった。大切な人を作ってしまったら、別れがつらくなる。それなら、寒い冬に耐えながら春を待って、何も思わずにこの場所を去ることができれば、雪男にとっては完ぺきなのだ。しかし彼の目の前には、そんな彼の常識を覆す少女が現れてしまったのだ。

「一緒に行きますか?あたしも今からそこに行くので…。」

その瞬間、雪男は彼女が同じクラスであることを知った。去年誰と同じクラスだったかなんかは覚えていないので、笹本が同じクラスだったことはそのときはっきり意識に上ったのである。どちらかといえば、彼はクラスメイトの名前を覚えたくなかった。なるべくクラスメイトとの交流を避けていたからだ。よい人間関係を作れば別れがつらくなるのだから。

二人は黙って実験室まで歩いた。何も会話を交わさなかったけれど、雪男はどのように彼女と距離を取ろうか考えた。そんなことはいままで考えたことがなかった。距離を考える以前に、ゆきおとこが 持っていた大切なものは少なかった。自分がその宝物を全部なくさず持っていられる自身がなかった。

二人で遅刻して実験室に行った。遅刻の理由について、笹本が説明をしてくれたおかげで、教員から怒られることはなかった。その機転も含めて、雪男は笹本に関心を示した。どれほど優しい少女なのだろうか。こんなにも頼りない自分に対してここまで尽くしてくれたというのに、自分はいったいどうすればよいのだろうか。授業中、彼は黒板に書かれた図式をみることより、そのことのほうが難しかった。

その日から、雪男の心は乱れ始めた。いままでに感じたことのない乱れに襲われた。何もなかった心の中に、突然温かい熱を持った新鮮な水が入り込んできたような状態なのだ。けっして悪い乱れ方ではない。むしろよい乱れ方なのだということを、雪男は知っていた。しかし、雪男にとってはその乱れがとても恐ろしいものだった。悪い乱れ方ではなく、最悪な乱れ方だった。自分の心が病的なまでに弱っていくような気がした。雪男は春を欲していた。誰にも邪魔されない永遠の春を欲していた。そしてその春を手に入れられたとしたら、それをすぐにでも笹本寒菜という少女と分けたいという思いだけが強くなっていく。

「笹本さん!」

次の日から、雪男は彼女を追いかけることに没頭するようになった。そんな彼を笑いものにしたりうわさをするような友人やクラスメイトはほとんどいないし、いたとしても雪男にとってはどうでもよかった。それよりも、今は春を手に入れたかったのだ。春は今にも自分の目の前に現れてくれるはずなのだ。

「あ…白幡くん。おはよう。また道に迷ったの?」

「違うんです…。その、一緒に教室に行きたくて…。」

あまりにも素直に一緒に登校することを申し込んだものだから、雪男はそんな自分が恥ずかしくて咳払いしてしまった。すると笹本は大きな声で笑って、その咳払いを隠してくれた。おかげでその恥ずかしさを周りに知らしめることはなかった。

「白幡くんって、もしかして案外さみしがりやなの?」

「はい…あ。」

そこまで自分の正確を話すつもりはなかった。そんなことをして嫌われでもしたら大変だからだ。とにかく今は冷静にこの日日を過ごすことを考えたかった。

笹本に対しては配慮に欠ける表現になってしまうが、彼女は友達が多いほうではなかったらしく、昼ご飯も一人で食べていることが多かった。雪男はそこを狙って、一緒に過ごすようになった。最初はさりげなく彼女の隣に坐って弁当を食べていた。しかし、少しずつ会話も交わすようになった。話す内容はくだらないことが多かったけれど、やさしく笑う笹本の笑顔は、雪男にとっては、張るの花びらのような大切な宝物だった。

それは突然だった。12月も中旬の、少し温かい日だった。人はこういう日を小春日よりという話を聞いたことがある。冬には似合わない温かい日差しが顔を出し、どこからか張るの鼻が香ってきそうな風が吹いてくる。その空想の香りの先に、雪男は笹本のたなびく長い髪を見つけた。ふいに彼は彼女に向かって走り出そうとしていた。しかしその前に、あちらから張るの鼻の香りは近づいてきたのである。これから本格的な冬が始まろうというその日、それは突然に起こったのだ。

「白幡くんが好きです。ずっとそばにいてください!」

笹本の声は、いつもより少し大きな声のはずなのに、いつもよりもずっとやさしく、透き通るように響いた。笹本の声はこんなに美しい声だっただろうか。こんなにもどこまでも遠くまで響き渡るような強い声だっただろうか。この声に包まれていれば、いつものように冷たい心を抱えながら、人生に対してつらい思いを積もらせることなく、温かいアイを積もらせながら生きていくことができる。

雪男は逆に返答に困った。きれいな答え方をすることがとても重要な気がしたのだ。しかし、どれだけ美しい言葉を探そうと、結局それは雪の中にぼやけるように消える。何よりも大事なことは、少ないこの美しい時間という春を無駄にしないことだ。

「ぼくもそう思っていました。君よりもずっと強く…思いを積もらせていました。だから、一緒にいさしてください。」

自分でも気づかぬうちに、まるで言葉の雪がなだれるように、雪男は笹本にそっと答えを返していたのだ。

それからの二人は、寒い冬をともに行き始めた。今年の冬は去年よりも風の強い冬のようで、毎朝、毎夕、そのつめたい かぜにくるしみながら、二人はともに手を携えて生きることを選んだ。

雪男の心の中には、自分が春を手に入れてしまったという事実だけしかなかった。これは禁じられたことなのだということも、雪男にはわかっていた。だからこそ、雪男は笹本を大切にしようと思った。誰にも渡したくなかった。ほかの人が笹本と話をしているだけで不安になることはたくさんあった。でもそんな姿を見せてしまったら笹本は気味悪がるかもしれない。独占よくの強い男だとは思われたくなかった。そう思われない程度に、笹本の小さな手を強く握っていた。誰かが笹本の手を奪って、冷たい冬の北風の中へ走っていかないように、その手をつかみ続けた。そう、彼にはそういう経験があったのだっ。

彼が笹本に対して、独占よくをはっきり持っているのは、失うことのつらさとか、アイを確かめるためだけではなかった。禁じられたこのま殺しの春を、誰よりも強く感じていたかった。もしかしたらこんな時間は戻ってこないかもしれない。永遠に戻ってこないかもしれない時間を占有してはいけないなら、自分は宝物を一つも持ってはいけないことになる。雪男は今に満足していた。この日日を愛していた。ずっと続いてほしいと願った。

笹本が許す限り、この手をつかんでいたかった。けれどたぶん、笹本が許さなくとも、こんなことをしていたら、彼は彼女よりも先に、ここから消えなければいけなくなる。

二人が付き合ってすぐ、街は彼らを祝福するようにきらきらと色めき立つようになった。人々はプレゼントの袋を肩に下げて、楽しげにケーキ屋さんに並んでいる。夜になればイルミネーションが輝き、カップルたちが写真を撮りながらはぐを交わしている。鈴に合わせて音楽が演奏され、子供たちは夢を語り合う。街のすべてが輝くクリスマスがやってきたのだ。

しかし今年のクリスマスはいつものクリスマスとはまたひと味違った。この街には珍しく雪が降ったのだ。しかも少しの雪ではない。きちんと積雪が観測されるレベルの雪だったのである。

アメリカの音楽家によって作られた『White Christmas』という曲がある。ホワイトクリスマスの美しさを賛美した歌なのであるが、これを白人賛美であり、黒人を差別している歌だと語る研究者がいるということを、雪男はどこかの本で読んだのを思い出した。その意見を読んだとき、いままでに感じたことのない怒りが湧き上がってきて、そのページの端っこをちいさく破ったことも覚えている。

「どうせそんな難しいことを言う人は、雪に染まる輝く街の美しさを知らない。その美しさがまぶしくみえるからなのか、彼らは白人賛美というものにすりかえる。なんてつまらない人間なんだ。雪が見せる冬の魔法、雪が見せる春にはない温かさを知らないこんな人たちは、氷の世界に閉じこもっていればいいんだ…!」

クリスマスの昼下がり、二人で入ったカフェの中で、雪男はいつにもまして熱を持って語っていた。体の中から何かが溶け出しているような気文さえした。ここまで自分の思いを語れるようになっただけ、雪男の心は温かさで満ちていたのだ。

彼が一息に意見を言って紅茶を飲んだとき、隣に坐っていた笹本は大声で笑った。

「雪男くんったら…。いつもとは大違いだね。」

「あ、ごめん…。うるさかったよね…。」

雪男は自分の赤い顔を隠すように下を向いた。するとまた笹本が鮮やかな声で笑った。

「うるさいなんて言ってないじゃんっ。わたしはうれしいよ。雪男くんがわたしの前で、こんなにも明るく話をしてくれるようになって…。学校で道に迷ってたときなんか、この世の終わりかってぐらい青白い顔してたからね。」

「あのときはね…。でも今は、寒菜がいるから…。」

雪男にとっては、紅茶の味やケーキの味なんかよりも、寒菜がいることが何よりもうれしかったのだ。寒菜の存在のおかげで、雪男は手に入らなかったかもしれない春をかみしめて生きているのだ。その張るが、もしかしたら雪男の人生を短くはかないものにしてしまうかもしれないことをわかっていながら… 。

「ねえ雪男くん。」

寒菜が突然まじめな口調で話を切り出した。もしかして寒菜は冷たい風の中に消えてしまうのだろうか。一瞬そんなことを心配になったが、もしそうなったら強く手を握ってやればいいだけのことだと思い、雪男は話を続けることにした。

「なに?」

「わたしもね…。雪男くんがいつも一緒にご飯を食べてくれたり、つまらない話でも聞いてくれたりしてくれてうれしかったんだよ…。あたし…友達とか作るの苦手で…。どんなこと話ていいかわからないし、どうやってその人と距離を取っていけばいいかわからなくて…。でも雪男くんは、わたしの話を聞いてくれるだけ聞いてくれて、ずっと寄り添ってくれたでしょ。わたしにはそういう人が必要だったの…。」

やはり笹本は雪男から離れていこうとはしなかった。ずっと信じてそばにいてくれようとしているのだ。こんなにも幸せで美しいことはない。それに、とくに人の話をきちんと聞いたこともなかったのに、彼女は雪男の寄り添い方を信じてくれていたのだ。その温かさが、雪男にとってはうれしかった。そんなうれしい言葉をくれた笹本のことが

雪男にとっては、誰よりもかけがえのない存在だった。

「雰囲気、しらけちゃったね…。」

小さく笑う笹本に向かって、雪男は得意のネタを披露する。

「そりゃそうじゃん。ぼくの顔は白いんだから…。」

そんな寒い駄洒落を言っても、笹本は冷たい顔を見せることはない。寒そうに震えながらも、きちんと笑ってくれる。だから雪男は駄洒落を言えるようにもなったのだ。

カフェを出て、二人は家に帰るために、駅まで歩き始めた。外には音もなく雪が舞い降りていた。でも雪男は、全然寒さを感じなかった。もともと寒さにだけは強いという性格のせいかもしれないが、それだけではない。そう、張るがすぐそばにいるからだ。

「ああ、やっぱり雪男くんの足跡のほうが大きいね。」

雪男は、二人がつけた足跡を見つける。雪男の履いている白いたか靴のほほうが大きくて立派な足跡だ。笹本の赤い長靴の足跡は、どことなく頼りなげにみえた。支えてあげなければいけない。そうしなければきっと笹本は雪の中に埋もれてしまう。

「そりゃそうじゃん…。だって二人でこれからも雪のうえを歩いていくには、どっちかの足跡が立派でなきゃ…。」

雪男がそう言ったとき、冷たい風が吹いて、危うく転びそうになった。

どきっとした。笹本ではなく、自分が転んでしまっては、誰が自分たちのことを支えようというのだろう。きっと自分が転んでしまったら笹本は困ってしまう。

あんなか弱い足跡を持った人を、雪の中に一人にしてしまったとしたら、自分は春を愛せる人間として生きていく資格なんてなくなってしまう。

そんなふうにあわてた顔をしていても、笹本は優しく肩を支えてくれる。

「大丈夫?雪男くん。ちょっと今日風強いね。」

「違うんだ…。ちょっと油断してたというか…二人で歩けることがうれしくて…。つい興奮してしまったのかも…。」

それを認めることは恥ずかしいけれど、それが事実なのだ。恥ずかしそうに歩き直す雪男をみながら、笹本は小さくつぶやいた。

「人の強さって、足跡の大きさじゃないのかもね…。」

その言葉が、いつになっても雪男の後ろをつきまとうようになった。どれだけ大きな足跡をつけられても、自分がしっかり歩けなければ、小さな足跡をつける人間に支えてもらうような弱い人間になってしまうかもしれない。この風の強い冬を生き抜くには、そんなか弱い生き方をしてはいけないのだ。 

そんなふうに、雪男が下を向いて考えていたら、笹本が思い出したようにつぶやいた。

「あ、そうだ…。渡したいものがあるんだけど。」

照れた顔の笹本が、かばんから取り出したのは手編みの赤いマフラーだった。雪男はそのマフラーをまともにみることができなかった。

「初めて自分で編んだマフラーだから、もしかしたらうまくできてないかもしれないけど…。」

雪男は、そのマフラーを触ってみたとき、世界で一番温かさを保証するマフラーであると確信した。どんな冷たい心も溶かしてくれるそんなマフラーなのである。このマフラーを使えば、どんな場所も温かく過ごせるような、そんなマフラーだと彼は確信した。

しかしそこで、雪男ははっと気づいた。自分はいつも笹本からものをもらってばかりいる。それどころか、クリスマスを誰かとともに平和に過ごしたことなんてなかったから、プレゼントを挙げるなんていう風習を、彼はほとんど体験したことがなかったのだ。だから、笹本の手編みのマフラーをみたとき、自分にたいするふがいなさが込み挙げてきたのである。

自分はどんなものを笹本に挙げられるのだろう。彼女はどんなものが好きで、どんなもの挙げれば彼女は喜ぶのだろう。

わからない。もしかしたら、雪男は笹本のことを何も知らないのかもしれない。彼女に何を渡すべきか、何も思いつかないのだ。ただ一つわかっていることは…笹本は雪男を愛しているということだ。

「ありがとう…。でもぼくには挙げられるものが何もないんだ…。」

雪男は、頭の中であることを考えていた。これぐらいしか、彼女に挙げられるプレゼントはないのである。

「いいんだよ、そんな。わたしが挙げたかっただけなの。いつも仲良くしてくれる雪男くんに感謝を伝えたくて…。わたしの一方的な…プレゼントっていうか…。ごめん、うまく言葉にできないや。」

「わかってるよ。だから…。」

雪男は、心の中からそっと、今作ったばかりのプレゼントを取り出すことにした。

笹本にキスをしたのは初めてだった。ファーストキスの味は格別だと聞いたことがある。キスには、さっきカフェで食べたケーキの味と、さっき飲んだ紅茶の味が混ざっているような気もするし、少し冷たい冬の風が混ざっているような気もした。けれどそのキスの味は確かに、はっきりと強い主張を放っていた。ずっと笹本を愛して行きたいという気持ちだったのだ。たとえ足跡が小さくても、今守るべきは笹本へのアイなのだ。

年があけてしばらくした週末、また二人の街に雪が降った。

窓をあけると、昨日まで何もなかった世界は、雪男のよく知る生まれ故郷のように、真っ白な粉をまいたみたいに、雪が積もっていた。誰がいつの間に、こんなにもたくさんの雪の粉を、この街にばらまいたのだろうか。世界中の音を吸い取るみたいに、その雪はどんどん積もっていった。昨日の世界はきっとこの雪の下で、何もかも忘れてしまったみたいに眠っているのだろう。

雪男はこんな雪をみるとわくわくした。

この街にこんなに雪が降るなんて知らなかった。全然雪が降らないとも思っていたからだ。しかしそんなことはなかった。ここは一面の雪景色だ。雪に閉ざされた世界の向うは、きっと夢で満ちあふれている。

雪男は、まるで少年に戻ったように、雪靴を履いて外に飛び出した。ここならいくつ雪だるまが作れるだろうか。ちょっとぐらいスキーもできるかもしれない。でもスキーやスノーボードをするのにちょうどいい斜面がない。雪合戦しかできないのだろうか…。わくわくしながらいろいろと考えをめぐらしているうちに、雪男は電話を手に持っていた。

「寒菜…起きてる?」

「どうしたの?雪男くん。えらい楽しそうじゃない?」

笹本の声が自分に比べて落ち着いていたので、雪男ははっとした。この街の人は、こんなにも美しい世界がやってきたというのに、そんな世界を知らないから、何とも思わないのだろう。

「一緒に遊ぼう。雪のうえで。」

「え?雪のうえで…?」

笹本は明らかに驚いていた。当たり前である。突然雪のうえでのデートを誘われたら、誰だって驚くだろう。とくに、多くの雪に慣れていないこの街の人たちは、雪を敵としか思っていないのだろう。

「だめだよ。滑っちゃうよ。」

「安心して。電車動いてないと思うから、ぼくがそっちまで、特性のソリで迎えにいってあげる。」

得意げに話す雪男と比べて、笹本はあわてている様子だった。

「だめだよ。あぶないよ。無理しないで…。」

「平気だって。ぼくは雪国の人間だから。そこで待って手…。」

雪男は、やっと笹本のために何かができたような気がしていた。雪のうえを猛スピードで走って、彼女を迎えに言った。彼女の家は、自分の家から直線距離でそう遠くないところにある。昔はよく使っていたそりを部屋から持ち出して

慣れない道をかっとばした。とても軽やかな気持ちになって、ずっと走り続けたい衝動にかられた。

「雪男くんって、本当に雪国の人なんだね。」

笹本は、新しい雪靴を履いて、慎重に雪のうえを歩いていた。雪男はそんな彼女の姿をみるのがかわいくてしょうがなかった。

「もっと楽しそうに歩きなよ。大丈夫。もし転んでも、雪は柔らかいから、大けがはしないよ。」

「そ…そうだけど…。」

恥ずかしそうに雪のうえを歩いている笹本をみながら、雪男は笑わないように我慢した。

「しょうがないなあ。じゃあ手を握ってやるからもっとしっかり歩いて。」

「うん…。」

不安そうに歩く笹本の手は温かかった。その理由を、雪男は手袋やマフラーのせいにはしたくなかった。彼女は、張るの神様だから、こんなにも雪の積もった日でも、温かい手をしているのだ。この手に支えられていたら、どんな冷たい心の持ち主でも心を溶かしてしまいかねない。

「よし。じゃあ雪合戦でもするか。」

雪男の突然の提案に、笹本は震えあがった。

「え?怖いよ。絶対雪男くんに負けるよ。」

「大丈夫。ただ雪だま投げるだけだから。」

雪男は怖がる笹本の手を強く握ってから、さっさと雪だまを作り始めた。笹本も観念したようで、雪だまを作り始めた。

突然彼女の頭のうえに大きな雪だまが降ってきた。

「いたたたたっ!今の、雪男くんでしょ!」

「さあ…誰かな?」

雪男は、すっかり子供に戻ったような顔をしていた。こんなにも楽しそうな顔の雪男を、笹本は初めてみた。だから、頭に当たった雪だまは痛かったけれど、その痛みを忘れるほどうれしかった。

「やったなあー!」

笹本は、作りかけの雪だまを勢いよく投げた。でも本気で投げたら雪男があっさり倒れてしまうかもしれないと思って、本気を出さずにそっと投げた。すると雪男は、あっさりその雪だまをよけてしまったのだ。

「だめだなあ、寒菜!もっと勢いよく投げなきゃ。そんなんじゃ、ぼくは倒せないぞ。なんてったってぼくは、雪から生まれた男なんだから…!」

雪男はさっきよりも大きな雪だまを笹本に投げつけた。もう、笹本の知っているいつもの雪男ではなかった。いつもよりもずっと強くてたくましくて、遠くにみえる雪男の存在に

笹本はとても感動して、なぜか寂しい気持ちにもなった。

「もう!わたしだって、本気を出せばもっと強く投げられるんだからね!」

笹本は、さっきより大きな雪だまを雪男に投げつける。少し命中したような音がしたけれど、雪男はあっさりその雪を体から払いのけた。

「なかなかやるじゃん。もっと本気出していこう!」

雪男が雪だまを投げている間に、雪がますます激しくなって、二人のレインコートのうえや靴のうえにはたくさんの雪が積もった。そいつを払いのけながら、笹本は必死に彼に負けない大きな雪だまを作ることを努力した。

雪というのは音もなく降ってくるから恐ろしい。けれど、雪が大好きな人々に夢を見せてくれる。音もなく現れる夢の妖精は、ずるがしこい笑顔を浮かべながら、そっと彼らの体のうえで跳ね上がる。

「ほれほれ!もっと強く投げて!」

「負けないんだから…!わたし、雪男くんみたいに、道に迷ったりしないもん!」

「ぼくだって、寒菜みたいに一人で弁当食べたり、雪のうえで滑りそうになりながら歩いたりしないもん…!」

二人は思い思いに叫びながら、雪を投げあった。まるで、二人の心の中にある、音のないアイのかけらをぶつけあうみたいに。二人は、ほかの人たちには見せない、純粋で童心に帰ったような顔をしていた。これこそ、雪が見せる時間を止めるという魔法なのかもしれない。

「あ、雪男じゃん。」

冷たい声が飛んできたのはそのときだった。突然回りの雪が氷に変わったみたいに、雪男が投げようとしていた雪だまが手のうえに張り付いた。そこには、同じく北国で育ったおさななじみの北野吹雪が立っていた。

彼は自分よりもずっと大きなソリや、自分よりも立派な雪靴を履いている。雪合戦をしたら絶対にかなわない相手だし小さいころ、というより、つい最近まで彼にはよくなかされた記憶がある。吹雪と雪男は幼なじみで同級生でもあるが、彼にとって吹雪は恐れの対象なのである。そんな男が突然、雪の魔法にかかっている雪男の前に、まるで現実を突き付けるように現れたのだ。彼はマフラーも手袋もしていなかった。温かいコートも来ていなかった。服を買う金がないからではない。彼は、まるで氷の世界で生まれたかのように、寒さには誰よりも強かった。雪国の人でも、ちゃんと防寒対策をしているのに、彼はそういうことをまったくといっていいほどしていないのだ。それが彼のプライドであり、誰にも負けたくないことなのである。

「なにやってんた。」

吹雪の低い声が、音のない雪の世界に、まるで怪物の蹄の音みたいに響く。笹本はもちろん吹雪にあうのは初めてだった。吹雪も二人と同じ学校には通っているが、笹本は顔を合わせたことがなかったのだ。笹本は、雪男と同じぐらい青白く、けれど雪男よりもずっと冷たい目をした彼のことを、どうしても好きにはなれなかった。

「雪合戦をね…。」

雪男は、できればこの場所を立ち去りたいと思った。このおとこの そばにいたら、かんなに格好悪いところを見せてしまうし、なによりも不安な気持ちになってしまう。ここは雪男とかんなの、雪の魔法がかかった世界のはずだったのに、そこは一気に、何もない極寒の地に変わってしまったのだ。

誰にも邪魔してほしくはなかった。とくに、この男にだけは邪魔されたくなかったのだ。

吹雪はしばらく何も言わなかったが、まるで世界を凍らせる冷たいため息をついた。

「見損なったぜ!これが雪合戦か。」

吹雪の声は、なぜかどこまでも響く声だった。雪はここまで音を響かせる魔力があったのだろうか。心なしか、さっきよりも冷たい風が吹いているような気がする。

「君にどうこう言われる筋合いははないと思うけど…。」

雪男は必死に感情を抑えた。ここで怒りをぶつけてもしょうがなかった。温かい心を持って人に接するほうがよいことを知っていた。どれだけ雪を降らせるような街の生まれでも、温かい心を持つことの大切さぐらいはわかっている。吹雪のように、冷たいことこそが美しいなんて考え方はとっくに捨てたはずだった。誰かに怒りをぶつけたり

誰かを罵倒することでみえる美しさなんて、思い込みによる美しさでしかない。

「雪合戦というのは、こういうことを言うんだ。」

吹雪は立ち上がり、地面に積もった雪を手の中で転がし始めた。

「やめてくれ!吹雪!」

雪男がいう前に、突然恐ろしい大きさの雪だまが、まるで生きた怪物みたいに襲いかかってきた。そして、弱まっていたはずの雪が風に乗って舞い上がってきた。

さっきまでの、魔法をかけてくれる雪ではなくなっていた。現実的で野獣のような目を持った雪の塊は、冬という恐ろしい季節の本省を表した。楽しく雪合戦をしてクリスマスを迎えて、都市を超してバレンタインを迎えるだけが冬ではない。雪害やしもやけに苦しむことも冷たい冬のイベントの一つだということを忘れてはいけない。しかし雪男も笹本も、そういう現実の裏にある冷たさを知ったうえで、そいつを忘れようとしていたのだ。雪の魔法にそういう力があったはずなのだ。しかし、雪は溶けていないのに、吹雪はあっさりその魔法を溶かしたのだ。

怪物みたいな雪だまがあちこちから襲いかかってくる。いわゆる戦いと言えるような雪の玉は、まるで芦屋首にかみつくように、雪男や笹本を直撃した。

「どうした、雪男。早くやりかえせ。これでは戦いにならないだろ。」

「ぼくは君と戦う気なんかない…。」

雪男は、笹本をかばいつつ、襲いかかってくる雪をよけるのに必死だった。吹雪と戦うつもりはなかった。負けることがわかっているからだ。それに怒りをぶつけることほど、雪に対して失礼なことはない。雪は神様からの贈り物なのだ。

「じゃあなぜ雪合戦などという言葉を使ったのだ。ただ女遊びを雪のうえでしていただけではないか。」

「君こそ、どうしてそんな言い方をするんだ…!」

雪男の目からあふれた涙は、あっという間に雪のうえで氷に変わった。その涙が冷たい怪物のえさみたいになっているような気がして恐ろしくった。

「おれたちには女遊びをしている暇なんかないんだぞ。こいに現をぬかして、この冬の現実から目をそらしているだけではないか。いつからおまえはそんなあまったるい男になったんだ。愛情や誰かを守ることが大切だと!ふざけるな!結局この冬みたいに冷たい現実で最後に己を守ってくれるのは己しかいない。たとえ愛した人間だとしても裏切られたらそれで終わりなのだ。己すら信じられないこの世の中で、雪のうえで女と雪を投げあうなど、人生を無駄にしているとしか言えない。そのくさった性根をたたき直してくれる。」

雪男はもう我慢できなくなってしまった。ころろの中にある、冷たい雪としての雪男の姿が、あっという間に服を脱いで、雪上に音もなく現れたのだ。笹本には見せたくなかった。その姿を見せて、笹本が受け入れてくれなかったときのことを、そのときの雪男は何も考えられなかった。

「いいかげんにしろ!君にぼくたちの雪の魔法を邪魔されちゃ困る!」

雪男は無心で、積もっている雪を、あっという間に恐ろしい怪物に仕立て挙げてしまった。そしてそいつを、勢いよく吹雪に投げつけた。これが雪男の本省だった。冷たい雪の世界で、冷たい現実と、幼いころらから戦ってきた。最後に己を助けてくれるのは己だということを、幼いころから雪上で教わってきていたので、他人を信じることはできなかった。だから学校に行くこともできなかった。雪のうえで戦っていればそれでいいと思っていたのだ。それが人生を全力で生きることだと思っていたのだ。

誰かに恋をして、春のように温かい心を持って誰かを愛するなんて独にしかならない。そう自分に言い聞かせてきた。そのときの自分の存在が、いまここに現れている。

「やっと本気を出したようだな。だかそんなんでおれを倒せると思ってるのか。」

「ぼくは本気だ。今すぐここから立ち去れ。雪や冬や現実の持つ温かさを知らない男に、ここにいる資格はない。」

雪男は、最大限の力を降り絞って、玉を投げ続けた。もちろん吹雪の投げる怪物のような雪だまも襲いかかってくる。そいつを必死でよけながらも、雪男はつかれた様子を一切見せずに、風や雪で対抗してくる吹雪の雪だまを、まるで小さなネズミのように蹴散らしていく。

笹本はただないていた。こんなふうに、恐ろしい現実が押し寄せてきたとしても、雪男はもろともせずに向き合おうとしている。そして、ただこんなふうに、恐れや喜びを前にないている自分とは違って、雪のうえにしっかりと足をついて、現実に立ち向かっていく。笹本は、雪男のことを守ってやらねばならないと思っていた。雪男は学校になかなかこれていなかったし、最初にみた雪男の顔は絶望に満ちていた。けれど、前に進めず、一人で毎日を生きていた自分のことをみて、しっかりと寄り添ってくれていた。雪男という名前に似合わない温かさを備えた人だった。だから笹本は雪男を愛した。そう、雪が持っている温かさを、彼は知っていた。

「もう十分だろ、吹雪。勝負は終わりだ。早く帰ってくれ。今はぼくたちの時間なんだ。」

雪だまを投げようとしている吹雪に、雪男は涙を流しながら切々と訴えた。

「ぼくにとっては寒菜は大切な存在で…君がなんと言おうと、この季節には、冷たい現実には欠かせない存在なんだ。だからお願いだ、ここから立ち去ってくれ!」

涙は雪の中では効力を失う。なぜなら、空気が冷たすぎて氷になってしまうからだ。しかしそのとき、雪男の涙は氷にならなかったのだ。

吹雪は、ただ黙っていた。いいとも悪いとも言わなかった。ただ、雪男の涙と、それに合わせるように降りしきる雪をみていた。

「勝手にしろ。いつかこの日日を無駄たと思う日まで楽しんでいろ。」

吹雪は、地面においていたソリに乗ってまたどこかへ消えて言った。まるで、雪の下に消えていくように、ソリは音もなく遠ざかっていった。

「寒菜…!ごめん、大丈夫だった?けがしてない…?ごめんよ、ごめんよ…!」

雪男は、雪の中でかんなにすがれついた。笹本は雪男を抱きしめた。気持ちは言葉にならなかった。それは二人とも同じだった。冷たい雪の中で、ただ抱きしめることこそが、最善の答えなのだ。

「わたしは、うれしかったよ。こんなかっこいい雪男くんがみれて。冬なのに、とても温かい気持ちになった。ちょっと汗もかいちゃったぐらいだよ。ありがとう。」

笹本はないていた。しかし、顔は恐れに満ちた顔ではなかった。雪の降る空を笑顔で見つめていた。

「ねえ、ちょっと待って手。」

雪男は突然、地面のうえの雪を丁寧にいじりはじめた。さっきみたいに

武器になるような雪だまを作るようなことはなかった。それどころか、きちんと作品になるような雪で作られた精巧な人間が、そこに生まれ始めていた。

「できた。これがぼくで、これが君。」

雪男と笹本の前には、小さな雪だるまが二つ並んでいた。一つは少し大きくて、もう一つは小さい。二人の背丈を反映しているのだろう。笹本はその二つの雪だるまを交互にみる。みればみるほど、その雪だるまの中に自分の感情があるような気がしていた。自分の分身として作られたであろう小さな雪だるまは、自分のことを少しつまらなそうな顔で見つめてくれる。自分はこの雪だるまほど美しい顔をしていない。こんな現実という冷たい冬の地面のうえでリンと立っている姿は自分ではない。もっと違う少女の姿をもして作られたような気もする。しかしそんなふうに疑うことは、せっかく雪男が作ってくれた、雪男の心の中にいるであろう自分の存在を傷つけてしまうような気がして、なんだかとても悲しく思えた。こんなふうに冷たい冬の地面にリンと立つ美しい姿になれるように頑張ることが

今の笹本の目標になった。

「でもこのわたしたちさ…。」

笹本は、心の奥にあった本当の気持ちをつぶやくように言った。

「手をつないでいないんだね…。」

笹本の言葉は事実だった。雪だるまになった二人は手をつないでいなかった。それは、雪だるまなのだから手をつなぐというような細かいものを作れないからではない。雪男はどんな雪だるまも作れるのだ。それも幼いころの経験からなっているもので、美しい雪だるまを作れる修業を何度も繰り返してきた。手をつなぐ雪だるまだろうが、美しい少女が少年にキスをする雪だるまだろうが、作ろうと思えばいくらでも作れるのだ。しかし…雪男はそうする有機が出なかった。いつも手をつないで歩いているのに、ここに立つ二人にはそうささせたくなかった。

「ねえ、寒菜。」

雪男は、並んでいる2体の雪だるまをそっとなでながら言った。

「ぼくは君にあえてとてもうれしい…。だけどね…同時にすごく悲しくもあるんだ。君のような大好きな人と、こんなところで出あえてしまうなんて。この美しい幸せな思い出は、いつかやってくる避けられない別れを育てて歩いてくるような感じがするんだ…。」

雪男には、笹本にすら言えない機密があった。

雪男は17年前の冬、この雪だるまから生まれた。母親が小さな雪だるまを作って、それを1週間氷の中で寝かせた。そのあと母親が何度か抱きしめたあと、彼は人間の体として生まれた。つまり彼の体の材料は雪なのだ。そうはみえないけれど、雪なのだ。

「ぼくには誰にも言えない秘密がある。でもこれだけは言えるんだ。ぼくがこのまま君を愛し続けていたら、もうここにはいられなくなるんだ…。張るになったらぼくはここにはいられなくなる。それでもぼくが君を愛し続けていたら、ぼくは、ぼくは…。」

雪男は、雪の積もった地面に顔を埋めてないた。今は笹本の腕の中ではなきたくなかった。笹本との決別に慣れておくためだ。いつかは分かれなければならない。いつかは自分も腹を決めて、もともといる現実に戻らなければならない。そうすればまた、笹本と来年の冬に再開できるかもしれないのだ。

「ねえ寒菜。明日はきっと雪もやんで、太陽が顔を出すだろう。そしたらこの二つの雪だるまはどうなるかな?張るになったらこの雪だるまはどうなるかな?きっと明日になったら、季節が変わったら、この魔法は溶けちゃうんだよね…。この雪だるまみたいに、溶けちゃうんだ…。それでも君はぼくのそばにいてくれる?ぼくの名前を呼んでくれる…!」

顔を埋めた雪男の背中に、笹本のやさしい手が当たる。その温かさが雪男を強くし・喜ばせ、悲しみを深くさせる。

「わかってるよ、雪男くん。」

笹本は雪男にすべてがつたわらなくてもいいと思った。言葉のすべてが伝わらなくても、ただ言いたいことを言うことにした。

「人はいつか大切な人と分かれなきゃならない。それは、雪男くんにどれだけ大きな秘密があっても変わらないことなんだよ。わたしだって、明日になったらこの雪だるまが溶けるみたいに消えてしまうかもしれない。だから、大丈夫。たとえ季節が変わって、雪男くんとわたしが分かれなきゃいけなくなっても、わたしはずっと、ずっと大好きだから!ね、雪男くん!分かれは、誰しもに与えられた大好きを試す実験なんだよ。」

降りしきる雪の中、二人は抱きしめあった。冷たい雪の中なのに、そこだけ切り取ったみたいに温かさが満ちていた。でもその温かさは雪を溶かすどころか、深い雪をさらに深くしていくようだった。

絶対に無駄にはしたくないと雪男は思った。自分の体が溶けてなくなるその瞬間まで、魔法が溶けるその瞬間まで、人生が終わりを告げる瞬間まで、雪男は彼女を愛し続けたいと思った。たとえどんなことが起きても

吹雪が押し寄せても、残された短い時間の中でできることをすべきだと思った。目の前に立つ二つの雪だるまは、どうやってもいつかは溶けてしまう。人間も同じだ。そのの有限の雪の魔法があるから、雪男は笹本を愛することができたのだ。

二人はその冬、何無自由なく楽しく過ごした。こんなに楽しい冬を過ごしたのは、二人とも初めてだった。冬が温かくて楽しい季節だと知ったのはその冬のせいだった。

2月も終わりに近づいて、もうすぐ冬も終わるだろうという週末、思い出したように、二人の街にもまた雪が降った。けれど二人は、それぞれの家族から許しを得て、電車で少し遠くの山まで行って、雪山登山をすることにしていたのだ。

「この前の雪男くん、すごいかっこよかったからさ。期末試験とか終わって落ち着いたら、一緒に雪山に上ろうよ。雪男くんとなら上れる気がするんだ。わたし、そういうおもしろいことやるのが、高校生活の目標でもあったんだけど、なかなか達成できなくて…。」

笹本がそう言ってくれたとき、雪男は素直にうれしかった。笹本が雪の魅力に気づいてくれた。そして、自分のことを心から信頼してくれるようになった。こんなにうれしいことがあって良いのだろうか。

だが、雪男は気づいた。もう二人に残された時間は、だいぶ少なくなっていることを。そして雪山登山をしたとき、二人はその時間のはかなさを体感することになる。

「うわー!だいぶ上ったね!」

雪山のうえではしゃぎながら写真をたくさん撮っている笹本に、雪男は小さく笑った。いつの間にか笹本は、雪のうえでもはしゃげる強い少女になっていたのだ。季節は確実に前に

そして別れへと進んでいる。

「そろそろいい時間だし下山しようか。」

はしゃぐ彼女を沈めたいからではなかったのだが、静かに雪男はそう言った。

「そうだね。じゃあ手をつないで降りようよ。そのほうが心細くないからさ。」

さっきまではしゃいでいたのに、突然笹本は静かになってしまった。山を下るのに少し恐怖を感じているのだろう。雪男にはその気持ちがよくわかった。登山と言うのは下山のほうが自己のリスクは高いし、山から落ちるなどの事故がおきやすい環境でもあるのだ。

「よし。じゃあゆっくりだよ。」

1歩を踏み占めるたびに、雪男は笹本の存在をかみしめるように、手袋越しに、その温かい手をしっかりと握った。笹本もちゃんと握り返してくれた。そこに言葉はなかった。この季節が少しずつ進んでいく中で、二人の手だけが言葉を持って話していた。いったいどんな言葉をこの手は伝えているのだろうか。お互いに手を握っていても

それはわからなかった。雪のうえを歩く小さな足音だけが、重なって響いている。

「ねえ…。」

しばらく降りたところで、笹本が突然てをはなした 。

「どうしたの?」

「わたし、一人で歩いてみたい。ちょっと離れて歩こうよ。」

その言葉がどういう意味なのか、雪男にはしばらくわからなかった。けれどおそらく

この雪山をそうやって歩きたいという意味なのだろうと解釈することにした。なんでも悪い方に解釈してはいけない。しかしそれでも、雪男には懸念があった。もし笹本が転んだり山から落ちたらどうしようかと思ったからだ。少し前までは、自分が心配される対象であったはずなのに、それはいつの間にか自分が彼女を心配しすぎるようになっていたのだ。きっとその理由は、終わってしまう季節に恐れていたためであるということを、雪男はわかっていた。

「大丈夫なのか?ここから旧になるぞ?」

「平気だよ。わたし、こう見えても自然には強いほうなんだから。それに、手をつないでなくてもそばにいるならもう怖くないし。」

雪男は、彼女が見える範囲まで距離を撮ることにした。彼女は楽しそうに後ろからついてきた。山を降りているところを写真に撮りたいらしく、立ちどまってはカメラを構えている。そんな彼女が、雪男は誇らしかった。自分もかのじもこうして強くなっていることが、雪男にとってはこの上なくうれしかったのだ。

しかし、愛する恋人たちがこんなふうに歩くと、突然襲ってくる危険には気づかなくなる。そして場合によっては取り返しの付かないことになるのだ。

雪男は、不気味な音が山の底のほうからするのを感じた。まるで仮仏が目をさましたような音だった。もしかしたら吹雪が目の前に現れて何かをたくらんでいるのだろうか。吹雪の制でもなんでもいいが、もし山に住む魔物や怪物が山のうえからかけ降りてきたとしたら、そいつがまず狙うのは笹本だろう。笹本はその怪物から逃げることはできるだろうか…。

そのとき雪男の頭に、恐ろしい創造が浮かんだ。

「寒菜ーー!」

雪男はかんなのいるところまでかけあがった。寒菜は何も気づいていないようだったが、後ろから押し寄せてくる怪物の気配に気づいたのか、カメラを取り落として身構えた。

「雪男くん…?あれは …?」

雪男は自分がとても臆病だと知っていた。山のうえからかけ降りてくる怪物の正体がわかっているのに、笹本の手を握れない。今握らないと、彼女をすくうことができないかもしれないというのに。自分が飲み込まれてしまうという恐ろしさのほうが、雪男の心を支配していた。

「寒菜!雪崩だ!早く!」

「待って!カメラがっっ!ああ!」

雪崩というのは、津波と同じで、突然恐ろしい早さで迫ってくるものだ。その迫り方は不気味で音がない。だから気づかないのだ。時間と言うものもそうだ。音もなく不気味な影を持って迫ってくる。人の死もそうなのである…。

「うわー!!」

雪男は思い出した。小学校5年生のとき、雪男は大きな雪崩で父をなくしていたのだ。そのときのトラウマが頭の中を駆けめぐった。あのときは、自分が迷子になって、それを助けにいこうとした父が巻き込まれた。あのときは自分が父を殺したと思っていた。

今もそうなってしまいかねない。とにかく自分の身だけは助かって、笹本を守りぬかねばならない。こんなにも愛している笹本のことを守りぬかねばならないのだ。

しかし雪崩という怪物はなかなかの強敵だった。厳しい雪国修業をしてきたのに、雪男は雪崩の勢いに逆らうのに必死だった。笹本を守るどころか、自分がそいつを制御することにすら苦慮してしまっている。

なんとか雪崩を食い止めるのに、かなりの時間がかかった。いったい

どれだけ時間がかかったのか、雪男には理解できなかった。理解したくなかった…。

「寒菜!大丈夫か!かんな!くそっ!」

笹本の姿は見えなかった。雪崩のせいで、二人とも方向感覚を失っただけでなく、積もっていた雪の位置が変わってしまったりしたのだ。

さっきいたであろう場所までなんとか戻ってかんなを探す。少しでも笹本の気配がないか、雪山に体のすべてを預けるようにして探した。

やっと笹本は見つかった。雪の中に埋もれていた。うえに被さった悪魔みたいな雪崩の残骸をけちらして、かんなを起こした。

「寒菜…大丈夫か?お願いだ!ぼくが悪かった!手を話したりしたからだよな!ごめん、本当にごめん。お願いだ…ぼくを殴るまでは死なないでくれ…!頼む!」

雪男は、笹本からもらったマフラーを首から外した。今の笹本にはこれが必要だったのだ。

「ば…か…!」

マフラーをまいて、体をさすりながら、雪男はなきじゃ食った。父が死んだと気もこうだった。けれど父は何も言ってはくれなかった。元気で生きろとも言ってくれなかったし、かっこいいセリフの一つも言ってくれなかった。父のことは大好きだったのに…!

でも今は違った。笹本が、「雪男」という言葉を発してくれた。マフラーの温かさが、笹本の心に届いたのだ。

「わたしは、雪男くんのことなんか、殴ったりしないよ。だって雪男くんは…わたしのことをこうやって温めてくれたんだから。逆にわたしが…感謝しなきゃいけないんだから…。殴ってほしいなんて言わないで。雪男くんは、わたしの大切な宝物だから…。」

「自分を攻めることは、愛する人の手を話すことよりもよくないことだよ。」

笹本の体は、雪の中から飛び出してもなおブルブルと震えていた。それでも、しっかりと雪男の肩に手をおいて、山を一緒に下っていた。そして、ぶるぶる震えながらも、伝えたい言葉を一言ずつ、足跡をつけるように発し始めた。

「雪男くんは、何も悪いことはしてないんだよ。悪いことどころか、わたしを守ろうとしてくれた。必死に探そうとしてくれた。何より…わたしの手を話してくれた。わたしを村長してくれたの。わたしはそんな雪男くんが大好きで、大切で、ずっとそばにいてほしいと思っているの。そのままの雪男くんで、ずっとそばにいてほしいの。手を話したくなったわたしが、もっと前をみていればよかっただけの話だよ。こんなわたしに… ずっと寄り添ってくれる雪男くんは、最高だよ。」

雪崩はやっと落ち着いたようで、山は静寂を取り戻した。けれどその静寂の原因は、もしかすると、笹本がこんなふうに、やさしい言葉を雪男にかけてくれているからなのかもしれない。自分がこんなに傷ついて、寒さの中で打ちひしがれそうになっているのに、雪男に温かい春の日差しのような言葉を送り続ける。

雪男は黙るしかなかった。自分のふがいなさだけが残った。けれど、自分でもわかっている。自分を攻めることで何かが解決できるなら、その世の中では自殺が当たり前になる。自殺が許されないこの世の中では、自分を攻めることは、けっしていいことではないのだ。

それに何より、愛する人が自分をたたえてくれている。それならば

その愛する人の言葉を素直に受け止めることが、何よりも重要なのだろう。

「寒菜…ありがとう。やっぱり君は、この世で一番温かい人だよ。ぼくはこんな温かい人に出会ったことはなかった。きっと君みたいな温かい人が、この山に上ったから、この山の雪も溶け出して、雪崩が起きたんだろうな。雪崩は、春が少し近づいている合図でもあるから…。それに…君のマフラーがなかったら、君を守ることも、ぼくたちがこうして二人で、山を降りることもかなわなかった…。だからやっぱり最終的には、君が僕たちを守ってくれたんだ…。」

自分が放つ言葉の一つ一つを、落ちたものから順番に、根のうえに乗せて観察したら、どんな触りごこちがするだろうか。きっと自分の言葉は、笹本のよりずっと不ぞろいな形をしているだろう。雪男は、しっかりと雪を踏み占めながらそう思った。自分で放った言葉の責任を感じるように。

「ぼくも君に一つお願いがあるんだ…。」

雪男は、一番伝えたかったことをいう前に、しっかりと足を前に出して、急な坂を降りる準備をした。

「人は…そんなに強くはないんだよ。冷たい現実の中で、どれだけ去勢を張ったって、どれだけ自分一人で生きられるって思ったって、結局いつかは誰かが必要になる。一人でいても解決できない問題に直面することになる。君がそうなったように…。

だから…自分一人でなんとかなるとか、手をつないでいるだけじゃだめだなんて、そんなことは思わないでほしい。それは…ぼくが君を束縛するためじゃないんだ。君もぼくも、こんなふうに手をつないで歯科、永遠の冬みたいな冷たい現実では、生きていけないんだ。お互いが持つ温かさを感じて、もし何かが押し寄せてきたら、その手をしっかりと握って、肩を組んで、歩いていくしかないんだよ。君は自分を攻めるなと言ったね。じゃあぼくはこういう。自分を孤独にさせないでって…!」

二人は、冷たい北風と一緒に山を降りた。風が一緒にいたせいか、そのあとは何も起きなかった。

けれど雪男は、やはり自分に対する嫌悪がぬぐえなかった。嫌悪というより、それは、父の死と重なる部分があったから、恐れなのだろう。

もし自分があの時、手を話していなければ…。彼女が何を言おうと、手を話さなかったら…。もっと早く雪崩の気配に気づいていれば…。

自分を攻めることよりも、どんなふうに彼女に寄り添っていけばよいのかを考えたほうが、よっぽど前に足を進める方法としては適切であることを、雪男は知っていた。自分を攻めても、新しいアイは生まれない。

雪男がここまで自分を強く攻めた理由は、父の死のトラウマのせいや、あの雪崩の恐怖だけではない。残された時間の少なさに気づいていたからだ。

3月になっても、二人は楽しく過ごしていた。雪男は、自分に残された時間が少ないことを忘れようと、二人で全力でひびを過ごすと決めていた。笹本はそんな雪男の変化に気づいているのかいないのかわからないけれど、一緒に残された季節を楽しんでくれた。

けれど3月も終わりに近づいて、春休みになった。雪男も笹本も、順調に行けば、3年生になる。雪男は、こんな季節までここにいたことはなかった。いつもこの季節になれば、雪部会北のほうへ帰って、修業に励むことになっている。結局は現実に溶け染めない弱い人間と同じなのだ。

春のにおいのする風は気持ち良かった。いままでに感じたことのない紅葉間が心に満ち足りていた。なぜこんな美しい季節に、自分はいつもいなかったのだろう。

しかしそんな春休みのある日、突然季節外れの寒波がやってきて、雪が降った。

いわゆる名残雪というやつだろう。雪男にとってはうれしかったけれど、なんだか往生際が悪くなったような気もした。

「せっかく花でも見に行こうと思ったのにね。明日から4月なのに、こんなに雪が降るなんて…。」

笹本は、薄く積もったなごり雪を見ながら、なんだか寂しそうに言った。

「ねえ、寒菜…。」

「なに?」

「春は好き?」

雪男は、この質問を支度なかった。自分は春を生きることができないからだ。本当の春を見たことはないのだ。もしそんなことをしたら、どうなるのか創造を支度もなかった。春は恐ろしい季節だ。自分の体を溶かし、永遠に消してしまう可能性があるのだ。春は花が先誇る美しい季節などではない。冬に生きるべきものたちにとっては、別れの季節なのだ。その季節を、笹本はどう思うのだろう。

「大好きだよ、春は。」

やはりそう言うと思った。もちろんそう言われたからといって笹本のことを嫌いになりはしなかった。しかしどうしても、雪男は春を愛せないのだ。春を手に入れたして、いつかは失うとわかっているから。

「でもね…。雪男くんと過ごせる春が、大好き。」

笹本がそうつぶやいたとき、小さな雪の塊が、空から舞い降りてきたような気が下。

どうして笹本は、こんなにも雪男のことを、春の中にとどめようとするのだろう。雪男は、この世界にはにてはいけない存在なのに…。

「そんなことを言ってくれる君に…!えいっ!」

なごり雪で作った、かなり柔らかい雪だまを笹本に投げつける。真冬に作ったやつよりももろくて弱いやつだけれど、不意打ちに驚いた笹本には効果がてき面だった。

「あ!やったわね!わたしだって…!」

笹本は強くなった。この冬、二人で過ごす中で、たくさんの経験をした。こんなにも雪の中で遊んだり、いろいろな問題に囲まれたり、何より人と話したのは久しぶりだった。前に進まなければ、どんなに安定した場所であっても、どんなに恐ろしい場所であっても、強くなることはできない。そして強くなるためには、自分一人で何かをしても解決しない。やはり誰かと手をつなげれば、もっと強くなれるのだ。

だからこんなにも強く玉を投げ返すことができたのだ。

「よし。じゃあぼくも本気出しちゃおうかな…。」

これが最後だと、雪男はわかっていた。こんなふうに楽しい季節はもうすぐ終わる。いつかはこの喜びも溶けて、春の温かい日差しという現実がやってくる。温かいように見えて、そこは、魔法を溶かすただの現実しかない。温かいのではなく、何もない場所に変わるだけなのだ。春を否定することは、言葉を並べればいくつだってできる。

でもいくら否定したところで、雪男がここから去らなければいけないという事実は変わらない。春はやってくるのだから。そして春がやってくる前から、雪男は春の中にいた。この冬、雪男はずっと温かい気持ちでいられた。

そして、雪や冬が持つ温かさの魔法を知った。自分が持っていたのは、冷たい心や冷たさから得た強さだけではなかった。人を温めることができる強さも持っていた。それならなぜ自分は、本当の春の中では生きられないのだろう。雪だって、冬だって、ストーブや暖房にはない温かさを持っているというのに…。

笹本と分かれたあと、雪男は自分の雪だるまを作った。なごり雪だから本当に崩れそうな雪だるまになってしまった。そいつが崩れないように、回りにある雪を布団のようにやさしくかけてやった。こんなことをしても、明日太陽が上れば、春がやってくれば、なんの形もなくなって溶けてしまうのに。笹本の記憶からも、この雪のように溶けてなくなってしまうのだろうか。もしそれなら、逆に雪男にとってはうれしかった。それが摂理なのだから…。

「いよいよ、3年生だね、雪男くん。クラス、理系だって。」

春の温かい日差しのした、雪男は背筋を伸ばして立っていた。この日が来ることを、雪男は創造していなかった。この日が来る前に、雪男の体は溶けてなくなってしまうと思っていた。けれど、雪男は確かに、愛する人と春の中にいた。夢だと思っていた。現実なんて永遠に来ないと思っていた。きっと現実は、言うほど恐ろしいものではないのだ。きっと愛する人と一緒にいれば、季節が変わっても、きっと進んでいくことができるのだ。春の中にいれば、きっと大丈夫なのだ…。

「そうだよ。理系クラスだよ。」

「じゃあクラスは別々だね…。」

「でもいつだってあえるよ。」

そう言って二人で話しながら学校に向かった。空は春色の美しい服を着て、雪男や笹本を迎えてくれている。さくらの花というものを眼前に見たのは初めてだった。こんなにも美しい花が、こんなにも美しい世界があったことを、雪男は知らなかった。雪男が知っているのは、世界の裏側のよくないところだけだったのだ。

積もる思いが積もるところまで行けば、春が来たって崩れない雪になる。どんなに温かくなって、その積もる思いは、愛する人に届く。そしてその人と一緒に生きていくことを許してくれる。これが雪の魔法なのだ…。

「理系クラス、どんな感じ?」

「わかんないよ。まだ授業始まってないし。」

「え?雰囲気はどんな感じなの?」

「やっぱり女子は少ないかな。みんなぼくより勉強できそうだし。」

「そんなことないよ。雪男くん、頭言いからさ…。」

「ちゃんとついていけるかな。」

「平気だよ。自信持って。わたしだって、この1年頑張れるかわからないし…。」

こんな何気ない会話をしながら、春のにおいのする帰り道を歩いている自分が信じられなかった。自分が知っている世界はそこにはなかったからだ。その世界には、喜びとか悲しみとかそういう言葉では言い表せない何かがあった。そう

この世界には愛という積もった思いの魔法しかなかった。

「ねえ、寒菜…。」

「なに?」

けれど、雪男は知っている。世界が愛で満たされたとき、悲しみだけが残ることもあるということを。

もう雪男には、何も残っていなかった。残っているのは…。

「大好きだよ!」

雪男は、春色の空の下に倒れこんだ。体が動かなくなった。痛みなのか苦しみなのかわからない、恐ろしいものに体が包まれていく。息ができなくなっていく。どんな言葉も言葉にならない。たた、大好きだという思いが心の中に積もるばかりだ。

「わたしもだよ雪男くん。愛してる、大好きだよ。」

笹本は、目の前で何が起きたのかわかっていなかった。わかったとしてもわかりたくなかった。だから、雪男をずっと抱きしめていた。今必要なのは温かさではなかったのに…。

愛する人の胸の中で、雪男の体は水に変わった。笹本が気づいてみると、体はびしょぬれになっていてそこには誰もいなかった。

けれど、よく見てみると、目の前に白い雪が見えた。足にもその雪を感じた。しっかりとそいつを踏み占めてみる。サクッと小さな音がした。なんどもそいつを踏み占めていたら、足の裏から何かが聞こえるような気が下。きっとそんなのは、笹本の考えすぎだろうけど。

そう、笹本の目の前にだけ、雪男の残した愛が積もっていたのだ。春の中で最後に雪男が残した、雪の魔法だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る