雨に濡れても大丈夫

3 雨にぬれても大丈夫

(村雨滴姫(ムラサメシヅキ))

「雨に濡れても」という古い外国の歌が、村雨滴姫はずっと好きだった。いつからその歌のことが好きなのか、彼女もよく覚えていない。たしか4歳か5歳ぐらいのときに、雨に濡れて風邪を引いてずっとないていた滴姫のことを、父親がなんども大声でどなりつけたときのことだった。父親の説教を聞いてますます泣き続ける彼女をみて、父に隠れて、母は部屋の引き出しからレコードを取り出して静かに流した。

その曲を聞いてすぐに、滴姫は泣き止んでしまった。そしてそのまま深い眠りに落ちてしまった。

成長した滴姫が覚えていることはそれだけだった。一番肝心なことなのだが、なぜ自分があの曲を聞いて泣き止んだのかはわからないのだ。

ただ、今でもあの曲を聞くとなぜか落ち着くことができるのだ。英語が苦手な彼女は、歌詞の意味なんて、高校生になった今でもまったくわからない。よくできる高校生なら、歌詞を見て簡単に内容を把握できるレベルの歌詞なのだが、彼女にとってはその曲が魔法の呪文のようなものだった。むしろ、彼女はその曲の歌詞の意味をわかろうとしなかった。意味がわかってしまったら、魔法の呪文のはずだったその曲が、ただの現実的な言葉の塊になってしまうような気がしたのだ。もちろん世間からは、ただ勉強ができないことに対する言い訳だと非難されかねないが、彼女はそんなことにも慣れていた。

雨が窓をたたきつける。そんな日の朝に限って、彼女はあの曲を始めて聞いた日のことを夢にみる。泣いている自分のそばで、母親がそっとレコードを回し始める。曲の出だしのギターが始まっても泣き続けていたのに、歌が始まると次第に泣き止んでいく。その夢を見るたびに、やっぱり自分は雨女であって、雨を愛すべきものだと思わなければならないと、滴姫は自覚するのである。

今日もそんな朝だった。雨がずっと窓をたたいている。雨というのは失礼な存在であると、滴姫はずっと考えていた。誰のことも呼び出さないくせに、家の部屋の窓をどんどんとたたくからだ。窓の中ではみんな眠っていて、安眠を妨害されたと思ってやな顔をしたとしても、雨は容赦なく窓をたたく。誰かいるのか尋ねるでもなく、誰かに会いたいわけでもないのに、なぜ彼らはしきりに窓をたたくのだろう。ただの除きまじゃないのだろうか。そんな意味もない創造をしているうちに、本当にノックが気超えてくる。

「何やってんの!滴姫!お起きる予定の時間から20分も遅れてるわよ。また遅刻しても知らないからね!」

母の甲高い声が滴姫の目をさます。滴姫の意味もない創造から滴姫を現実の世界へと引き戻す。雨と話をすることはいつでもできる。今はとにかく遅刻という最悪のラストシーンを避けるために、急いで朝の支度をしなければいけない。村雨滴姫という雨女はそういう人間なのである。

テレビには、雨が降り続く都市部の街の画像がうつって いる。外に出て話す気象予報士にも容赦なく雨は降り続いている。雨は平等な生き物で、人を選ばずに降ってくる。こいつの上には降らないようにしようとか、こいつのうえだけにはいっぱい降ってやろうなどと考えることはけっしてない。それがいいことなのか悪いことなのか、考えるのが得意でない滴姫にはわからなかった。それに今自分は、テレビをのんきに見ているような心の余裕もなければ時間もない。眠い目をこすりながら、食パンのうえに乗ったカラフルなジャムをにらみつける。

鞄には、対したものを入れていないはずなのに、今日もなんだか体が重い。おそらく今日も何か一つは忘れ物をしているような気がしている。今日の時間割に書かれている授業の教科書は全部鞄に入れただろうか。弁当はきちんと鞄に入れただろうか。いらないものまで鞄にいれていないだろうか。お気に入りの赤いレインコートを着ながら、一つずつ何か忘れていないかを考える。いままで自分はたくさんのものを落としてきたし忘れてきた。だから自分の心は軽くなっだはずなのに、毎日たくさんのものを背負って歩いているような気がしている。雨で空気が重いからだろうか。それとも自分が馬鹿なだけなのだろうか。滴姫にはわからなかった。

そして滴姫はまた忘れ物をした。

「滴姫!おばあちゃんに買ってもらった雨よけお守り、また忘れてるよ!」

母の声はいつも優しいのに、雨の朝に限っていらいらしているように聞こえる。もちろんそんなはずはないのだが、おそらくそれは、さっきみた夢のせいだろう。さっきみた夢が滴姫にはいつも恐ろしいものに見えるのだ。

「ありがとう、お母さん。行ってきます!」

雨の朝はいつにもまして泣きそうになる。自分がきちんと今日を終えられるのか心配になってくる。自分は雨女のはずなのに、いざ雨の下に飛び出すときになると不安になるのだ。つまずいてけがをしないだろうか。誰かに馬鹿にされやしないだろうか。どれだけ失敗をして、どれだけ泣きそうになって今日を終えるのだろうか。もちろんそんなことは、誰にも検討のつくはずもないのに、滴姫はそんな考えてもしかたのないことで不安な顔をしていた。それを母親はいつも気づいていた。だからいつも怒った声でこういうのだ。

「雨に濡れても大丈夫だよ!」

雨に濡れても大丈夫…?本当だろうか?滴姫にはそれがにわかには信じられなかった。こんな激しい雨に打たれて、本当に大丈夫なのだろうか。

新しく買ったばかりの長靴と、ずっと使い続けている大きな傘と、お気に入りのレインコートを引き連れて、激しい雨の中へ滴姫は飛び出していった。

すると不思議なことが起こるのだ。あんなに不安だったはずなのに、雨に少しでも濡れると、突然すっきりとした気持ちになるのだ。

雨というのは、よく耳を済ませば、きちんと自分に話し掛けてきてくれるからだ。それは別に何らかの言葉となって滴姫に何かを伝えてくれるわけではないし、それを聞いて滴姫が元気になるわけでもない。ただ、そのなんの意味もない不規則な雨のリズムが、滴姫には心地よかった。

「おはよう。今日もあんたたちは元気だね。あたしは…不安だよ。今日もちゃんと元気で頑張れるのかわからない。でも、大丈夫だよね。あたしはあんたたちなんか、全然怖くないんだから…。」

誰も聞いていないのに、本当は不安でいっぱいの気持ちなのに、滴姫は雨に笑いかけてみせた。

雨というのは、滴姫がどんなことを考えていようと、どんな毎日を生きていこうと、たとしそうに滴姫の元へと歩み寄ってきてくれるのだと、滴姫は感じていた。

傘の上や靴の周り、レインコートの袖の外で、雨は何かをたくらみながら、何かを話し掛けながら、滴姫のそばに歩み寄ってくる。

「どうしたの?あんた、今日も怖い夢をみたの?あたしもだよ。小さいころの怖い夢だよ。どんな夢をみたか聞かせてよ。」

「ああ。あんた、前よりも高く飛べるようになったんだね。その調子だよ。あたしも頑張るからさ、もっと高く飛んできなさい。負けないんだから。」

「あんた、今日はどんな朝ご飯を食べたの?もしかしてご飯?あたし、朝はパンって決めてるんだ。ジャムをたっぷり塗って食べるんだよ。あんたはご飯にふりかけ?」

「あんた、眠そうだね。昨日何時に寝たの?ちゃんと宿題やった。ゲームのしすぎはだめだよ。あたしみたいに、夜遅くまで考え事して夜更かしはもっとだめだよ!」

誰にも聞こえないのに、誰も聞いてはくれないのに、滴姫はそんなことをつぶやき続けた。でも滴姫にはなぜだか変な確信があった。何も言葉をくれない雨だけれども、きちんとつぶやきに答えてくれているような気がするのだ。その理由は、雨が絶えず自分の傘や靴やレインコートに当たるからだ。そいつらはいつも滴姫のことを濡らし続けている。粒同市が追いかけっこをしながら、次から次へと滴姫に群がってくる。なぜそんなに滴姫に話したいことがあるのだろう。なぜそんなに滴姫のことが好きなのだろう。いや、

どんな人間の傘のうえにだって、靴のうえにだって、雨はこんなふうにしてやってくるのだが。

楽しそうな雨の声は、滴姫の体を軽くしていった。雨にあわせて少しずつ足を早めてみる。転びそうになったら、「ちょっとあんた!足踏まないでよ!ちゃんと前みて歩きなさい!」と雨粒に声をかける。

こんなふうに歩いていれば、雨は別にいやな生き物には見えてこない。むしろ、自分ではなにも誇るものがないと思っている滴姫にとって、雨ほど平等に冷たくて、平等に楽しそうに接してくれる存在はいないような気がした。雨の声を聞いていれば、それは悪口にも気超えるし笑いかけてくれているようにも聞こえる。そんなものは自分の聞き方次第でいくらでも変えられる。要するに、一人でいるときも、雨が降っていれば一人ではないような気がしてくるのだ。

滴姫は、駅の改札が近づくまで、ずっと雨と話し続けた。でも話し続ければ続けるほど、雨は傘や靴やレインコートを濡らしていった。平等に冷たく接するとはそういうことなのだ。それなりに苦労をして、それなりに楽しく過ごせたら、人生はどんなにいい色に見えるのだろう。滴姫は、自分がそんな理想的な人生を後れているのかわからなかった。

体にまとわりついて離れない雨たちを払い落として、滴姫は改札にカードをタッチしようとする。でもズボンのポケットにカードが入っていない。もしかして忘れたのだろうか。せっかくいやなことを全部雨に洗い流してもらって、また新たな気持ちで電車に乗りたかったのに、なぜこんなときに。そう思って鞄を探っていたら、、眠そうにカードが出てきた。安心したのと同時に押し寄せる憤りを胸にカードをタッチする。後ろのほうでは雨が楽しげに、冷たげに笑っている。不安の塊が、そっと自分の後をつけてきているような気がして、滴姫は長靴に残った雨粒を払い落とす。

「あたしの後をついてきたところで、幸せなんて落ちてないわよ。人の足跡を盗んだって、なにもいいことはないんだから…。」

長靴に残った雨は、なかなか滴姫のそばを離れようとしない。さみしがり屋の雨を引き連れて、滴姫は電車に乗りこむ。

憂鬱な顔をした人たちの塊が、電車の中に並んでいる。彼らは今日雨とどんな話をしたのだろう。どうせ雨と話をするような気分になんてなれなかっただろう。まとわりついてくる雨から逃げることに必死で、そんなことは何も考えていなかっただろう。それはそれで一つの生き方だ。でもそんなことをやっていても、雨は人に平等に降ってくる。それなら、平等に降ってくる雨を平等な友達にしてしまえばいいのだ。

そんなふうに考えるのは、やはり雨女という人生の負け組がやることなんだろうか。きっとそうなのだろう。いつも誰かの影に隠れるように生きてきた滴姫はそう思うことにしていた。自分が雨の声を聞いて、雨と話をすることは不思議なことで、もしかしたら軽蔑される可能性のあることだということを忘れてはいけないのだ。

電車を降りて外に出ると、雨の声はさっきよりも大きくなっていた。まとわりついてくる雨粒の数も、電車に乗る前よりずっと大きく、多くなっていた。学校が近いせいかもしれないと、滴姫は考えることにした。

制服にくっついた雨を、まるで邪魔ものみたいに払いのける生徒たちが、いそいそと改札をくぐりぬけて、門に入っていく。もっとしっかり雨の声を聞けば、そんな顔をしないで済むのに。自分でそんな人たちを笑ってみるけれど、自分が変な人間だということも理解している。自分が雨の声なんか聞いているから、世界に雨を降らせるような人間になってしまったのだ。

「雨にぬれても大丈夫…。」

自分はそんな言葉に逃げながら、いままで生きてきたように思う。こんなふうに、雨と交信ができるような滴姫は、雨と仲良くできるからこそ、雨を降らせやすい体質だ。それだけで、この世界では迷惑がかかることになる。雨が降るといろいろな人が困る。雨が降れば植物が育つとか、雨は虹ができる材料だとか、そんなきれいごとは、滴姫にとってはどうでもよかった。

滴姫にとっては、雨が降ったことによって、悲しい思いをする人々の顔や心の中の思いだけしか興味がなかった。植物が育つことも、虹ができることも、後付けの雨の擁護であって、雨女をかわいそうに思った人が勝手に同情しているだけなのだ。雨は迷惑で、余話無視で、いやな気持ちの象徴だ。雨にぬれても大丈夫だなんて、そんなのは人生の負け組の人間が、普通の世界から逃げるための口実なのであろう。

教室に着いても、滴姫の不安な気持ちは解消されなかった。雨の日は少しぐらい気分がよくなることもあるのだが、今日は格別憂鬱だった。最近毎日雨が続いているからだろう。楽しそうに話をする生徒たちに混ざろうという気分にもならなかった。

「今日英語の小テストだよね。マジで憂鬱なんだけど…。」

「あたし何にも勉強してないよ。」

生徒たちの小さな声を聞きながら、滴姫はもう一つの憂鬱の原因を思い出した。今日は英語の小テストがあったのだ。英語というのは、滴姫が苦手な授業の一つだったのだ。先生が苦手だというのもあるし、もともと素質がないからだというのもあるだろう。しかしもっと重要なことがあった。滴姫は英語が得意になりたくなかったのだ。もし得意になってしまったら、小さいころに自分を励ましたり落ち着かせてくれた「雨にぬれても」の歌詞の意味がわかってしまうからだ。あれは自分の中で、ただの魔法の呪文であって、意味を持ったことばではないはずだったのに、もし英語がわかってしまったら、その呪文は解けてしまって、効果をなくしてしまうかもしれない。そうなってしまったら、もう雨にぬれても大丈夫なんて、本当に軽々しく言えなくなる。もしその歌が、世界の終わりを望む歌だったら、殺された誰かが生きている人を呪う歌だったら…。

結局滴姫は、雨の中にある現実をみたくなくて、英語から逃げているだけなのだ。もちろん、英語の先生にそんな理由を話したところで、理解してくれるはずもない。そんなことは滴姫にだってわかっている。でも、滴姫はどうしてもその気持ちだけは譲りたくなかった。英語が得意になってしまわないように、英語が嫌いになったことなんて、誰にも話せなかった。

しかし、自分が思っていた以上に、滴姫は英語が苦手になっていた。このままでは単位も怪しくなってしまう。そんな、社会的に危険になる状態ほど苦手になるつもりはなかったのだ。こんな意味不明な理由など覚られないように、こっそり苦手なままでいようと思ったのに、これではさらにいろいろな人に迷惑をかけることになる。これ以上誰かの前で泣きそうになるのはごめんだった。

でも一番の問題として、滴姫は英語のテスト勉強なんてほとんどしていなかった。鞄の中から急いで教科書を出してみるが、そもそもテスト範囲がどこなのかも忘れてしまった。

英語の授業では、州に何回化プリントが配られるので、ノートだけではなくてファイルを作るように先生に言われてきた。滴姫はそのアドバイスを守って、きちんとプリントを、よく目立つ赤井ファイルに閉じていた。

だから、そのファイルをなくすはずはないのだ。

鞄の中に、その赤井ファイルがあったとしたら、すぐにでも見つけられるだろう。つまり、鞄の中にはそんなファイルは1冊もなかったのだ。あったのは、

母親に買ってもらった地味な色のノートだけだ。授業中、ペンを走らせるのが苦手な滴姫は、まるで雲一つない空みたいにきれいなノートをたくさん持っていた。英語もその例外ではなかった。

身震いがした。もし小テストがあることをきちんとノートにとっていたら、昨日一生懸命勉強したかもしれないし、勉強した後にファイルを鞄の中に入れたかもしれない。プリントが閉じられているあのファイルさえあれば、テスト前に目を通して、少しは点数も取れたかもしれない。しかし、雨をよけられるアイテムは、鞄の中には一つも入っていなかったのだ。

ただの雨とは違う。これからの行く末を見えなくして、自分の心をかき乱して、世界銃を憂鬱に染めていく雨をよけるための道具が、鞄の中には一つも入っていないのだ。滴姫は、そんな最悪な雨の声を聞きたくはなかった。

あいにく英語の小テストは2時間目で、1時間目は内職がやりにくい数学の授業だった。たとえ内職できても、テスト問題の材料になる英語のプリントが挟まれたファイルを持っていない以上、滴姫が太刀打ちできるものではなかった。

書かれている文字は、本当に魔法の呪文にしか見えなかった。しかもその呪文は、この世界に激しくて黒くて汚れた雨を降らせる、悪魔の呪いのように見えたのだ。

「雨にぬれても」で歌われるような呪文は、そこには一つも書かれていなかった。書かれていたのは、rainという単語だけだった。その単語の意味ぐらいは、たとえ現実から逃げている滴姫にもわかった。でもそれだけわかっても問題が解けるはずもなかった。

つまり、滴姫は小テストが終わったあと、がっくりと肩を落とすしかなかった。目の前では、テストの結果やぐちを元気にこぼす生徒たちが大声で話をしている。まるで、それらの言葉が、遠くの世界の言葉のように響いてくる。

怖かった。どうしていいかわからなかった。定期試験ではないから、そんなに単位には響かないというのはたしかだ。でも、小テストでこんな状態である自分が、定期試験で高い点数をとれるなんてまずありえない。ファイルはおそらく家にあるだろうが、もし家にもなかったらどうすればよいのだろうか。ファイルがあったとしても、どういうふうに勉強すればよいのだろうか。

怖くなった滴姫は、鞄の中をいろいろと触っていた。お守りのひもが、鞄のどこかにひっかかっているような気がしたけれど、そんなことは気にならなかった。とにかく、この気持ちをなんとか紛らわすための薬になるもの、もしくは雨をよけるものを探そうとした。もちろん、ファイルも見つからないし、ノートや教科書にはろくなことが書いていなかった。

開けっぱなしになった鞄が突然、大きな音を立てた。鞄から教科書があふれ出した。

よくみると、一人の男子生徒が、滴姫の鞄につまずいて、立ち上がっていくところだった。

「ちょっと、張本。教室で走らないでよ!」

「うっせえなあ、彩子!おまえだって廊下走ってるくせに!」

「それとこれとは話が別でしょ。」

それは、同じ部活に所属している男子生徒で、荒っぽいことでも有名な人だった。

何もこんなときに、鞄につまずくほど走ることはないではないか!滴姫は、もちろん憤りを覚えたが、怒る道理はなかった。鞄を開けっぱなしにして床に広げていたのは、自分なのだから。たとえ彼が教室に走りこんでこなくても自分が悪いのだ。

ここで固まっていてもしょうがないと、いそいで鞄に教科書をしまおうとした。すると、お守りのひもが切れていることに気づいた。

まるで、世界のすべてから、音が消えたような気分になった。

さっき男子生徒がつまずいたときに、ひっかかったお守りのひもが切れてしまったのだろう。

切れてしまったお守りは、どこへ行ってしまったのか。おそらく誰かが拾ってくれることもなく、蹴飛ばされてごみ箱にでも入っているのだろう。それを探そうという気力もわいてこなかった。自分はこんなふうにして、いろいろなことをだめにしてしまうのだ。朝はあんなにも楽しく、雨と話すことができたのに。

気づけば、鞄のチャックも開けっぱなしにして、走り出していた。床に転がった教科書を鞄にしまうときぐらいは、理性が働いていたけれど、そのあとはほぼ感情に体を任せていた。

鞄から教科書がこぼれ落ちようと、頭の中から今日のテストで出た英単語がこぼれ落ちようと関係なかった。ただ今は、こんな今日をとっとと終わらせたかった。自分が走って学校から飛び出したところで、雨もやまなければ明日も早足でやってきてくれたりなんかしないのに。

靴を履いて学校を飛び出して、手に持った傘を開いたとき、滴姫はその傘が自分のものでまないことに気づかなかった。滴姫が本当に持っているのは、よく目立つ赤井傘なのに、彼女が開いたのは、葵傘だったのだ。雨には似合わない、葵空みたいな傘だった。

なぜそんな間違いを滴姫はしてしまったのか。つまり彼女は、自分の傘の色もわからないほど、焦って、なにも見えていなかったのだ。そして、教室のわきにある傘立てから、まさに適当に傘を取り出したのだ。

雨というのはこんなふうにして、人を狂わせていく。

激しい雨が、持ち主の合わない一人の1本を濡らしていく。まるで、ぎこちなく肩を並べて歩くカップルみたいに見える。でも、滴姫はそんなことに気づかないほど、雨の中を駅まで走った。もはや駅まで走ったのかさえわからない。

案の定彼女は道に迷った。駅に向かうために曲がるべきだった路地を曲がらなかった。方向御地だからと、いつもゆっくり歩く滴姫であるから、突然早く歩けば道に迷うのは当然だ。そして、方向御地であるから、知らない場所にきたら焦るのも当たり前だ。

彼女は焦り始めた。やっとこの現実の最悪な状況を理解し始めた。ただでさえ自分の周りの状況が最悪なのに、そこにさらに恐ろしいことが起こっていることにようやく気づき始めたのだ。

見知らぬ住宅街に迷いこんだ滴姫は、わけもわからず前に進んだ。雨が靴ひもをほどいて、彼女を転ばせる。彼女は叫びそうになるのを必死で抑える。今朝は友達だと思っていた雨に嘲笑され、いじめられている自分が情けなくて、悔しくて、自分ではないように思えたからだ。

「やめてよ、あたし…道に迷っちゃったんだよ。迷子のことを笑うなんて失礼だよ!最低だよ!」

「どうして朝は楽しい話をしてくれたのに、今はそんなことするの?友達だと思ってたのに?あたしが英語のテストを忘れてたことがそんなに変!だってあたしは…!」

そんな独り言をいくら言ったところで何も解決はしないし、むしろ変質者である。雨は激しくなるばかりで、楽しく話し掛けるどころか、襲いかかってくるかのようだった。

突然大きな水たまりに足をとられて、滴姫は傘を落とした。拾い上げたとたん、強い風が一人と1本を襲った。傘はそばの枝にひっかかって敗れた。

その敗れた傘をよく見て、滴姫はすべてを知った。

「雨にぬれても大丈夫…。」

そんなのは嘘だ!嘘だ!嘘だ!

彼女は頭の中で何度もそうつぶやきながら、ざっきとは逆方向に走り出した。壊れた青い傘は捨ててしまいたかったが、そんなことはできなかった。これは、紛れもなく、自分が大事な友人だと思っている青き晴彦のものなのだから。

雨にぬれたから滴姫は友達の傘を壊した。雨にぬれたから滴姫は赤井ファイルを忘れた。雨にぬれたから、滴姫はテストがあることを忘れた。雨にぬれたから滴姫はお守りを落とした。雨にぬれたから滴姫は…。

さっきはなかった水たまりにつまずいた。後ろから飛びかかるように降ってくる雨に体を濡らした。使い物にならなくなった傘に、雨も風も容赦なく襲いかかる。もはや、ただの雨ではない。いわゆる豪雨というレベルの雨であろう。

雨にぬれても大丈夫なら、こんなときにも幸せの一つや二つは転がっていてほしい。

滴姫はそんな期待を、青い傘の代わりに胸に抱いてみるけれど、そんな幸せが落ちているわけもない。落ちているのは雨に流れてきた落ち葉ぐらいだ。この落ち葉が、さっき落としたお守りなら、すぐにでも拾い上げるのに。

一つだけ訪れた幸せは、駅につながる道が見つかったことだ。ささいなことだが、滴姫は、それだけでも、まるでさっきまで激しく降っていた雨が止んだみたいな気分だった。

「村雨!」

少年の高らかな声が、雨に混じって聞こえたのは、そのときだった。雨が止んだような気がしたのは、彼がすぐそばまで来ていたからだ。

「傘、返せよ!てか、傘借りたぞ!」

青き晴彦は、滴姫が本当の持ち物である赤井傘を、雨の下で、よく見えるように振りかざした。

「あ、青き…。」

壊れた傘のことを、どうせ青木は知っているのだろうと思いつつ、滴姫は申し訳なさそうに壊れた傘を見せた。

今にも青木に抱きついてしまいそうだったが、それだけは絶対にしてはいけないと、必死で気持ちを抑えた。その理由はいろいろあるけれど、何よりも今は、傘を壊すだけではなく、自分の涙も受け止めさせるなんて、そんなたくさん彼に迷惑をかけたくなかった。

「うわー…こりゃひどいなあ!」

青木は、小さく苦笑して、壊れた傘を滴姫から受け取った。

「おまえ、どんだけ荒っぽい歩き方したんだよ。普通はこんな派手に壊れないぞ。」

「それは…。」

自分でも、どんな走り方をして、どんな道を通ってきたのか、この数分の自分の行動が説明できなかった。そもそもこの傘を自分が持っていることの理由すら、滴姫には説明できなかった。なぜこの世界に雨が降るのかも説明できないのだから当然だろうと、彼女は思い直すことにした。

「青き…。どうしてあたしがここにいるって、わかったの?」

滴姫はとっさにそう尋ねていた。もっと大事なことをさきにいわなければいけないことは、誰よりもわかっていたのに。

でも青木は、ためらいなく回答してくれた。

「ああ…。この傘を開くボタンのところにさ、発信機がついてるんだ。その発信気をおれの携帯に同機させておけば…傘がなくなっても探せるようになってる。   傘立てにおれの傘がなかったから、真っ先に携帯で探したってわけだ…。そしたら、なんだ…。駅とは全然違う方向に向かってどんどん遠ざかっていくから、追いかけていくしかなかった。勝手に人の傘を悪気もなく使うやつは、おれの予想ではおまえしかいないと思ったから、おれはおまえの傘を借りた。」

青木がいきさつを語っている間に、傘をささずに走ってきた滴姫の体からは、雨粒と汗が音もなく流れ落ちていった。まるで、何かに安心したように、雨粒は滴姫の体から離れていく。

青木は、自分の傘が壊れてしまったのに、これからどうやって生きていくのだろうか。滴姫の心配は、そこにしかなかった。このあと、青木は今の自分みたいに雨にぬれて家まで帰ることになる。そしてまた雨が降る前までに、新しい傘を買うことになる。もしその傘が自分の気に入らないものだったら。もしその傘がまた何かの表紙に壊れてしまったら。もし今壊れてしまったこの傘が、青木が宝物のように気に入っている傘だったとしたら…。

雨にぬれても大丈夫なわけがない。傘を壊すということは、人を殺すのとさほど変わらない行為なのだ。滴姫はそう思うと震えが止まらなくなった。

「何震えてるんだよ!あ、おまえ、びしょぬれじゃねえか!そりゃそうか。傘壊したんだもんな。タオルとか持ってねえのか?風邪引くぞ…。」

青木の気遣いの言葉なんて、滴姫には聞こえなかった。自分がしてしまった取り返しのつかない今日という日が恐ろしかった。こんなふうに雨にぬれてしまった自分は、もう何もかも失ってしまったかのように思える。

そう思った瞬間、さっき汗や雨粒が、安心して体から離れていったのと同じで、

滴姫の体からまた新たな水分が流れ落ちる。また雨が激しくなって、滴姫の体を濡らしていく。

「ごめんなさい!あたしのせいで…!どうしよう!あたし、人の傘を壊しちゃうなんて…!ほんと、最低だよね!雨にぬれても大丈夫だなんて…。そんなこと信じてるあたしは最低だよね。傘がなかったら、雨にぬれて風邪を引いて…前を向けなくなるかもしれないのに…。ごめんなさい、ごめんなさい…!」

泣きじゃくる滴姫のことを、青木はしばらくじっと見ていた。激しくなる雨を、滴姫の赤井傘で必死によけている。

だがふいにその傘から離れるようにして、滴姫本人に近づいてきた。

「だめだよ。あたしの傘に入っててよ…そんなことしたら雨に縫えちゃう…。」

「ほんと、最低だよな!おまえ。人のことを散々困らせて、雨に濡らすし。おまけに、自分のお守りだって床に落として、それで怖くなって鞄のチャックを開け府ぁなしにして学校を飛び出すような馬鹿を、おれは知らないね…。」

そういいながら、青木はポケットから、滴姫にとっては見慣れた赤井お守りを出した。それは、青木が教室で拾ったものだった。

滴姫はいろいろな意味で、涙が止まらなくなった。こんなことがあっていいはずがない。太陽というのは、どうしてすべてを茶らにしてくれるのだろう。雨が降ったことなんかなかったみたいに、明日は空が晴れている。それと同じだ。

「そんな顔してるから、悪いことばっかり雨みたいに降ってくるんだぞ。雨にぬれたって大丈夫だ。雷がいくら落ちてきたって大丈夫だ。前を向いて、その雨を蹴散らすぐらい大きな歩幅で歩いていれば、そんなの全然怖くない…。」

青木は笑っていた。そして気づけば、滴姫のことを、赤井傘で包み込んでいた。

「おまえがおれを雨に濡らした報いとして…。」

青木は突然言葉を止めると、自分も傘に入ってきた。滴姫の胸がうずいた。それに合わせるように、傘に当たる雨の音が大きくなる。遠くでは雷鳴も聞こえる。早く帰らなければ。早く青木のことを、日の当たる場所までつれていってあげなければ…。いや、自分がつれていってもらう側なのだろうか。

「おれと相合い傘をしろ!それが今日の一つ目の報いだ。あと、雨につれても笑え。それが今日のもう一つの報いだ。大丈夫だよ。いくら雨が降ったって、おれが晴らしてやるから。」


二人の家は、同じ最寄駅にあった。それは二人とも知っていた。駅に着くまでの道も、駅から滴姫の家までの道も、二人は同じ傘の中で過ごした。雨は少しずつ弱まっていった。

傘の中で、滴姫は雨にぬれて走る自分を創造した。青木のではなく、自分の傘が壊れるべきなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。もし自分の傘が壊れていたなら、雨にぬれたまま走り続ければいい。自分がそういうことをすればいいだけの話だ。

「おまえ、自分が雨にぬれればよかった、自分の傘が壊れればいいって考えてないか?」

駅前の雑多な道を抜けたとき、青木はまるで雨に話し掛けるみたいな小さな声で言った。滴姫は、泣きそうになりながらうなずいた。

「雨にぬれても泣きそうになるようなおまえが、そんな大仕事できると思うか?」

最もなことを言われて、滴姫はまた泣きそうになった。

「そんな強気なことを思うのは、雨の下でも前向きに歩けるようになってから思え。おれだって…そんなことが実行できてるかと言えばできてないけど…おまえならできる。だっておまえは、雨にぬれても大丈夫な雨女なんだから…。」

優しい言葉を、滴姫はただ浴びるしかなかった。まるで、雨が降っているのに、その傘の中だけ太陽の光が降り注いでいるみたいだった。

「ほら、歌えよ…!」

青木は、ふと小さなハミングをして見せた。そのハミングが、どこか懐かしくて、どこか幸せで、どこかうれしくて、滴姫は笑顔になっていた。

「青き…歌、下手だね。」

「え?マジ?ちょっと傷ついた。」

青木が悲しそうにハミングをやめる。

「だって、音程違うもん。『雨にぬれても』は、もっと明るく歌わなきゃだめだよ…。」

さっきまで泣きそうだったはずなのに、今は滴姫のほうが楽しそうにハミングをしていた。まるで、子供のころに戻ったみたいに、その笑顔は優しいものだった。

「なんだよ。おれが歌ったのと全然変わらねえじゃん。」

「変わるよ。あんたのはなんかこう…水たまりから出られなくなったカエルみたいなんだよ。それか…さっきあんたの傘を盗んで逃亡したあたしみたいなんだよ…。そんなの…もういやなんだよ…。」

すると、青木はまるで、世界中に響くような声で笑った。

「ははははは!よかった。おまえがそういうやつに戻って。」

「何よ。もしかしてあんた、わざとあんな暗い歌い方をしたの?」

「さ。どうだろうなあ。人の傘を盗んだり、お守りを床に投げつけるようなやつには教えてやらないから!」

そういうと、青木は突然、まるで邪魔なものを追い払うようなぞんざいな格好で、滴姫を赤い傘から追い出した。

「ちょっと…!いきなり何すんのよ…!」

滴姫は空を見上げてみた。雨はまだ降っているけれど、さっきよりはだいぶ増しになっている。長靴のそばで遊んでいた雨も、着かれたからなのか、どこかで眠ってしまったようだ。

だとしても、あれは自分の傘なのだから、盗まれては困る。

「これはおれの傘だからな!」

そういいながら、青木は足を早める。家まで送ってもらえると思って安心していた滴姫が馬鹿だった。そんな正義はありえない。だって、そんな正義をしてもらえるほど、自分はなにもいいことをしていないからだ。

だから、傘を盗まれるのは当然といえば当然なのかもしれない。しかしいくらなんでも心の準備ができていないこの状況でそれは厳しい。

「じゃあさ…。」

滴姫は、少しずつ弱まっていく雨の下を、眠りかけている雨を踏みつぶしながら、青木を追いかけていった。

「なんだよ。」

青木は、さっきまであんなに滴姫のことを励ましてくれたのに、今は滴姫の傘を持って、知らん顔をして歩き出そうとしている。

滴姫の心の中には、ある一つの疑問がわき起こっていた。雨にぬれてもなぜ大丈夫なのかとか、なぜ自分が人の傘を間違えて持って言ったのかとか、そういうことではなかった。

「じゃあさ…傘返さなくてもいいから、一つだけ教えて。」

青木はやっと歩くスピードを緩めてくれた。

「どうして青木は…そんなに優しいの?傘を壊されたり、雨に濡らされたり、お守り拾わせたりしたのに。」

滴姫は、さっき青木からもらったお守りを、ポケットの中で転がした。雨が弱まったのは、このお守りのせいでもあるのだろう。

青木はついに足を止めて、自分も赤井傘をたたんだ。

「雨がすきだからな。」

それがどういう意味なのか、少しだけ雨にぬれた滴姫はわからなかった。いや、わかろうとしていなかった。

「ろれとも、おれは太陽みたいな存在だからって言ってほしいのか?」

青木の微笑が、くもの切れ間から差し込む太陽に見得た。

「おれを雨に濡らした最後の報いだ。おれと付き合ってくれ。」

もしかしたらその声は、空から落ちてきた雨の音が、そう聞こえただけなのかもしれない。だってそのとき滴姫は、かすかに、でも確かに雨にぬれていたのだから。

もし、この太陽が、雨にぬれても大丈夫だと、小山内ころに聞いたあの曲のように、傘の下で言ってくれるなら、滴姫はその人を、自分の太陽にしたいと思った。そしてもしその人が太陽になってくれるなら、自分は雨にぬれても大丈夫なのかもしれない。

机のうえに、まるでずっと昔からそこにあったかのように、赤井傘と同じ色のファイルがおかれているのを見て、滴姫は小さく笑顔になった。ほら、やっぱり雨にぬれても、あたしは大丈夫!

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