雨に恋した晴れ男
1 雨に恋した晴れ男
2 (青木晴彦)
青春という言葉がある。それはどういう意味の言葉なのか。青木晴彦は、上ったばかりのあさひを浴びて、川沿いの道をジョギングしながら、そんなことを考えていた。少しひんやりとした風が、彼の走っている体をそっと包み込んでいる。風は追い風に変わったり向かい風に変わったりする。その風を背中に感じたとき、彼はやっとはるが 来たことを悟った。春というのはこんなにも美しい朝を、自分たちに見せてくれる季節なのかと、晴彦は感動する。
美しい春風と太陽によって作り出される青空は、自分の目に見えないところまで、どこまでもどこまでも続いている。その空の下を、晴彦はただ無心に走っている。このあと普通に学校で授業を受けなければならないことなんて、ぜんぜん考える気分にならない。このどこまでも続く青空の先に、もしかしてなにかがあるような気がしている体。もちろん、それがいったい何なのかは誰にもわからない。でもそう思わせるほどにこの春の青空は、どこまでも続いている。
この皮がたとえ海になって、その海がどこかの国の皮につながっているように、この青い空は、自分の目に見えない街のどこかにつながっているのだ。
要するに青春とはこういうことだと、晴彦は長い上り坂の手前で気づいた。今からその坂をかけあがるのかと思うと、さっきまで美しく続いていた青空が、途方もない闇に見えてきた。でもその闇が美しくて、まだどこまでもいけるような気がしてしまう。だから晴彦は気がついたのだ。青春というのは、どこまでも続く青空の下を、苦しみや悲しみも諸戸もせずに、その美しさに引き込まれて走り続けることをいうのであろうと。走っている間は苦しいはずなのに、なぜだかどこまでも走りたくなる。目の前にはもっと早い覇者がいるはずなのに、その覇者もあっという間に追い抜いて、自分が太陽よりももっと遠い場所にいけるような気がする。たくさん努力して、たくさんつらい思いもするはずなのに、そんな思いを逆に求めている自分がいる。青春とは誰にでも許された権利ではない。その人の目の前に、どこまでも続く青い空と、その人の心に、その空の下を走りぬけてやろうという太陽のような有機があれば、誰にでも青春はやってくるのだ。今、春の朝の空の下を走っている自分の姿は、まさに青春といえるのかもしれないと、晴彦は自分をかみしめるように考えた。
そんな難しいことを人よりも少し早いペースでジョギングしながら考えてしまうほど、晴彦は青空に見とれ、その空を愛してしまっていた。
晴彦は晴れ男である。生まれた日はもちろん、彼の卒業式や入学しきはいつも晴れていた。運動会や旅行のときもそうだった。そういうときは、たくさんの人たちが、自分の日ごろの行いがよいからそういう天気になったのだと笑いながら言ってくれた。日ごろの行いがよければ空は張れるのだろう。晴彦はそう信じて勉強もスポーツも両親に進められて始めた習い事も一生懸命に取り組んだ。最初はそんなに好きでもなかったそういうものを頑張っているうちに、いつの間にかできるようになっていることもあった。高校生になった晴彦は、いわゆる人生の中でも日の当たる場所を走り続けていた。そんな晴彦だから友人も多いし、たくさんの女子たちから目をつけられていた。みんなは晴彦のような存在を太陽のように考え、ねたむ人もいるけれど、常に周りが明るくなっているのだ。
だから晴彦は笑っている。どれだけ悲しいことがあっても、どれだけ怒りが湧き上がっても、どれだけ悩みがあっても、「大丈夫だよ。明日も張れるから。」と心になんども言い聞かせながら、今も日の当たる場所を走り続けている。
でも、きっとそういう青春にも、日が当たらないときはきっとあるだろう。それがいつ来てもいいように、晴彦はあさひが作った美しい春の空気を力いっぱい吸い込んだ。これで今日の自分の心はなんとか晴れでいられるだろうと背筋を伸ばすことができた。
学校に着くなり、友人たちがかけよってきて、年度末に行われた実力テストで彼が学年トップになった話や、助っ人として参加している野球部で、急きょレギュラーになった話をされた。友人たちは晴彦を褒め称え、楽しく話をしながら教室へ向かう。そんなみんなに混ざって晴彦も笑っていた。
「そんな大したことはしていないよ。おれはやれることをやっただけだよ。」
けっして自慢めいた謙遜にならないように言葉を選びながら話す。みんなの柔らかい笑顔に囲まれているから、晴彦は堂々と笑うことができる。
晴彦はみんなに褒められて、笑顔で肩をたたかれるときに、なんども思っていた。自分がいままでしてきたことは、そんな大したことではないのだ。勉強を頑張っていることも、スポーツを一生懸命頑張ってレギュラーや代表に選ばれることも、習い事として続けているクラシックギターのコンクールで一度だけ優勝したことも、ただ自分がやれるだけのことをやったからなのだ。みんながうらやましがるような特別な才能もなければ、みんなが持っていない秘密の力があるわけでもない。ただあるのは、自分という存在が積み上げた結果だけである。特別な才能といえるものは自分にとっての大事な日はいつも張れるということだけなのだ。
だから晴彦は、みんなが思うよりも強い人間であることに集中した。みんなが思っているより優れた人間であることに集中した。太陽はこの空の下を生きる人たちにとってとても重要で、人々が逆らったり嫌ったりできない力も持っている。自分がそんな太陽のようになれたとしたら、日の当たる場所はずっと自分のものになるだろう。
誰かにそんなことを伝えたら、ただ自分の実力を自慢しているだけの馬鹿な人間であるといわれてしまうかもしれないが、晴彦はそう思うことでしか、自分の周りの人たちに笑顔を見せようと思えないのだ。そんなふうに無理やりにでも自分を鼓舞しなければ、晴彦は日の当たる場所にはいられないような気がしていた。自分のために、みんなのために明るくあることが、日の当たる場所にいるための条件なのだ。
晴れた空はそんな晴彦に対してまったく無言のまま、無償の温かさを与え続ける。春の花粉に乗って飛び散るさくらの花びらたちも、温かそうに太陽の光を浴びている。地理ゆく花びらたちは、この太陽の下で新しい命を作るための養分に変わるのだ。
授業中、窓の外からそんな春の空をみていると、晴彦はこんなことで悩んでいる自分の存在が太陽になんて届きそうもないほど小さいように思った。誰かの太陽になることにばかり努力して、結局自分が今なにを考えているのかわからなくなりそうだった。自分は大した人間ではなく、普通の一般的な、ただ晴れ男であるだけの人間であることなんて、周りには言えない。自分の周りにいる人は、自分自身でさえ、自分に過度な期待をしている。でもそれを過度な期待だと決めつけることもできない。そんなことを言ってしまったら、自分は独りぼっちになってしまいかねない。誰かの期待や喜びを背負うというのは、無理にでもそうやって自分を奮い立たせることなのだ。
でも、そう思えば思うほどに、晴彦はわからなかった。自分がなぜ頑張っているのか。自分がなぜ笑えているのか。理由もなく頑張ったり笑ったりすることは、本当に正しいことなのかわからなかった。
太陽というのは、いろいろな物理的な用語や天体望遠鏡を用いれば、なぜ輝くのかということを説明できる。計算や理詰めで説明できるのが、この空を支配する太陽の存在だ。
でも、自分の存在価値や、自分の夢は、いくら計算しても、いくら理論を追及しても説明できない。人に自分を輝く理由を聞いたところで、大した答えが帰ってこないのは明白だ。この悩みから抜け出すためには、やはり自分という存在を脱いで、どこか川にでも飛び込んで水を浴びた方が、きっと気持ちよく生きることができるのだろう。でも晴彦には、太陽でできたその光る吹くが、とてもよく似合っているのだった。
太陽というのは、太陽を取り巻くすべての惑星や、地球に住むすべての人たちから期待されるからこそ輝くのだ。太陽を輝かせているのは、太陽を必要としている誰かの心なのだ。そんなことを晴彦は父である快晴から聞かされたことがある。父も自分と同じ天候生として生まれてきた。彼も晴彦と同じように、勉強もスポーツも習い事も、やればなんでもできる男だったという。彼の周りにはたくさんの人が集まり、彼にとっての大事な日は、たとえ霞がかっていた空でも、たとえ入道雲が覆い尽くしそうになっていても、たとえ凍てつく真冬でも、張れることが多かったという。すばらしい天候生、すばらしい晴れ男になるために、快晴は何事にも必死に努力したそうだ。
「いいかい、晴彦。君はもちろん己のために、己の人生を生きることは忘れてはいけない。けれど、そこには誰かの愛と、一緒に応援してくれる誰かの存在があることも忘れてはいけない。君は、君も知らない誰かに、見つめられているかもしれない。だからこそ、君は自分の人生を生きるというやりかたで、誰かの太陽にならなくてはいけないんだよ。」
いつその言葉を父からもらったのか、晴彦はうまく思い出せない。きっとある程度晴彦が大きくなったころだろう。
もちろん、父からその言葉をもらったその瞬間もそうだったが、それから少し成長した今でも、晴彦は父からもらったその言葉の意味を理解できずにいた。
自分の人生を生きることで、誰かの太陽になるなんて、そんな自分とも他人とも着かない生き方を、そんな簡単に選ぶことはできるのだろうか。自分の人生を生きるためには、自分にとって好きなことを努力すればいい。そして、ただ自分が助かるように、自分がうれしいと感じるままに生きればいい。
でも気づいたらそれが他人のためになっていて、自分の頑張る姿で輝ける人間もいる。そんな理想的な生き方こそが、自分を生きて誰かの太陽になるということなのだろう。
今の晴彦には、自分を生きることの意味がわからなくなってきていた。そもそも自分は、今他人から期待されていることを、自分が好きで、自分が喜ぶために始めたのだろうか。それとも、他人から期待されるために、自分の周りに輝く太陽の光を集めるために始めたのだろうか。
自分はきっと、他人の太陽になることだけしか達成できていない。父が伝えた言葉の半分しか達成できていない。自分には、まだ残りの半分の光が足りないのだ。
夕日が優しく背中を押す夕暮れに、走って帰る必要もないのに、駅前から家までを走る。踏切を超えて商店街の狭い道路を進めば、子供たちが楽しそうに学校や遊びからの帰りを急いでいる。その子供たちにぶつからないように公園のわきをすり抜け、朝は頑張って上ったはずの坂を、猛スピードで下っていく。太陽が沈んでいくスピードよりも早く、この下り坂をかけ下ることができたならば、自分は時間にすら勝つことのできる人間になれたことになる。でも、そんなことを考えている自分のことを、小さくせせら笑ってやりたくもなる。いつから自分は、この世界の支配者である太陽に勝負を仕掛けるような、えらそうな人間になってしまったのか。ずっと昔自分も、商店街でぶつかりそうになった子供のように、自分のすきな ものを買って、自分の好きなことだけをしていれば許された時代があったんだろう。誰かと戦うことや、誰かと好きなものの数を競わなくても、自分の心が自分を許してくれたそんな時代があったはずなのだ。晴彦は、自分の知らないうちに、勢いよく大人になるといういいわけを つかって、 さかを くだっているだけのようなきがして気た。自分は、自分というものさえ見失いかけているというのに、世界中の人たちに朝を伝えて、世界中の人たちに夜を告げる太陽になんてかなうわけがない。自分にできることは、太陽が支配するこの世界の天気を、自分の力で少しだけ捜査できるだけのことだ。
家に走って帰ると、カレーを作っているいいにおいが鼻を着く。まだ朝夕は、少し冷たい風が背中を押すような時期にもかかわらず、晴彦は汗をかいていた。
「お兄ちゃん、おかえり。今日はカレーだって。」
難しいことを考えながら妄想にふけっていた晴彦の目をさますような笑顔をうかべながら妹が汗くさい晴彦に飛びついてくる。自分が走ってきたあとだなんて知らないように、なんどもなんどもまとわりついてくる。もしかして、自分が走ってきたあとなのだということを知っているからこそ、こんなふうに祝福のごとく兄にまと割り着こうというのだろうか。もしそうだとしたら、この子はきっととても優しい大人に育つだろう。大人にもまだなりきれていないのに、晴彦は保護者ぶった気持ちでそう思った。
「ハルヒ、おかえりなさい。さっき、実力テストの成績が届いたわよ。やっぱりあなたはお父さんに似てよく勉強ができるのね。きっといい大学に入れるわ。」
食卓を囲む母の顔も鮮やかに光っている。この家にいる人たちは、みんな体と心の中に太陽を宿しているかのように、常に笑顔を忘れない。もちろん晴彦が勉強でよい成績を取ったからだといってしまえばそれまでだ。でもそんなことがなくても、たとえ太陽が地面の底に沈んだ夜だとしても、青木家の人たちはずっと笑顔だった。
晴彦にとってその笑顔は救いであり、遂げでもあった。母も妹も父親も、自分に過度なまでに期待している。けれど、失敗したところで彼らはけっしてけなすことはない。「兄ちゃんは頑張ったよ。でもうまくいかなかっただけだよ。」と妹は励まし、「ハルヒはこの悔しさをばねにしてこれからも伸びていけるわ。」と母が励まし、「晴彦にとってまた新たな課題が見つかった経験だ。無駄にはならないよ。」と父が励ます。
家族にほとんどけなされたことのない晴彦にとって、自分は世界で一番強い人間だという思いが、幼い頃から上つけられていた。たとえ失敗をしたとしても、自分は太陽にすら手が届く幸せもので、そうなるために自分は頑張っていると思っていた。
けれど、ある程度いろいろな経験をして、ある程度理性が働くようになったこれぐらいの年齢になると、たとえ友人や家族や実力テストの作成者にほめられても、自分が世界で一番の人間でないことはわかっている。その真実がみんなわかっているはずなのに、みんなは自分の日の当たる場所しか教えてはくれない。自分は体のすべてが日の当たる場所に包まれているような言い方をする。もちろん多くの人々は、悪気があってほめているわけではないし、愛のある家族であることは、晴彦にとってこの上なくうれしい。
でも、もし本当の愛があるなら、光の先にできた陰のことを伝えられるような人間が、周りにいてほしかった。明るい真実だけで世界ができているわけではないと伝えてほしかった。このままでは、自分は夜や曇り空や雨を知らない人間になってしまう。自分が世界のすべてでないことを知っているくせに、自分が太陽だと思いこんでばかりの人間になってしまう。
その日、仕事を終えて少し遅い時間に帰ってきた父親の部屋をノックするとき、晴彦はなぜか、いままでに感じたことのない緊張感を覚えた。まともに父親に自分の悩みを吐き出したことなどいままで数えるほどしかない。しかも、今悩んでいることは、きっと父からしてみれば大した悩みではないのかもしれない。なぜなら父は、自分という存在に絶対的な自信を持ち、迷いなく前に進んでいるからだ。誰かに期待されることが重荷に感じたり、誰かに期待されることがつらくなったりするような人間ではない。こんなことをいろいろと頭の中で考えてしまうから、太陽のスピードをいつもより早いと感じてしまうのだ。
「父さん…。」
部屋からは、こんな遅い時間なのに、父がパソコンをたたく音が聞こえる。息子の陳腐な悩みを聞いて父が体を壊すことはないだろうか。そんな弱い人間でないことは知っているのに体が前に進まない。
「どうした、晴彦…。」
ドアを自分があける前に、父がその大きな手でドアを開いた。母との共用の寝室であるが、母はまだリビングでテレビをみていて部屋には現れない。できれば心配性な母が帰ってくる前に話をしておきたかった。
机の上には、パソコンとコーヒーが並んでいる。家にまで仕事を持ち帰るのに、ぜんぜん着かれた様子がなさそうだ。父はそういう人なのだ。
「さっき母さんに聞いたぞ。実力テストの点数がよかったそうじゃないか…。」
父の柔らかい口調に、晴彦は浮かべていた笑顔のベールを脱ぎ捨て始めた。父の前なら、どんなに悲しそうな顔をしても、攻められることはまずありえない。父は晴彦のことをほかの家族や友人のように褒めるけれど、無理に笑うことを強要しない。涙をどれだけ見せても、その優しさで包んでくれようとするし、泣いた自分のことを糾弾したりしない。自分が一番、笑顔である自分を強要していることに、晴彦は気づいていない。
「そのわりにはなんだか悲しそうな顔をしてるじゃないか。」
父にはすべてお見通しだ。ここで維持を張って笑ったところで、見抜かれるのは時間の問題だ。そんな無駄なことをするより、裸の自分になって涙の皮に飛び込むほうがましだ。
「父さん。おれ、怖いんだ。おれはさあ、自分を生きられてないんじゃないかって思うんだ。誰かに期待されたりほめられるから勉強したりスポーツしたり、ギターを続けたりしているようにしか思えないんだ。いままで自分がやってきたことは、誰かの太陽になるためにだけなような気がするんだ。本当に自分がやりたいこととか、自分が好きだったはずの自分はいったいどこにあるのかわからなくなったんだ。おれはどんなふうに生きればいいの?このままずっと、誰かの期待ばかりを背負うことだけを自分の輝きの口実にして生きるしかないのかな…。」
止まらなくなった涙をこぶしでなんどもぬぐうけれど、まるでバケツから水があふれるように、涙の増水した皮に沈むように、そいつは目からあふれだした。
父は、なにも言わずに、すべてが太陽でできているのではないかと思えるほど、柔らかくて温かい手で、晴彦を包み込んだ。
「いいかい、晴彦。君は少し、荷物を下して歩けばいいだけなんだよ。着ている吹くを少し脱いで、重い鞄の中の荷物を少し地面に放り出して、身軽になって走り出さなきゃ、どんなに青い空の下でも、青春はただ苦しみにしかならないさ。晴れた空の下で苦しんでいる晴れ男なんて、誰もみたくはないからね。
他人の荷物を背負う必要はない。他人の求める笑顔を背負う必要はない。他人の求める期待ばかり詰まった鞄を手に取る必要はない。もちろん、自分勝手に突き進むのは的外れだ。誰かの太陽になるというのはね、自分がやりたいことを、自分が人よりできることを、思いっきりやってみせて、自分という存在を楽しむ日々を生きている姿を誰かに見せることをいうんだよ。君にはたくさんの能力があって、そのどれもが人にうらやましがられるものばかりなんだ。だからそのすべてを好きになる必要なんてもちろんない。自分が持っている能力の中で、自分が好きなどれかを使って、走り続ければいいだけさ。」
今はただなにも考えられなかった。父のしみわたる言葉の一つ一つを頭の中でぐるぐると回転させながら、1枚1枚吹くを脱いでいった。ひたすらないてみると、なんだか自分の体が軽くなったような気がしてきた。体に占める涙の量なんて、体を覆う筋肉や脂肪に比べれば大したことはないはずだった。
荷物を下して青春を走ると、どれだけ空が明るくて広いものに見えるのだろうか。荷物を下して自分の思うままに泣いたり笑ったり失敗したり成功を分かち合うことができるなら、雨上がりの空がどれだけ美しく見えるのだろうか。
いままででもずっと美しくて果てしなく見えた空が、もっともっと遠くまで見えるようになるのだろう。
そんな簡単に、自分の体に着いた荷物を下ろすことなんてできるのだろうか。でもきっとそれができなければ、いつまでも青空の下で苦しむ不格好な太陽のままで生きることになってしまう。
今父の前でやったように、吹くを1枚1枚脱いで、荷物の全部を地面に放り出すことさえできれば、あとはありのままの自分にしか残っていない力と喜びで、目の前に広がる空をつかめばいいだけなのだ。
荷物を下ろすには、なにか大きなアクションが必要だ。それがいったいなんなのかを晴彦が考える前に、晴彦が自分の荷物を地面に放り投げて走り出す日がやってきたのだ。
前の朝と同じように、遠くまで続く春の晴れた空の下を、駅に向かって走ろうと、目をこすって外に出ると、空は昨日と少し違っていた。
ずっと遠くまで続いていると自分が思っていた空がそこにはなかった。そこにあったのは、厚い雲に覆われた壁だらけの道だった。今にもこの空からなにかが降ってきてもおかしくないと思わせるほとだった。
それなのに、晴彦はなぜかいつものように走り出していた。父からのアドバイスを大きくとらえたからではなく、重い荷物を持って走りたくなかったから、鞄からいらない荷物を少し出して走ってみる。もちろん、傘やかっぱなんて鞄には入っていない。そんなふうに、鞄の荷物を減らしたのに、昨日よりも足が前に進まない。雲が地面に向けて発する質量というのは、こんなにも自分の体を地面に激しく押し付けるものなのかと不安になる。どれだけ押し付けられてもかまわないけれど、晴彦は不思議な気持ちになった。
自分は昨日、せっかく荷物を下ろして、自分というものに対して素直に向き合って、他人の太陽になることだけしか考えてこなかった自分に別れを告げようと決めたはずだった。もちろん決めたからといってなにかが変わるわけでもなく、行動を起こさなければ空は晴れない。けれど少しは、自分の心が軽くなるんじゃないかと期待していた。蓋をあけてみるとそんなうれしい反応が帰ってくることはなかった。むしろ体も心も、空の分厚い雲に押しつぶされて、昨日のように自分が軽やかに走れなくなっていた。
こんなことなら、傘や合羽ぐらい持ってくればよかったと、重い体を背負いながら上り坂を上りきったときに、晴彦はかすかに考えてみる。しかし後ろを振り返れば、こわくなるほどの下り坂が待っている。自分の努力を捨てて、今にも降ってきそうな雨の中を下っていくなんて、晴れ男とは言えない生き方だ。たとえ雨が降っても、自分を曲げずに前に進むことこそが、誰かの太陽になるということなのだ。
電車に乗って学校に向かっている間、社葬に移る街並みをずっと見つめていた。自分でも気づいているくせに、目の前に見える実際の景色を頭の中で上書きしようとしてもだめだった。
窓の外に見える人たちは、降りだした雨を前から予想していたみたいに、傘の鼻を咲かせ始めた。雨はだんだんと激しくなっていく。さっき自分が走ってきた上り坂の下では、きっとまだ空は晴れていて、どこまでも続く青空の下を、背筋を伸ばして走ることぐらい造作もない街が広がっているはずだ。この電車を降りて自分が外に出れば、傘をささなくても歩けるような空が広がっているかもしれない。プラス思考にいくら考えをめぐらしても、すべては傘を忘れた自分を正当化するための偽物の太陽に過ぎない。黄色いクレヨンでいくつも太陽の下が気を書いて、そいつが書かれた画用紙を何回空に投げたところで、残るものはごみになった画用紙だけだ。
駅を降りると、通り雨なのか長雨なのかはさておき、雨はいよいよ激しくなっていた。学校までは走っても数分はかかるし、人も多いから全速力では走れない。晴れ男としての自分の能力を発揮すべく、鞄の中にたまにしのばせている、青木家に代々伝わる秘伝のテルテル坊主のお守りを探す。ところがこんな日に限って、あいにく鞄の中には大したものが入っていない。当たり前である。昨日たくさん荷物を鞄から出したのだから。
改札を通り抜け、容赦なく降り続く雨を体に感じながら、学校に向かって走る。自分以外の人間はほとんど傘をさしている。傘を買うためだけに、駅の中にある小さなコンビニに入ることはできる。でもそんな無駄な出費をどうしてこんななんでもないただの雨の日にしなくてはならないのだろう。自分の家には、あまり使っていない青い傘があったはずなのに。
こんなふうに、たくさんの傘の鼻を咲かせている人たちは、雨のときに誰かに守られなければ生きていけない弱い人間なんだ。みんなにとっての太陽になるならば、雨だろうと雪だろうと、そんな大きなものに守られなくても、一人で走ることのできる有機がなくてはいけない。誰かに守られず、自分一人で輝ける存在でいることこそが、太陽の力なのだ。
だからこんな雨だって、自分は受け止めてみせる。こんな雨の日だからこそ、ぼくは荷物を軽くしてきたのだ。偽物の太陽の正当化魔法を使い続けていると自覚しながらも、晴彦は自分が傘を忘れたことを上書きしようとした。自分が傘を忘れたことには意味があったんだと、自分の頭に焼き付けていった。
こんなとき、雨にいつもぬれている彼女なら、なにを思うのだろう。
ふと晴彦は、部活でよく会う少女のことを思い出した。
彼女は自分とは正反対の雨女だ。勉強の成績が低くていつも先生に呼び出されている。スポーツがいやすぎて、自分が所属している天気研究部にしか席をおいていない。卒業式も入学式も運動会も遠足も文化祭も、彼女がかかわる大事な行事になると雨が降るので、そういうものの実行委員会に彼女が起用されることはめったにない。ささいなことでよく涙を見せる。みんなからは泣き虫だと揶揄されているが、自分でもそれはわかっているようだった。そんな雨女の彼女は、きっとこんな雨の日が、毎日続いているような気分で、自分の朝を生きているのだろう。自分のように、朝の青空の下を駅までジョギングしようなんて考えないだろう。きっと彼女の青春とは、青い空がなくてもなんとかして生きようとする春のことだろう。
そんな彼女と自分を比べてみて、昔の自分なら、自分のほうが優れていて、彼女は生産性のない女だと思っていただろうし、今だってそう思わなくもない。でも彼女には、自分が悲しみたいときに悲しんで、喜びたいときに喜ぶ力を、晴彦よりも多く持っている。雨の悲しい朝でも、靴に遊びにきた雨粒と話ができるような生き方をしている。涙を笑顔に変える方法を知っている。晴彦のように、泣かないことを頑張る人間ではない。
彼女はもしかしたら、自分よりも強い人なのではないだろうか。自分も彼女のように、自分の目の前に雨雲が広がっていても、自分の上に雨が降ってきても、その事実を認めて、傘をおもむろに鞄から取り出せる人間になれれば、太陽にしかめっ面をしなくてもよくなるような気がしてきた。
彼女のように、雨を肯定できる人間になりたい。そのとき晴彦は、なぜか降りしきる雨の中で、傘をさした髪の長い少女の姿を探していた。そんな少女はいくらでもいるけれど、なぜか彼女のことは、今の自分ならすぐに見つけられるような気がしていた。
「青木。あたしも天候生なんだよ。知ってた?」
去年の春、高校に入学してしばらくしたある日、遠足が雨になった。雨のプログラムとして、教室でなぜか演劇をやらされることになったとき、晴彦と同じグループになった彼女が教えてくれた。そのとき晴彦は、彼女の名前もよくわからなくて、けれど自分と同じ天候生の家族に生まれてきたことがわかって、うれしいのか不思議なのかわからない気持ちになった。
「じゃあ今日の雨はおまえが降らせたんだな。」
その変な気持ちのせいでいらいらしてしまった晴彦は、ぶっきらぼうに彼女にそんな言葉を投げつけていた。そんなことをしたほころで、今日という日が晴れないのはわかっているのに。もし晴れたところで、今から遠足にいこうと大人たちが言い出すはずもなかったとわかっているのに。その日、晴彦の鞄の中のテルテル坊主は、なぜか言うことを聞いてくれなかったのだ。
「うん、そうだね。あたしのせいだね。ごめんね…。」
そんなことでさえ泣きそうな顔をする彼女に、晴彦はそれ以上ろくに鼻仕掛けることができなかった。部活も一緒なのに、とことんその少女を避け続けた。その少女と二人になってしまったら、あの日のことを誤らなければいけないとわかっているからだ。
それから1年経った春、いまさらながらに、晴彦は彼女に会いたくなっている。それも、なんでもない、ただ雨が突然降ってきて、傘を忘れただけの、名前のない朝に、突然晴彦は彼女に会いたくなった。気まずい関係になったのをなんとかしたいからではない。彼女に1発殴ってもらって、自分のこの腐りきった性根をなんとかしてもらうためでもない。ただ晴彦は、彼女のそばにいたかった。
「青木!待ってよ青木!どうしたの?傘忘れたの?」
学校に向かって奪取しながら後ろを振り返る晴彦に、そう声をかける少女がいた。晴彦は聞こえないふりをする。どうして彼女が自分を見つけてしまったのだろう。こんなときに声をかけるべきなのは彼女でなくて自分のはずなのに。恥ずかしくて顔が赤くなる。こんなところで突然立ちどまったら、いくら知らない人にだって目立つ。自分が彼女に恋をしてしまったと、天を覆う太陽にだってばれてしまうかもしれない。
「やっと追いついた!青木ってば。聞こえる?」
彼女は、自分の顔と同じぐらいよく目立つ赤い傘を持っていた。その傘はみたことがある,。合羽も真っ赤である。赤が好きなのだろうか。その傘の下には、寝坊して髪をセットする時間もなかったのがはっきりわかるような、クシャクシャの髪を持つ頭が見える。いつも彼女は、こんな髪をしている。遅刻ぎりぎりで教室に飛び込んできて、誰かが床においていた鞄につまずいて、「ごめんね。またやっちゃったね、あたし。」と泣きそうな顔になる彼女を、ただの馬鹿だと、いままでの晴彦は笑い飛ばしてきた。もちろん、寝坊したり、鞄につまずいたりするのはばかかもしれない。でも晴彦はわからなかった。考えたこともなかった。いわゆる常識から外れた人間が、どうしてそんな乱れた生活を送ることに決めたのか。そして、今でもどうしてそういう生活から抜け出せなくなってしまっているのかを考えたことはなかった。
そういう生活をしているのは、その人間が馬鹿で常識を知らない体と考えてきた。
でも、そんなふうに、すべてに安定を求める人たちだけが、この世界で強者なのだろうか。髪をセットできず、鞄につまずく人はただの弱者なのだろうか。もし全社が強者なら、どうしてその強者は、常識というものに従うことを選んだのだろうか。そこには、教科書や法律みたいななにかがあるのだろうか。そしてもしそんなものがあるとするなら、自分の存在をどこで見つければよいのだろうか。
晴彦はもう、彼女を笑い飛ばせなくなっていた。自分が遅刻ぎりぎりに登校しない理由を、彼女がそうすう理由を、自分が誰かよりも強くあろうとする理由を、彼女がそれをできない理由を、考えたことがなかったからだ。そんなものに理由はなく、常識だけがそこにあると思っていたのだ。
「悪い。あ、あいさつ忘れてた。おはよう。」
「あいさつなんていいからさ。傘持ってないんだよね。よかったら入っていかない。風邪日いちゃ大変でしょ?それにもしあんたが具合悪くなられたら、雨女としてとあたしの面目がね…。って、それは冗談だけど。」
すんなりと傘に入ることを了承していいのか迷ってる暇はなかった。今晴彦に必要なのは、雨を受け止める有機と、弱い人間を認める愛と、傘を差し出してくれる、自分とはまったく逆の世界に住む彼女の存在だった。
「ごめん。じゃあ入らせてもらっていいかな。」
「誤らないでよ。傘を持たずに雨の中を走ろうとする晴れ男のことを、誰が放っておけるっていうのよ。」
そのとき、どこから降ってきたのか、大粒の雨が、彼女の傘の上を跳ねた。もしかしたらそれは、ただの雨でなく、やっと父以外の他人の前でこぼすことができた晴彦の涙なのかもしれない。それとも、晴彦が雨という青空に必要な要素に気づいて、そいつに恋を下合図だったのかもしれない。
青春という言葉がある。それはどういう意味の言葉なのだろうか。青木晴彦は、雨の少し弱まった帰り道を走りながら、そんなことを考えていた。その答えは余計にわからなくなったけれど、きっと自分の青春に足りないのは、激しい雨の上り坂にも似た、刺激的な恋なのかもしれないと、やっと認めることができた。
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