第14話 悪人と子供


「おはよー!朝だよ父さん!」


 喧しい声とともにバンッと音を立てて弾けるような勢いで開いた扉の向こうから、にこやかな子供が部屋に乱入してくる。寝覚めから憂鬱なまでに清々しいその顔にうんざりしながら俺はベッドに横たわったまま右手で額を押さえる。

 動いた俺を見てベッド脇まで寄ってきた子供は青い瞳を嬉しそうに細め楽しげに跳ねる。釣られて耳元まで短く切り上げた白い髪もパラパラと跳ねている。

 本に命じても子供の髪の色は戻らなかった。死者を甦らせることができないのと同じような理屈なのだろう。万能のように思える本にも、できないことはある。


「あっもう起きた?起きた?父さんも早起きに慣れてきたね!」


「…………あのな。俺はお前の『父さん』じゃない。朝からデカい声と音を立てるな、騒々しい。神殿にいた頃のように音を立てず静かに過ごせ。外の世界でいらんことばかり覚えるな」


 言っても無駄だろうと思いつつ言う俺に、子供はピタッと動きを止め、表情を硬化させ、一歩、ベッドから離れる。


「……はい……申し訳ありません、ヴァルガ」


「……」


「……」


「……」


「……」


 嘆息。嘆息だ。それしかないだろう。俺が悪いのか。そんなことはないはずだ。そのはずだ。そのはずだが、なんにせよ、相手は子供だ。俺が折れてやるしかない。そういうものだろう。


「……口調まで戻す必要はない」


「!はいっ!じゃなくて、うんっ!!」


「静かにしろ。極端に過ぎる。中庸を知れ」


「うっ、あっ、うん、申しわ……あー……えと、ご、ごめん」


「謝る必要はない。気を付けろ」


「……うん……」


 俺の忠告に肩を落として反省を示すふりをしながらちっとも反省しない子供は、また明日も同じことを繰り返すのだろう。今日で三日目だ。それが分かっていて同じことを繰り返している俺も俺だ。

 俺はベッドから起き上がり、身支度をする。腹が減った。


「あの街のこと、後悔はないか」


 ふと尋ねる気になったのは、気紛れだ。子供は僅かに驚いた顔をして、視線を床に落とす。


「……ない、とは、言えませ──言えない、かな……」


 子供は、プロハを赦さなかった。しかし、殺さなかった。

 子供は本に命じて、プロハの記憶を書き換えた。偽の神話を、真の神話に。虚偽の信仰を、真実の信仰に。

 『神子』は十年の間に街の人々の支えになってしまっていた。今更、すべてプロハの嘘でした、などと事実を暴くことに、子供の鬱憤を晴らす以外の意味などなかった。それを悟れてしまうだけの賢さを、慈悲の心を、不幸にも子供は持ち合わせてしまっていた。

 俺は、親を奪われ、友を奪われ、人生を奪われた子供が、周囲の幸福を道連れにしてでも己の身勝手に復讐を果たすことを、悪だとは思わない。それもまた一つの選択だ。

 しかし、子供はそうは断じなかった。街の人々の日常だけでなく、プロハまでも、救いたいと願った。それが子供の選んだ答えだった。



 プロハに報いを。それは私の切実な願いだった。

 しかし、『報い』とは何か。私はプロハがどうなることを願っているのか。

 死は望まない。死は、人が人に与えていいものではない。私は私が人だと知った。だから、プロハに死を与えることはできない。

 生ける屍にしてやってはどうか、と悪魔のような提案を神のようなヴァルガが囁いたが、それも私の願いとは違った。

 考えた末に、私は答えにたどり着いた。

 私はただ、悔いてほしいのだ。プロハが己の行いの過ちを思い知り、悔い、涙し、命を賭して贖い続ける未来を自らの意思で選び取ってくれることを願っているのだ。

 私の出した答えに、完全に自発的なそれを期待するのは時間の無駄だろうな、とヴァルガは言った。そして、だから記憶を弄ればいい、と再び悪魔のように囁いた。


「結局、私はプロハと同じ罪を背負ってしまった」


 私は、本に命じて、プロハの記憶から『神子』と『聖典』は彼が創作した偽物であるという事実を消し去り、代わりに、彼の創作した教えは事実であり、『神子』は『聖典』を手にある日突如として天より遣わされ神殿に顕現した聖なる存在であると上書きした。彼は街の人々と同様に心底から『神』に祈る神職者となったわけだ。

 更に、プロハの体色の一切を剥奪して神殿に連れ帰り、プロハを『神子より力を授かった者』として神官達や街の人々に知らしめた。私が街を出るには『神子』の代わりが不可欠だった。

 『聖典』も必要だった。ヴァルガが血を回収したことで力を失い青くなった本に、私の暗唱していたすべての『祝福の言葉』を黒い本の力で再現し、『聖典』として新たな『神子』に持たせた。無論、青い本に再びヴァルガの血を吸わせることなどしない。プロハの創作した言葉が羅列されているだけの、ただの本だ。なんの力もない。

 それでも私はプロハに、その本で、『祝福の言葉』で、街の人々を救いなさい、救い続けなさい、と、黒い本を開き、名指しして命じた。


「物心つく前のことなど覚えてはいませんが……恐らくすべて、過去に私がプロハにされたことです。記憶を、色を、自由を奪って、神殿に縛り付けた」


 手が震える。恐ろしいことをしてしまった。でも。


「でも、私の意思で、選んだ結果です」


 強く拳を握りしめて、私はヴァルガを見上げる。



 強がりか、本心か。そのどちらもなのだろう。ただ、『神』のせいにせず、己の意思だと言い切れたことは好ましい進歩だろう。俺は子供の頭に手を置く。


「お前は不当に奪われた自由を、正当な復讐とともに取り戻した。それだけだ。罪などない」


 それより、と頭に乗せた手で白い髪をかき混ぜる。


「また口調が戻っているぞ」


「あっ!あああ……ああ、もう、いいですよ、私はこのままで支障はありませんし、むしろ話しやすいですし」


「駄目だ」


「え」


 きっぱりと首を横に振る俺に子供は目を剥く。


「な、なんでですか」


 痛々しいからだ、とは、言っていいものか。子供のこの年不相応に馬鹿丁寧な話し方は、プロハの呪縛のようなものだ。『神子』としてあらねばならなかった十年で身に付けさせられた習慣だ。


「……ヴァルガ?」


「ともかく。今後一切『です』『ます』『私』は禁止だ。使った場合は返事をせんからな。子供は子供らしく汚い言葉をどこぞで覚えて叱られていろ」


「ええ?なんですかそれ……?」


 戸惑う子供を無視して、身支度を終えた俺は荷物を手に取り子供が開け放ったままになっていた扉へ向かう。


「行くぞ」


「えっ、あ、もう出発するのですか?」


「……」


「?ヴァル……あ。ええと、もう出発する、の?」


「その前に朝飯だ。この宿の飯は美味いぞ」


 情けなく鳴る腹をさすって、俺は部屋を出る。そのあとを子供が追いかけてくる。



 ついて行きたいと言ったのは私で、許可したのはヴァルガだ。

 正直なところ、ヴァルガには断られると思っていたから、あっさりと許可されて驚いた。街にはもういられない私の気持ちを酌んでくれたのだろう。自らを悪人と言うヴァルガはやはり、悪人ではないように思う。

 旅には不向きだろうと髪を切ってくれたのもヴァルガだ。神殿のある街から遠く離れたこの町へすぐに連れ出してくれたのもまた然りだ。本に「短くしろ」や「移せ」と命じただけだが。


「そういえば」


 本のことで一つ気になっていたことを思い出し、私は向かいでパンに齧り付いているヴァルガに尋ねる。


「ヴァルガに『聖典』の『祝福の言葉』が効かなかったのは、なんでなの」


 ですか、と続けたくなるのを堪えると、ヴァルガはパンを咀嚼し、嚥下し、答えてくれた。


「本の力は、俺が命じて、かつ、俺の身体に益があるときにしか、俺には及ばない。本に力を与えているのは俺の血だからな、本来の宿主を害することはせんのだろう」


 答えながらヴァルガは忌々しそうな顔をしている。彼の壮絶な生い立ちを思えば、彼が彼の血を厭うのも致し方のないことなのかもしれないが、私からすればヴァルガの不思議な血は神に愛された特別な力だ。万物に及ぶ力も彼には効かないのだから、やはりもはや彼が神そのものだろう。


「あれ?でも」


 納得しかけて一つ、引っかかる記憶があった。


「わた──おれが本を開いたままヴァルガに助けてって頼んだとき、助けてくれて、でもそれは『使役されただけ』って」


「ごちそうさまでした。行くぞ。もたくさするな」


「はっ?え?ちょ、」


 どこの風習なのか突然手を合わせて丁寧な挨拶とともに食事を終えたヴァルガがそそくさと宿を出て行く。私はまだ残っていたパンとスープを必死で平らげて、後を追う。


「ちょっと、なんですか、突然」


 食べてすぐに走ったせいで気持ち悪い。文句を言う私を一瞥し、しかし何も言わないまま歩みも止めないヴァルガに、ああもう、と言い直す。


「なんなの、突然」


 しかしヴァルガは尚も何も言わないで、視線も前を向いたままだ。その顔は、苦虫を噛み潰したような顰めっ面だ。あれ、と私は思いつく。これはもしや、と推測する。そういえば、助けられたときもちらりと思ったことだ。ヴァルガなら命じなくても。


「ヴァルガもしかしてあのとき使役されたわけじゃなくて普通に私──おれを助けて、あのときも、今も、照れ」


 皆まで言い終わらないうちに、ヴァルガが外套をバサリと捲り、腰の後ろのホルダーから本を取り出し、開く。


「俺をからかおうとは良い度胸だ」


 この間、一秒に満たない。私は慌てて叫ぶ。


「わーっわーっ!待ってください!行かないで!もう言いませんから!!」


「……」


「あ。じゃなくて。待って、行かないで、もう言わないから」


 言い直す私をヴァルガは妙な物を見るような目で眺めたかと思うと本を閉じ、ホルダーに戻す。


「……『行かないで』、か」


「?何か変で──だった?」


「俺がお前を攻撃しようとしていると思ったにしては妙な言葉だ」


「ええ?いや、攻撃はありま──ないよ、置いていきはしそうだけど」


「……」


 私の返事は歓迎できるものではなかったらしく、ヴァルガは眉間に深く皺を刻む。


続く

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