第12話 加護
■
「……『終わったら呼べ』と言ったはずだが」
半眼で目の前の光景を見つめて文句を言う俺に、
「す、すみません……」
子供が申し訳なさげに眉を下げる。
◇
神を己の外に求めるなという男性の──ヴァルガの言葉の意味するところは、正直なところ、私にはよく分からなかった。ただ、本を持つ者に名を教えるのはリスクだと言っていたのに、私に本を貸し与えると同時に名を教えてくれた、その信頼には応えたいと思った。
地面に引きずる長さの神衣も髪も、歩くだけで慎重さを求められるのに、走るとなると不便極まりない。神学師はもう背中も見えない。走ったところで追い付ける気がしない。それでも、私は彼に追い付かねばならない。
だったら飛べばいいのでは、と短絡した考えで私は、本に命じた。
「ええと……と、飛べ!」
しかし、何も起こらない。
「……あれ?……飛べ!」
やはり何も起こらない。首を傾げる私に、ヴァルガの溜め息が降ってくる。
「飛んで追う気か?止めはしないが……どのみち、『飛べ』では飛べない」
「?え?」
「あの男の夢見がちな表現を借りるのは癪だが……『見えない巨人や妖精が力を貸してくれている』と考えてみろ。『飛べ』では『見えない巨人や妖精』が見えないところで飛ぶだけだ」
「あ……じゃあ、『飛ばせ』?」
途端に、身体がぐいっと持ち上がり、次の瞬間、
「ううわぁああっ?!」
視界が疾走する。耳元を風が駆け抜ける。空中にいることは分かるが、何が起こっているのか分からず混乱する。
礼拝所の中を縦横無尽に振り回されているのか。幾度か礼拝所に迷い込んだ鳥が出口を求めて礼拝所内を困ったように飛び回る様を見たことがあるが、きっと今の私はそれに近い。目が回る。気持ち悪い。
「も、もう、やめてください……!」
誰にともなく懇願すると、ピタリと天井付近で止まる。同時に、身体を持ち上げていた目に見えない何かの力がふっと消える。つまり、落下する。
「えっわっちょっそれはやめなうっわあああ?!ヴァッ、ヴァルガ!助けてくださいっ!!」
「ッ……そう軽々に名を呼んで命じるな」
私が落下した先で私を受け止めてくれたヴァルガはそう言うと、私を受け止めた腕から唐突に力を抜いて私を地面へと落とす。痛い。
「……ありがとうございました……」
「礼はいらない。俺はただ使役されただけだ」
「使役?」
「俺がお前を助けたのはお前が本を開いたまま俺の名を呼び、俺の行動を命じた結果だということだ。俺の意思とは無関係にな」
名を知られると、本人の意思とは関係なく本の使用者の命令に従った行動をしてしまう、ということか。ヴァルガなら命じなくても私を助けてくれたような気がするが、それを口にすればまた叱られる気もするため黙って立ち上がる私の頭に、ぽんっとヴァルガの手が乗る。
「まあ、あれだけ振り回されて本を手放さなかったのは褒めてやってもいい。でなければ死んでいたぞお前」
「え」
「本を手放せばその瞬間に本の力は消え失せる。特に自分に力を付与するような命令をするときは気を付けるんだな」
そういう大切なことは最初に教えてほしい。腰が抜ける思いだが、こうしている間も神学師は遠ざかっていると思うと腰を抜かしてもいられない。
「何か……できるだけ安全に神学師に追い付く方法はないですか。逃げた先に心当たりもないですが……」
「名さえ分かれば本の力でどうとでもなる」
「でも、彼の名は忘れてしまって」
「本に触る機会があったのはお前だけだ。なら、連中はお前のように奴の名を消すために記憶を弄られてはいないと考えていいだろう。『神子』として聞き出すといい」
事も無げに言うヴァルガの目は、警笛で集まってきて遠巻きにこちらの様子をうかがっている神官達に向かう。なるほど、と私も彼らを見る。
■
神官どもから子供が神学師と呼ぶ男の名を聞き出し、子供は本を使って男の元へと移動した。実にスムーズに事は運んだ。そこまでは。
問題は子供がいなくなったあとだ。突如として消えた『神子』に礼拝所内は騒然となった。
結果、『神子』が消えたのは『悪魔』である俺の仕業ということになり、武器を構えてこちらへ向かってくるものだから俺としても応戦するほかなく、かといって殺す必要性もなく、全員を俺の剣で眠らせた。
若干辟易はしたが、そこまでもまだ、想定の範囲内ではあった。
しかし、やれやれと一息ついたところで、視界が一変し、これだ。
「っ!……ハァ……ハァ……クソ、悪魔を召喚したのか……!コイツの命はどうでもいいということだな神子よ!」
「違う、違います、落ち着いて」
ここは礼拝所ではない。屋外だ。街の中ではあるらしい。見覚えがある。市場の付近だ。
俺の向かいでは、切羽詰まった表情の男が、蒼白した青年のこめかみに銃口を突きつけている。俺の傍らでは、弱り切った表情の子供が開いた本を持ったまま俺を見上げている。
青年はたまたま居合わせた通行人だろう。そのこめかみに男が突きつけている小型拳銃は礼拝所で俺を撃った物だ。なりふり構わず命からがら逃亡したように見えたが、あのどさくさでちゃっかり自分の拳銃を拾い上げ、逃げながら弾を充填したのだとすれば、思ったよりも男は冷静なのかもしれない。
なんにせよ、子供の求める報いを男に与え終わったようには見えない。終わったら呼べと言ったはずだと文句の一つも言いたくなるというものだ。
「何を困っている。奴の名を知っているのだから人質など関係ないだろう。さっさと片付けろ」
子供を急かすと、子供は困った様子のまま男を見る。
「銃を下ろしなさい、プロハ」
男の名を呼び、命じる子供の言葉に、しかし男は従わない。
「?何故だ」
「え。ヴァルガも分からないのですか」
驚きに見開かれた大きな青い瞳が俺を見る。
◇
人質を取られて、名を呼んでもどうにもならず、叱られることを覚悟してヴァルガを呼んだが、ヴァルガも神学師ことプロハに本の力が及ばない理由が分からないらしい。
「……。男の名を指して、本に『移せ』と命じて、ここへ……あの男の元へ着いたのは間違いないか」
ヴァルガの質問に私は頷く。
「そうです。神官達が教えてくれた彼の名でここへ来ることはできました。既にあの青年を人質にした状態でした」
「そのあとは。名を呼んで命じても何も効かないのか」
「はい。何も効かなくて、どうしたものか……」
私の返答にヴァルガは難しげな顔をして何事か考え、それから、ふと息を吐いたかと思うと、
「まあ、詮索はあとでいい」
そう言って私の手から本を取り上げ、本に命じる。
「吹き飛ばせ」
「えっ?!待っ、そんなことをしたら!」
私の危惧したとおり、プロハが吹き飛んでいく拍子に暴発した弾丸が人質になっていた青年に直撃する。こめかみは逸れただろうか。分からない。着弾の衝撃に押されるようにして青年が倒れ込む。
「あっ、ああ……!」
こうなると分かっていたから何もできずヴァルガを呼んだというのに、とヴァルガを責めようとする心を律する。プロハを赦せなかったのは私で、追ったのも私で、今起こった出来事の責任はすべて私にある。
結局は自分の手を汚さずヴァルガに手を下させてしまった己の不甲斐なさを嘆きこそすれ、ヴァルガを責めるのは間違っている。私はヴァルガに感謝し、犠牲になった青年へ謝罪と懺悔を捧げるべきだ。それに、そうだ、青年の名が分かれば、本があれば、まだ、助けられるかもしれない。
そう心を整理して、ヴァルガの手から本を奪って倒れた青年に駆け寄る。
「あ、コラ」
本を取られたヴァルガから呑気な叱責が飛んでくるが、今は聞こえないふりだ。
「あ、あのっ、意識は、意識はありますか」
「……んっ……ぐ……」
「あっ、む、無理に動いてはいけま」
「っはーっ!ビビったー!!……ん?んへっ?うわっ、み、神子様?」
むくりと起き上がった青年は覗き込んでいた私に驚いて目を剥く。それに対して私も目を剥く。起き上がれるということは、当たらなかったのだろうか。いや、しかし、青年の身体は衝撃を受けて倒れたのだから、当たったはず、なのだが。
「あの……怪我は……?」
「え?や、当たってないです、多分!だってどっこも痛くないし、うん、はい、大丈夫です!」
状況が分からないのか狼狽しつつも、青年はニカッと笑う。
「助けてくだすってありがとうございます、神子様!いやあ、通り魔なんてツイてないなって思ったけどまさか神子様に助けていただけるなんて、これこそ神のご加護!幸運ですね俺は!」
いつの間にか近くに来ていたヴァルガが私の手から再び本を取り上げつつ、青年を見る。
「よかったな、メロ」
何が何やら分からないが、メロと名を呼ばれたくらいだ、青年はどうやらヴァルガの知り合いらしい。ヴァルガには、銃が暴発してもメロは無事だという確信でもあったのかもしれない。
「人が悪い」
「俺は悪人だと言ったろう」
思わず漏れた私のぼやきを、ヴァルガは素知らぬ顔で肯定する。
続く
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