第11話 神

 黒い血を失い、本来の色を取り戻したかつて『聖典』と呼ばれた本は、深い青色の装丁をしていた。美しい色だ。


「皮肉だな。力を失ったほうが、よほど神々しい」


 俺が血を回収する様を見て真ん丸になっていた子供の青い目に向けて青い本を掲げる。

 状況についていけていないのか、子供は丸い目で黒から青に戻った本を見て、黒い血を回収した俺の指先を見て、最後に、俺の顔を見て、あっ、と声を上げる。


「傷が」


「ん?」


「顔の傷が少なくっていま、せんか?」


 尻すぼみになる指摘を口にする子供は、言い切るほどの自信がないのだろう。無理もない。むしろ確信できないまでもよく気付いたと驚くくらいだ。

 俺の顔には、全身にも、数え切れないほどの傷痕がある。俺自身でさえ、どこにいくつあるのかを把握していない。


「傷痕は、そこから流れ出た血を回収すれば、消える。今回は顔面だったか。一カ所だけということはまずないから、身体からもいくつか消えているはずだが」


 言いながら、足元に転がっている黒い弾丸を視線で指す。元は銀だった。今は俺の尻の下でもがく男が先ほど俺に撃ち込んだ弾だ。


「そのくらいの微量なら血を回収するまでもなく傷は消えるがな」


 撃たれたときに空いた服の穴から覗く身体には、弾痕などない。それを確認して、子供は顔を顰める。


「と、いうことは、本は、微量とは言えないほどの血を吸っているのですか」


「そうなるな。何しろこの青が黒く染まるくらいだ」


「同じような本が、世界には何十冊とあると言っていませんでしたか」


「言ったな。俺の全身に確たる証拠が刻まれている。


 肯定する俺に、何故だか子供は自身が傷を負ったかのように酷く痛そうに顔を歪ませる。


「何故、そんなことに」


「何故?聞くまでもない。便利だからだ。欲する者がいれば商売は成立する」


「商売……?まさか、自ら進んで提供したのですか」


 信じられない、という目をする子供に思わず溜め息が漏れる。


「そんなわけがないだろう。俺は人並みに愚かだが、そこまで愚かだったことはない」


「なら、」


「お前よりも尚小さい、まだほんの子供の頃に、父親と呼ぶべき男に全身を刻まれ、吊され、奪われただけだ」


「──」


 絶句する子供に、俺は青い本を渡す。俺にとってはただの遠い記憶だ。痛みさえ忘れた。


「奪われたから、回収して回っている。すべて回収すれば、少なくとも不死からは解放される、かもしれない。確証はないが、他に取り得る手段もない」


 子供は、俺から渡された青い本を茫然と見つめている。


「普通に生きることは疾うに諦めた。だがな、普通に死ぬ自由まで諦めるつもりはない」


 何故ここまで話しているのか。いつの間にか俺は、子供に聞かせるというよりは、自分自身に言い聞かせている。



 なんでもない表情で、とんでもない過去を語る男性が、不意に私に手渡したのは、黒い血を抜かれ青く戻った本だった。

 咄嗟のことで受け取ってしまったが、これをどうしたらいいのか、私には分からない。男性が現れるまでは『聖典』と呼んで大事にしていた本だ。手には馴染んでいる。しかし、見慣れない青は美し過ぎて、私を拒んでいるように感じられる。


「開いてみろ」


「え?」


 何も書かれていないのではないか。思いつつも、言われるまま、青い表紙を捲る。そこには白紙、ではなく、


「料理……?」


『おいしい家庭料理』と書かれた中表紙があった。続けて捲れば、出てくるのは次から次へと、料理の作り方の図解だ。使い込まれた様子さえ見て取れる。白紙ではない。偽りの『祝福の言葉』でもない。


「なんで……なんですか?これ……なんで料理?」


「なんで料理と言われるとそこは単なる偶然だから困るが……その本は今度こそ完全に、元の姿に戻っただけだ」


「これが……『元の姿』……」


 本を閉じて、美しい青い布地の装丁を撫でる。やはり見慣れない、が、手には馴染む。


「俺の生家にあった物だろう」


「では、貴男のお母様の」


 使い込まれた様子から、暖かな家庭を思い浮かべ、羨み、気安く尋ねようとして、すぐさま後悔する。男性の過去に暖かな家庭などあろうはずがない。それを証すように、男性は思い出を懐かしむ素振りもなく淡々と返してくる。


「さあな。俺が知るのは、吊した俺から滴る血を吸わせるために家中からかき集めた中にあった一冊だったという事実だけだ」


「……ご……ごめんなさい……」


「?何に対する謝罪だ」


 自己満足に過ぎない謝罪は男性には通じず、更に言葉を連ねようとする私を遮って男性は追い払うように手を振る。


「俺を憐れむのはやめておけ。言ったろう、俺は悪人だ。俺の肉親が強欲だったばかりに受けた俺の不幸は、俺が殺してきた人数で釣りが出る程度のものだ」


「ですが」


 男性が現在に至るまで何をしてきたのかを私は知らない。しかし、悪人というのは、今、男性の下でもがいている神学師のような人間であって、男性はどうにも違う、と私は思う。そういったことを訴えようとした。しかし、


「動くな!!何をしている!!」


夜廻りの神官が二名、礼拝所の入口から飛び込んできて、それどころではなくなってしまった。

 神官は三名で一組だ。礼拝所の外にも一名いるのだろう。外で警笛が響く。



 喋り過ぎた。血を取り戻した直後は昂揚してしまっていけない。折良く飛び込んできた警備らしき神官どもに託けて話を切り上げ、立ち上がる。


「あっ」


 途端に俺の尻の下敷きにされていた男が虫のように手足をバタつかせて床を這い神官どものいるほうへと逃げていくのを見て、子供が声を上げる。

 俺は気にせず、持ったままだったナイフに付いた血を回収し、鈍色に戻った刃を懐の鞘に収め、外した手袋をはめ直し、祭壇の前に置いていた剣を手に取り、腰に下げる。


「あ、あの、」


「ん?」


 声に振り向けば、子供は逃げ出した男と俺を交互に見て、男を指さしている。


「逃げてしまいます、けど、いいのですか」


「ああ。構わない。もう用は済んだ」


「用、というと」


「血の回収、と、本をばら撒いている奴の手掛かりの入手だ。手掛かりに関しては僥倖だっ──」


「裁きは」


 焦っているのか、俺の言葉を遮って子供は問う。


「本を悪用した者への裁きはないのですか」


「ふん?便利な道具を便利に使うことは悪事か」


「神の力を私欲に使うのは悪でしょう」


 真顔で答える子供に頭痛を錯覚する。


「間違えるな。神の力じゃない」


「それでも、神の如き力です」


「違う。呪われた力だ」


 男が集まってきた神官どもの合間を縫って礼拝所の外へと出る。子供は叫ぶ。


「あの者に報いを!」


 咄嗟の叫びさえ、祈りか。呆れて、俺は本を取り出す。それを見て、子供は祈りが届いたとばかりに目を輝かせるが、俺は本を開かず、子供へと差し出す。



 男性が黒い本を私に差し出している。神学師はもう、外へと逃げてしまった。早く本を開いて、先ほどのように連れ戻してほしい、のに、本は閉じられたまま、私の目の前に差し出されている。


「あ、あの、」


「お前、神を見たことがあるか」


「え?あ、い、今、目の前に」


 半ば、いやそれ以上、本気で答える私の頭を、男性は黒い本で叩く。痛い。


「神を己の外に求めるな」


 そう言うと、私の手を掴み、本を持たせる。


「神とはなんだ」


「え、あ、万物の父であり、全知全能の」


 私の答えを皆まで聞かず、男性は強く言う。


「己がそう在ろうとしろ」


「え?」


「神だろうが悪魔だろうが、己の外に求めるな。善も悪も己の内に在るモノだ。正しくあろうとする己の良心をこそ神と呼べ。願え。されど祈るな。お前の願いを委細違わず叶えられるのは神でも悪魔でもない、お前だけだ」


 男性が、私と本から手を離す。


「貸してやる。やりたいことがあるならやればいい。終わったら呼べ」


「よ、呼ぶ?」


「ヴァルガ。俺の名だ」



続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る