第9話 『聖典』と『神子』

 男が行商から本を買った田舎町は、俺がまだ行ったことのない地方の極端にあるらしい。


「遠いな……」


 俺が本に命じて行ける街まで移動してもまだ遠い。十年前の情報を求めて向かったところで、得られるものがあるとも限らない。面倒だな、と顔を顰める俺の表情をどう受け止めたのか、男は大きく頷く。


「ひ、人は多いが、夢のない町だ。今も変わらないだろう。ほぼ全員が生まれて死ぬまで一度も町を出ない。余所から来るのは物売りばかり。住民は皆、生まれた家の仕事を継ぎ、死ぬまでその仕事に従じる。つまらない町だ。だが私は本を手に入れ」


 そんな田舎町の内情には一欠片も興味はないのだが、引っかかるものはあった。またも聞いていないことを語ろうとする男を遮って質す。


「何故この街だった」


「え?」


「生まれて死ぬまでその町を出ないはずだったお前が、本を手に入れて人生が変わった。それはいい。よくある話だ。だが、何故この街だった。縁などないだろう。偶然行き着くには遠過ぎる」


 本で瞬間的な移動をしようにも町から出たことがなかった男にはできなかったはずだ。本に命じれば空を飛ぶこともできなくはないが、本を開いたままでいなければならない制約がある以上、長距離飛行は安全とは言えない。徒歩なら休みなく歩き続けても数ヶ月は掛かる距離だ。


「それは」


 男は言葉を切り、記憶を辿るように瞳を巡らせる。


「た、確か……行商に助言されたのだ。生まれ故郷に嫌気がさしていた私に行商は親身になってくれた。『それなら本の力を利用して理想の街を創れ。規模も立地もおすすめの街がある』と言われて、次の瞬間には行商とともにこの街にいた」


 つまり、行商が本を使って男をこの街へ連れてきたのだろう。男が行商に名を知られていたのならそれも容易だ。


「なら、何故『神子』だ。お前が『神』になろうとは、本があればそれができるとは、考えなかったか」


「も、もちろん考えたが、『本で他人を支配するには制約も限界もある。それよりも信憑性のある宗教を興し、自発的信心による支配を促せ。本は信心を煽る小道具に使え』と行商に奨められて、なるほどと思い直した」


「そのための『聖典』と『神子』か」


「そ、そうだ。本の力を借りず私が神を名乗ったところで誰一人として信じはしない。『宗教的な信憑性は神秘性に宿る』と行商も言った」


 結局のところ、この男がこの街へ来たことも、宗教を興したことも、すべて行商の為すがまま、言うがままだったということだ。男が疑問を挟む余地などなかったのだろう。男が行商に名を知られていたのなら、それもまた、町から街への移動と同じく、容易だ。本を開き、名を呼び、命じればいい。

 男は自覚のないまま、行商の思惑どおりにこの街に根を張ったのだろう。

 ではその『行商の思惑』とは、なんだ。新たに浮かんだ疑問に重ねるように男の言葉が続く。


「だから、『神子』を用意してくれた」


「用意?待て。『神子』の出自にも行商が絡んでいるのか」


「そ、そうだ。私が本に『祝福の言葉』を書き連ね『聖典』に仕上げるまでの一年、行商は街で商売をしながら待っていてくれた。そしてついに『聖典』が完成した日、祝いだと言って赤子を連れてきた。『神の子として祀れ』と。人身の受け渡しなど恐ろしかったが、見ればそれは確かに神秘的な赤子だった」


 子供が視界の端で身動ぎする。祭壇から降りようというのか、衣擦れの音が続く。




「オイ、あまり不用意に動くな」


 私の身を案じてくれているのだろう男性が声をかけてくるが、私は止まらない。止まれない。男性の向かい、転がり臥したまま床に腕を突き頭だけ上げている神学師の傍に歩み寄り、尋ねる。


「私は何者ですか」


「それは後で好きなだけ質せ。今は俺が」


 男性が今度は自らの都合で私を止めようとする。それでも私は譲れない。


「どうかこれだけ。お願いします」


 頼めば、男性は眉間に皺を寄せ、息を吐いて、立ち上がり、一歩退いてくれた。

 神学師は私を見ない。もう一度尋ねる。


「私は、何者ですか」


「……」


「行商が連れてきた赤子とは私のことでしょう」


「……」


「答えてやれ。話が進まん」


 痺れを切らせたのは男性だった。神学師の頭を足で小突く。神学師は一瞬、屈辱に顔を歪めるが、恐怖が勝ったらしく、それでもやはり私を見ないまま、小さく吐き捨てるように答える。


「貧しい夫婦が日銭のために行商に売り渡した赤子だと聞いた。体色や体毛の色は行商が本に命じて抜いたそうだ。その白は生まれつきなどではない。お前はただの人の子だ」


「──」


 売られた悲哀。歪められた憤怒。それでも、人の子であるという、歓喜。そのとき私の胸中に溢れ返った感情は、複雑に過ぎた。これほどの激情を私は知らない。


「わっ、私の父母は今どこに」


「死んだ」


 即答だった。


「何故それを知っているのです」


「……」


 神学師は答えない。

 不意に、ラインハイトの、ブーホの、スカルツォの名が、顔が、浮かぶ。


「貴男が」


 今までは神子という存在の罪深さに直面するようで質すことができなかった。だが、今となっては、私になんの罪がある。


「貴男が殺したのですか」


 神学師は答えない。



 子供の置かれた境遇は、哀れではある。目の前の男と、それを過去に操った行商に、人生を台無しにされたのだ。混乱も怒りも一入だろう。

 されど、たった十年だ。


「もういいか」


 充分に待った。そう判断して男を注視する子供に声を掛ける。こちらに顔を向けた子供を見れば、恨めしげな目と目が合う。


「まだもう少し。肝心な答えを聞いていません」


「お前の一番知りたかった答えは聞けたろう。お前は人の子だ。それ以上は俺の用が済んだ後に──」


──してくれ、と、続くはずだった言葉は、突然の破裂音と衝撃に途切れる。

 咄嗟に男に視線を戻す。俺が視線を外した隙に取り出したのだろう、男の手には、鉄の筒が握られている。つい昨日、俺の頭を撃ち抜いた山賊が使っていた拳銃と比べればかなりの小振りで、衣服の隙間に隠しておくような護身用の類だろう。

 どうやら俺は胸部を撃たれたらしい。


「な、なん……なんてことを……ッ!」


 子供が目を剥いて男を糾弾する。対する男は肩を震わせている。慄いているのではなく笑っているのだと気付いたときには、男は身体を起こし、俺の胸部へ二度、三度と銃弾を浴びせている。


「いつか来るものと分かっていてなんの対策もしていないと思ったか『悪魔』め!!どうだ銀の弾丸は!ふはっ、ふははははっ!!」


「くだらんな」


 勝ち誇る男に腹の底から溜め息が出る。俺は撃たれた数カ所を手で叩く。キンッ、キンッ、と床に落ちるのは、黒い血にまみれた弾丸だ。


「は──はっ?」


「鉛も銀も変わらん。せめて顔面を狙う根性を用意しておくんだったな」


 頭を撃ち抜かれれば脳を修復するまで暫くは動けない。本を開けたまま保持しておくことも難しい。それならば今この場でも銃撃の意味はあったろう。

 しかし、胸部ならばなんの支障もない。服に穴はあくが、傷はすぐに塞がるし、軽く叩けば弾は残らず地面へ落ちる。



 我が目を疑った。一度ならず二度だ。

 一度目は、神学師が護身用に身につけていた拳銃で男性を撃ったことに。

 二度目は、確かに撃たれた男性が平然としていることに。


「な、何が……どうなって……??」


 神学師を見れば私以上に驚愕している様子で、ならば男性に説明を求めようと目を向けると、やはり一人平然としている。


「防弾性の衣服、では、ない、ですよね」


「そうだな」


 何せ、男性の衣服には紛れもなく撃たれた場所に穴があいている。その穴から滴る血液が黒く見えるのがまた疑問を誘うが、とにかく、血が流れているということは、神学師の放った弾丸は命中し、男性の身体に穴をあけた。それは間違いない。それでも、男性は平然としている。

 躊躇しつつ、私は尋ねる。


「貴男は……その、不死、なのですか」


「生憎、今はな」


 実に、それはそれは嫌そうに、男性は肯定する。


続く

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