第8話 売買
■
本を開いたまま、俺は足元に転がってきた男を見下ろす。這いつくばった男は俺を見上げ、絶望に顔を歪め、首をゆるゆると横に振る。
「っ……ぅ……あ……ゆ、赦してく」
「俺がいつ赦しを乞えと言った」
男の言葉を遮って尋ねると、男は唸るように続く言葉を呑み込む。
「俺が聞いているのは、いつ、どこで『聖典』を手に入れたか、それだけだ。答えろ」
「……せ、聖典は──」
俺の要求に男は口を開きかけ、しかし、『神子』が聞いていることを気にするように一瞥する。この男は、この街に築き上げた仮初めの神秘をまだ諦めていないらしい。この往生際の悪さは実に好ましい。が、そろそろ面倒になってきた。
「聞くのはもうこれで三度目だ。四度目はない。言え」
俺は男の目の前にしゃがみ込む。無論、本は開いたままだ。
「分かっているとは思うが、事実を話す以外でどうにかなるとはもう思わないことだ」
純然たる親切心で男に言い含め、俺は本に命じる。
「嘘を吐いたら、逃亡をはかったら、赦しを乞うたら、四肢をねじ切れ。ただし、殺すな」
「っ!?待っ、話す!ちょ……ちょうど十年前、ここから遠く離れた田舎町で行商から買ったのだ!」
◇
「……買った……?」
それは衝撃的な一言ではあった。ただどこかで、腑に落ちるような心地もした。私は神の子ではない。ならば聖典も、聖典ではない。それを証すように聖典はもはや中身さえ消えた、白紙の本だ。
動揺する私に気付いたのか、男性が声を掛けてくる。その目は神学師を捕らえたままだ。
「オイ、この男の名が分からない以上、本への命令はお前にも及ぶからな」
『本への命令』。その意味はあまりよく分からないながら『悪魔の書』という男性の言葉を思い出し、そして神学師が震え上がって聖典の出所を白状する直前に男性が発した言葉──命令を思い出し、私は震える。
「そう、なんですか」
「そうなんデスヨ。いいか、俺が本を閉じるまでは不用意な言動はするなよ」
私の無知さに呆れながら男性が念を押してくる。男性の目的は不明だが、積極的に私を害するつもりはないのだろう。しかし、一つ、疑問が浮かぶ。
「でも、先ほどは特に何もありませんでした」
「逃げようとするコイツを本に連れ戻させたことを言っているのか」
「はい」
男性が本を開いた途端に神学師は逃げ出し、男性が『連れ戻せ』と言ったら神学師は突き飛ばされたように飛び、転がり、戻ってきた。あれもきっと、『本への命令』によって起きた出来事だったのだろう。しかし、私には何も起きなかった。名指ししない限り私にも『本への命令』が及ぶなら、先ほどとて私も神学師と同じ目に遭っていたはずではないのか。
私の疑問に、詳しい説明をする気があまりないのか、男性の説明は簡潔だった。
「お前は連れ戻す必要がある動きをしていなかったろう。だからだ」
「あ」
理解した私に男性は繰り返す。
「分かったのなら、下手に動くな。話すな。いいな」
確かに男性は恐ろしい脅しを今まさに神学師に対して行っていて、私もその危険に巻き込まれているとはいえ、思わず私はにこりと笑う。この男性を神学師は『悪魔』と呼ぶが、私を害さないよう繰り返し念を押してくる彼が、それほどまでに悪い存在とはどうしても思えない。
「大丈夫です。私には、ここで嘘を吐く理由も、ここから逃げ出す必要もありませんし、それに、ここには、私が赦しを乞いたい相手もいませんから」
それは多分に、神学師への皮肉を込めた言葉だった。私が神学師に皮肉を言える日が来るなど、今朝までは思いもしなかった。
私の小さな感動が伝わったのかどうなのか、やはり神学師から目を離さないまま、男性は空気を切り替えるように小さく息を吐く。
■
忠告だけしておくつもりが始まってしまった『神子』の、いや、子供の質問タイムに内心げんなりしつつ、しかしおかげで何も知らない子供を何も知らせないまま巻き込むことがなくなったことに僅かばかりあった罪悪感を拭われて、俺は本題に戻る。
「その行商はなんと言って本を売っていた」
「ひ、開いて命じればなんでも叶う万能の本だ、と」
「そんな物、売らずに自ら使えば行商などせずとも暮らせるだろう」
「そ、そうだ、私も最初はそう疑って相手にしなかった。だが、『売るほどある。それに、持っているといつか悪魔がやってくる。だから早いところすべて売っ払いたい』そう言って、一冊だけでいいから買ってくれと」
「『売るほど』か」
加えて『いつか悪魔がやってくる』だ。間違いない。この男が買ったのは、そしてその怪しげな行商が売っていたのは、転売や盗品の類ではない。つまり、その行商は行商ではない。
やっとだ。見つけた。手掛かりだ。こみ上げてくる笑いを抑える。
「何冊売っていた」
「えっ?い、いや、十か、それ以上か、たくさん積まれていた。積んであったほかにもあったかもしれない。正確な数は分からない。ほ、本当だ」
「本当かどうかはお前の四肢の無事を見れば分かる。疑いながらも何故買った」
「た、試しに使わせてもらったのだ、その場で。『なんでも』というのは誇大広告だった。『金を出せ』と命じても何も出なかった。物欲を満たすためには使えそうになかった。が、コツを聞いて、火を起こしたり、遠くの物を手元へ寄せたり……とても……なんというのか……」
「便利だったか」
「あ、ああ、そうだ。便利だと感じた」
心当たりはある。俺も、便利だから、どれほど忌々しく思っても使い続けている。ささやかな便利さというものには抗えないだけの価値がある。
理解を示した俺を察したのか、当時を思い出して興が乗ったのか、男がきらりと瞳を輝かせる。
「き、期待したような万能感はなかった。だが、見えない巨人や妖精が力を貸してくれているかのような、魔法使いにでもなったかのような、不思議な心地よさがあった」
いやに夢見がちな表現に失笑する。今はまだ問題ないようだが、興が乗り過ぎて話を盛った瞬間、その『見えない巨人や妖精』とやらに四肢をねじ切られる状況だということを忘れてしまったのか。まだ聞きたいことがあるのに痛みに苦悶されては困る。
「聞かれたことにだけ答えていろ」
男が慌てて口を噤んだのを確認し、俺は詰問を続ける。
◇
口調の軽くなってきた神学師に対して釘を差す男性は、神学師の身もそこまで手酷く害する気はないのではないか。そう思った矢先、男性は、ああ、と何かに気付いたように神学師に問い掛けた。
「お前の名は」
「え」
これ以上ないほど蒼白していると思っていた神学師の顔から、ザッと音がしそうなほど血の気が引く。『本を持つ者に名を知られるのはリスクが高い』と男性も言っていたが、それほどまでの危険があるのか。不用意に街の人々の名を口にする私を咎めてきた神職者達はどこまでその危険性を知っていたのだろう。
少なくともこの神学師は知っていた。知っている。だから今、恐怖している。
しかし男性は気にも留めない。
「このままお前の自由に話させるより手っ取り早い。名は」
「っ、わ、私の、名は……、……、……」
黙り込んだ神学師を男性は愉快げに見下ろす。
「ほう、賢いな。確かに黙秘は禁じていなかった」
まあいい、と男性はまた聖典に関する──いや、不思議な力を持つ黒い本に関する問いに戻る。
「その行商の特徴は」
「と、特徴……」
名乗らないことは許したが、それ以外の問いに口ごもる神学師を男性は許さない。
「全てに黙秘するつもりならやめておけ。次の瞬間に四肢がねじ切れるかもしれない恐怖に耐える地獄が永遠に続くだけだ」
「ち、違う、答えるつもりはある。し、しかし、あまり記憶に残っていないのだ。く、黒い服を着ていた、気は、する……顔は……特徴のない……いや、目深にフードを……?」
記憶を掘り起こしているのか神学師は茫洋と続けるが、男性は曖昧な情報には興味がないのだろう、途中で問いを変える。しかし、
「性別は」
「男、だったと……いや、女だったかもしれない」
「目の色は」
「暗い色だった気はするが……」
「肌の色は」
「小麦色……?焼けた黄色……待て、赤らんだ白だったか……?」
始終、こんな具合だった。神学師の四肢が無事な以上、嘘はない。男性は嘆息する。
「記憶を消されたか」
「?き、記憶を……?」
「お前がこの子供からお前の名を消したのと同じことだ。お前、その行商に名を教えたんだろう」
「……」
神学師は否定しない。やはりそうなのか。可能なのか。名を知るだけで、そういったことも可能になってしまうのか。事実の衝撃を受け止めようと努める私の前で、男性は男性で落胆したように息を吐く。
「なら、どこの町だ。その行商に遇った田舎町の場所を教えろ」
「あ、ああ、それなら、分かる」
神学師は大きく頷いて、私の知らない、遠く離れたどこかの地理を男性に説明する。
続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます